2016-05-29

"富嶽百景・走れメロス 他八篇" 太宰治 著

おいらは、「走れメロス」を一度も読んだことがない。なのに、これほど筋書きを知っている小説があろうか。それは、待つという行為に焦点を合わせたもの。作品そのものより、こんな逸話の方を知っているとは、なんとも奇妙である。

... 太宰は執筆のため熱海の宿を借りた。金を使い果たしたことを妻に伝えると、壇がお金を持ってきてくれた。その日のうちに、二人は酒を飲んで金を使い果たしてしまう。ミイラ取りがミイラになったとさ。太宰は宿代が払えず、金を借りに単身東京へ帰るが、何日待っても戻ってこない。しびれを切らした壇が東京へ帰ると、なんと太宰は借金を言い出せずに、井伏の家で将棋をさしていたという。怒った壇は、太宰から思いがけぬ言葉を耳にする...
「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。
 この言葉は弱々しかったが、強い反撃の響きを持っていたことを今でもはっきりと覚えている。」
... 檀一雄「小説 太宰治」より

「走れメロス」は、明るい友情物語として親しまれている。だが、それは太宰の本意であったのか。信頼されているから裏切れないとすれば、信頼されていなければ裏切れるというのか。ここには、ある種の見返りの原理が働いている。太宰にとって、正義だの、誠実だの、友情だの、権威だの、名誉だの... すべて通俗で嘘っぱちだったのか。そして、崇高な世界観も、自然な芸術も、彼自身の文体も... だから、虚無な自我を抹殺せずにはいられなかったのか...
太宰は、百四十近い短編を残し、四十で死んだ。小説でも書いていなければ、やってられない人生とは、いかなるものか。自我を肥大化させた結果なのか。理想が高すぎるが故の結末か。芸術家だから余計に感じるのかもしれない。凡人は目の前の幸せにすら気づかないでいる。醜い自我を曝け出さなければ、自惚れ屋でなければ、狂うほどのものがなければ、小説なんて書けやしまい。出来の悪い子ほど可愛いというが、出来の悪い自我ほど可愛いものはない。可愛がるからこそ、出来が悪いのかもしれんが...

本書には「魚服記」、「ロマネスク」、「満願」、「富嶽百景」、「女生徒」、「八十八夜」、「駈け込み訴え」、「走れメロス」、「きりぎりす」、「東京八景」の戦前の十作品が収録される(岩波文庫)。どの作品も比喩や暗示が効いていて、なんとも煮え切らない、いや、見事な思わせぶり。そして、やがて辿り着く人間失格を予感させる。漠然とした不安とは、文学への殉教であったか...

1. 魚服記
本州北端の梵珠山脈に、馬禿山というのがあるそうな。麓を流れる滝では、夏の末から秋にかけてよく紅葉し、人々で賑わうという。父と娘が、この地に移り住んできたのは、娘スワが十三の時。二人は炭小屋に住む。父は滝壺のわきに小さな茶店を開き、店番はスワの役目。黄昏時に父が迎えに来ると、いつもの平凡な会話をする。「なんぼ売れた... なんも...」
ある日、スワは滝壺の傍に佇み、昔、父親が話したことを思い出す。それは、三郎と八郎という木こりの兄弟の物語。弟の八郎が魚をたくさんとって帰ると、兄の三郎が帰らぬうちに一匹食べ、二匹三匹と食べてはやめられず、全部食ってしまう。そして、喉が渇いて井戸の水をすっかり飲み干すと、体中に鱗が吹き出て、大蛇になってしまった。三郎が帰ってきて「八郎やぁ」と呼ぶと、大蛇が涙をこぼして「三郎やぁ」と答えたとさ。
さて、この日も父が迎えに来ると、「なんぼ売れた」と聞く。だが、スワは答えない。まことに木こりの兄弟の会話のごとく、虚しさを感じるのだった。そして帰り道...
スワは父に聞く、「お父(ど)。おめえ、なにしに生きでるば。」
父は肩をすぼめて答える、「わからねじゃ。」
スワは厳しい顔で言う、「くたばったほうあ、いいんだに。」
父は、ぶちのめそうと思ったが、こらえて受け流した、「そだべな、そだべな。」
スワは、その返事が馬鹿くさくて怒鳴る、「あほう、あほう。」
盆が過ぎて茶店をたたむと、父は炭を背負って村へ売りに出かけ、スワは一人残って茸を採りに行く。父は、炭や茸がいい値で売れると、決まって酒臭い息をして帰ってくる。この日は、木枯らしのために朝から山が荒れていた。父は早暁から村へ降りていき、スワは一日中小屋へ籠もっていた。夜になり、うとうと眠っていると、白いものが舞い込む。初雪である。疼痛!身体がしびれるほど重い。おまけにあの臭い息。
スワは「あほう。」と叫んで外へ出た。吹雪の中、滝に吸い込まれるように歩き、低い声で「お父(ど)!」と言って飛び込んだ。気がつくと辺りは薄暗く、滝の響きが頭の上でかすかに感じられる。ここは水底、スワは大蛇になってしまったのだと思った。「うれしいな!もう小屋へ帰らなくていい」と言うと、口ひげが大きく動く。スワは大蛇ではなく、鮒になって泳ぎまわっていた。そして、滝壺へ吸い込まれていく。太宰の運命となる入水自殺を暗示するかにように...

2. ロマネスク
三つの物語の共演...
「私たち三人は兄弟だ。きょうここで会ったからには、死ぬとも離れるでない。いまにきっと私たちの天下が来るのだ。私は芸術家だ。仙術太郎氏の半生と喧嘩次郎兵衛氏の半生とそれから僭越ながら私の半生と三つの生きかたの模範を世人に書いて送ってやろう。かまうものか。うその三郎のうその火炎はこのへんからその極点に達した。私たちは芸術家だ。王侯といえども恐れない。金銭もまたわれらにおいて木の葉のごとく軽い。」

一つ目の物語「仙術太郎」
津軽の庄屋、鍬型惣助は、幼い息子の太郎の発する言葉から、預言者としての能力を信じる。親馬鹿か。太郎は、仙術の本に没頭する。蔵の中で一年修行し、ようやくネズミと鷲と蛇になる術を覚えた。とはいえ、単にその姿になるだけのことで別段面白くもない。惣助はもはや我が子に絶望していた。それでも負け惜しみに、出来過ぎた子なのじゃよ!
太郎は、津軽一番の男になりたいと念じ、十日目に成就する。だが、鏡を覗いて驚く。色が抜けるように白く、頬はしもぶくれで、もち肌、目は細く、口ひげがたらりと生えている。それは天平時代の仏像の顔であって、しかも股間の逸物まで古風にだらりとふやけている。仙術の本が古すぎたのだ。古風な二枚目は現代の間抜け面、これでは女にモテない。おまけに、仙術の法力を失って元に戻れない。太郎は絶望し、村から出て行く。あらゆる欲望が無欲の境地へ導き、ついに、人間であることを飽きさせるものであろうか...
「太郎の仙術の奥義は、ふところ手して柱か塀によりかかってぼんやり立ったままで、おもしろくない、おもしろくない、おもしろくない、おもしろくないという呪文を何十ぺん何百ぺんとなくくりかえしくりかえし低音でとなえ、ついに無我の境地にはいりこむことにあったという。」

二つ目の物語「喧嘩次郎兵衛」
醸造業を営む鹿間屋逸平の長男は世事に鈍く、己の思想に自信が持てず、父の言うとおりに生きた。次男の次郎兵衛は兄と違い、是々非々の態度を示す傾向があり、商人根性を嫌った。それだから、ならず者と評判される。次郎兵衛は、二十二歳の時、喧嘩上手になってやると意気込む。馬鹿な目にあった時は、理屈も糞もない。ただ力が正義!
まず、喧嘩は度胸。次郎兵衛は、度胸を酒でこしらえる。次に、ものの言いよう。喧嘩の前には気のきいたセリフが欲しいと日夜訓練。そして、いよいよ喧嘩の修行に励む。彼は武器を嫌った。卑怯だから。殴る時の拳を研究した挙句、殴り方にもコツがあることを発見する。また、自分の身体を隅々まで殴ってみて、眉間と鳩尾(みぞおち)が急所であることを知る。男の急所を狙うのは、やはり卑怯。
父は、次郎兵衛が何かしらの修行をしていることに気づき、大物になったように感じ、火消し頭の名誉職を継がせた。しかし、名誉が与えられると、皆から慕われ喧嘩の機会が減る。やけくそで背中に刺青をすると、ならず者にまで敬われ、完全に喧嘩の望みが絶たれる。
ある日、妻の酌で酒を飲みながら、俺は喧嘩に強いんだぞ!とじゃれてみせ、妻を殺してしまった。次郎兵衛は、牢獄で念仏ともつかぬ歌を、憐れなふしで口ずさむ。
「岩にささやく 頬をあからめつつ おれは強いのだよ 岩は答えなかった」
人間ってやつは、自分の能力を誰かに認めてもらいたくてしょうがいないもの、つまらぬ見栄のために墓穴を掘る...

三つ目の物語「うその三郎」
宗教学者の原宮黄村の息子、三郎は父の蔵書を次々に売却し、六冊目に見つかり折檻された。泣く泣く悔悟を誓うが、これが嘘の始まり。
三郎は、隣家の愛犬を殺した。ある夜、犬はけたたましく吠え、父は三郎に見に行ってこい!と命じる。犬がじゃれつき、甘ったれた様子に憎悪を抱いて、石を投げつけると、頭に命中して死んだ。そして、犬は病気で明日死ぬかもしれません、と報告した。
三郎は、遊び仲間を橋から突き落として殺した。理由はない。拳銃を持てば、ぶっ放したくなる発作と似た気分に襲われた。そして、友人が川に落ちたと叫んで泣きじゃくり、人々の同情を引く。葬儀にも平然と参列した。
人に嘘をつき、己に嘘をつき、犯罪ですら美化し、とうとう嘘の塊と化す。「人間万事嘘は誠」
父、黄村が死んだ。遺言には、こう書かれていた。
「わしはうそつきだ。偽善者だ。... わしは失敗したが、この子は成功させたかったが、この子も失敗しそうである。」
三郎は、ハッとする。見透かされたか。三郎の罪は、幼き頃の人殺しから始まった。父の罪は、己の信じきれない宗教を人に信じさせたことにあった。重苦しい現実を少しでも涼しくしようと、人は嘘をつく。適量を越えると、さらに濃度の高い嘘をつく。まるで麻薬だ。嘘の技術は切磋琢磨され、やがて引け目を感じることもなくなり、自我の中で真実の光を放つ。もはや、無意識無感動の痴呆の態度に救いを求めるしかない。しかし、これも嘘だ。嘘のない人生なんてあるものか...

3. 満願
恐ろしく短い、超短編小説... 小説「ロマネスク」を書いていた頃のエピソード。
ある夜、酔って自転車に乗り、怪我をした。傷は浅いが、出血が酷く、慌ててお医者さんに駆けつける。町医者も同じくらい酔っていて、ふらふらと診察室に現れたので、互いに大笑いする。その夜から、二人は意気投合。
医者の家では、五種類の新聞をとっていて、毎朝、読ませてもらうために散歩で立ち寄る。その時刻に、薬を取りに来る若い女性。医者は、「奥さん、もうすこしの辛抱ですよ!」と大声で叱咤する。旦那さんは三年前に肺を悪くしたが、だんだん良くなっている様子。
そして八月の終わり、奥さんが白いパラソルをくるくる回して歩き、その姿が一段と美しく見える。すると、医者の奥さんがささやく。
「今朝、おゆるしが出たのよ!」
おゆるしとは、なんだ?夫婦生活のことか。
「あれは、お医者の奥さんのさしがねかもしれない。」
あれとはなんだ?医者の奥さんも欲求不満を愚痴って、早くおゆるしを出してあげなさいよ!ってか。執筆で苦慮するもやもやさを、性欲のもやもやと重ねたような物語であった...

4. 富嶽百景
御坂峠の頂上には天下茶屋という小さな茶店があるそうな。昭和十三年の初秋、思いを新たにする覚悟で甲州へ旅に出た。井伏鱒二が初夏の頃から、この二階に籠って仕事をしていることを、知っていたからである。この方面からの眺めは富士三景の一つに数えられるが、あまり好きではないという。それどころか軽蔑していると。
「富士には月見草がよく似合う... 富士なんか、あんな俗な山、見たくもない、高尚な虚無の心...」
井伏が帰京すると、今度は太宰が九月から十一月まで、御坂の茶屋の二階で仕事をした。富士三景とへたばるほどの対話。どうも俗だねぇ。お富士さん...
太宰は、世間を恐れていたのか?それとも人間を恐れていたのか?富士はみんなが崇める存在、だから反発しているのか。心を癒やすために他の山に登っても、甲州のどの山からも富士が見え、却って気が重くなる。
しかしながら、さんざんコケにした富士を、いつの間にか心のつぶやきの相手にしている。お富士さんに化かされ、妥協し、頼みの相手とし... 弄ばれているのは、いったいどっちだ。
「世界観、芸術というもの、あすの文学というもの、いわば、新しさというもの、私はそれらについて、まだぐずぐず、思い悩み、誇張ではなしに、身もだえしていた。」
十一月になると、外套を着た若い娘二人が訪れた。シャッターを切ってくださいな!都会風の女性から頼まれて、狼狽する。だが、レンズを覗くと、二人をレンズから追放して、こっそり富士山だけを撮った。現像したら驚くだろうなぁ... 次の日、山を降りた。冗談でもやってなきゃ、生きちゃおられん...

5. 女生徒
女性の独白体は、太宰文学のお家芸とう評判を聞いた。なるほど、文体のリズムはお見事!
主人公は、お茶ノ水のある女学校に通う少女。彼女にとって朝は、かくれんぼの時、押入れの中で隠れていて、突然、襖をあけられ、みぃつけた!と大声で言われるような、ちょっと照れくさい感じ。いや、もっとやりきれない虚無な世界。悲観的で、後悔するばかりの毎日。
父の死を考えると不思議に思えてくる。死んでいなくなるということは、どういうことか。平凡な日常で哲学するものの、苦労知らずでポカンと生きていれば、感受性の処理がおぼつかない。
大人たちは、もっともらしいことを言う。宗教家は信仰の大切さを説き、政治家は正義を声高に唱え、作家は気取った言葉を用い、教育家はいつも恩、恩、恩...
批判しても責任は持たない。本当の意味の自覚、自愛、自重がない。本当の意味の謙遜がない。みんな同じことを言っているだけ。独創性に乏しく、模倣があるだけ。上品ぶっても気品がない。しかし、そんな大人たちの態度が、自分にそっくりなことに気づいていく。
「自然になりたい。すなおになりたい。... 本なんか読むのやめてしまえ。観念だけの生活で、無意味な、高慢ちきの知ったかぶりなんて、軽蔑、軽蔑。」
感傷に浸っても、自己愛を慰めているだけ。本当の自由は、いったいどこにあるの?過去、現在、未来を重ねながら、心の準備が整わないまま大人になっていく。素直に生きる難しさと、卑屈に生きる現実。こうしたものをひっくるめて、漠然とした不安として描かれる。情緒不安定で自省的な心を、懐かしんで書いているような...

6. 八十八夜
作家の笠井さんは、信州へ旅に出た。痴呆症のごとく。分かっているのは、一寸先は闇だということだけ。人生とは、それが望むものでないとしても、前に進むしかない。認識能力がエントロピーに支配されている以上、油断は禁物。必死に生きていくか、必死に死んでいくか、他に選択肢はない。いや、もう一つだけある。死んでいるかのように生きること。卑屈に、静かに狂気を謳歌すること。まるで死神よ。
「非良心的な、その場限りの作品を、だらだら書いて、枚数の駈けひきばかりして生きて来た。芸術の上の良心なんて、結局は、虚栄の別名さ。浅はかな、つめたい、むごい、エゴイズムさ。生活のための仕事にだけ、愛情があるのだ。陋巷の、つつましく、なつかしい愛情があるのだ。」
過去をすべて捨て去ることができたら、幸せになれるだろうか。しかし、笠井さんは、過去を捨て去ったわけではない。
去年の秋、諏訪の温泉で下手な仕事をまとめるためにお世話になった女中さんが忘れられない。秘かに期待を膨らませるアバンチュール!旅館に着くと、女中の声がさわやかに響く。浴場で泳いだ。バックストロークまで敢行した。そして、酒をくらった。ベロンベロン!女中さんが寝床を敷いてくれたが、ゲロを吐いた。すぐに敷布を換えてくれた。もう紳士ではありえない。これもロマンス?
翌朝、女中さんと顔を合わし、いたたまれない。羞恥や後悔などそんな生ぬるいものではない。死んだふりをしたい。だが、女中さんは爽やかに応じてくれた。玄関では、女将をはじめ女中さんたちが、笑みでお見送り。その中を、逃げるように旅館を去っていく。
「世界の果てに、蹴込まれて、こんどこそは、いわば仕事の重大を、明確に知らされた様子である。どうにかして自身に活路を与えたかった。暗黒王。平気になれ。まっすぐに帰宅した。お金は、半分以上も、残っていた。要するに、いい旅行であった。皮肉でない。笠井さんは、いい作品を書くかもしれぬ。」

7. 駈け込み訴え
キリストへの思いを、イスカリオテのユダに代弁させる。ただ愛が欲しいと...
あなたは、いつも優しく、いつも正しく、いつも貧しい者の味方で、いつも輝くばかりに美しかった。だが、先に逝ってしまわれた。無責任だ!無報酬の純粋な愛を受け入れよ、薄情な主よ!
宗教で何が救われるというのか?あなたに殉ずる他に何が出来るというのか?俗界は、人間には危険過ぎる。弱い卑屈な心が肥大化すると、もう手がつけられない。自我に対してですら復讐の鬼と化す。天国へ来い!ペテロも来い、ヤコブも来い、ヨハネも来い、みんな来い!俗世から足を洗おう。足だけ洗えば、みんな汚れのない清い身体になれる。
「ペテロに何ができますか。ヤコブ、ヨハネ、アンデレ、トマス、痴(こけ)の集り、ぞろぞろあの人について歩いて、背筋が寒くなるような、甘ったるいお世辞を申し、天国だなんてばかげたことを夢中で信じて熱狂し、その天国が近づいたなら、あいつらみんな右大臣、左大臣にでもなるつもりなのか、ばかな奴らだ。」

8. 走れメロス
「メロスは激怒した。必ず、かの邪知暴虐の王を除かなければならぬと決意した。」

(M: メロス, D: ディオニス王)
M: 市を暴君の手から救うのだ。
D: おまえがか?しかたのないやつじゃ。おまえなどには、わしの孤独の心が分からぬ。
M: 人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑っておられる。
D: 疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私欲のかたまりさ。信じては、ならぬ。... わしだって、平和を望んでいるのだが。
M: なんのための平和だ。自分の地位を守るためか。罪のない人を殺して、何が平和だ。
D: 口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹わたの奥底が見え透いてならぬ。
D: 三日目には日没までに帰って来い。遅れたら、その身代りを、きっと殺すぞ。ちょっと遅れて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。はは。命が大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、分かっているぞ。

ディオニス王の台詞の方が、説得力を感じるのは、おいらの心が歪んでいる証であろうか。おっと!今度は、メロスの台詞に説得力を感じている。
「正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬるかな。」

そして、ついにディオニス王の台詞で赤面してしまう。いや、こそばゆい。
「おまえらの望みはかなったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」

9. きりぎりす
この作品でも女性の独白体を魅せつける。三行半とは、建前では夫から妻への離婚状とされるが、実はこれが真髄か!貧乏暮らしの時代、夫は天使のような存在であった。しかし、夫が名声を得ると、妻はぞんざいに...
「孤高だなんて、あなたは、お取り巻きのかたのお追従の中でだけ生きているのにお気がつかれないのですか。あなたは、家へおいでになるお客様たちに先生と呼ばれて、だれかれの絵を、片端からやっつけて、いかにも自分と同じ道を歩むものはだれもないような事をおっしゃいますが、もしほんとうにそうお思いなら、そんなにやたらに、ひとの悪口をおっしゃってお客様たちの同意を得る事など、いらないと思います。あなたは、お客様たちから、その場かぎりの御賛成でも得たいのです。なんで孤高な事がありましょう。」
妻が一人で寝ていると、背中の下でコオロギが賢明に鳴いている。泣いているのは妻か。いや、夫か。
「この世では、きっと、あなたが正しくて、私こそ間違っているのだろうとも思いますが、私には、どこが、どんなに間違っているのか、どうしても、わかりません。」

10. 東京八景
「東京八景。私は、その短編を、いつかゆっくり、骨折って書いてみたいと思っていた。十年間の私の東京生活を、その時々の風景に託して書いてみたいと思っていた。私は、ことし三十二歳である。日本の倫理においても、この年齢は、すでに中年の域にはいりかけたことを意味している。また私が、自分の肉体、情熱に尋ねてみても、悲しいかなそれを否定できない。覚えておくがよい。おまえは、もう青春を失ったのだ。もっともらしい顔の三十男である。東京八景。私はそれを、青春への訣別の辞として、だれにも媚びずに書きたかった。」
作家にとって書きたいものを書くということは、意外と難しいものらしい。注文がこなければ、書きたいものも書けない。恐ろしいことは、書きたいものがなくなること。さらに恐ろしいことは、何も書けなくなること。
この作品は、太宰治の経歴が一望できる。パビナール注射の副作用から悪癖を覚えて中毒になり、人間失格へまっしぐら。
しかしながら、文学作品としては、らしくない。淡々と綴られる様子にちょっと拍子抜け。主人公が自分自身では思うように書けないのか?誰かに置き換え、仮面をかぶらないと、面白く書けないのか?いや、トリを飾る作品として期待が大き過ぎたのかもしれん。いやいや、ここまで読み進めて、ついに読者の方が精神破綻を起こしちまったのかもしれん...

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