2016-06-05

"新文章読本" 川端康成 著

立ち読みをしていると、吸い込まれるように手にとってしまう類いに、文章読本ってやつがある。小説家たちが名文を集めて解説を施した文章論である。
なぜ、こんなものに?文章をうまく書きたいという意識が、心のどこかに残っているのか?義務教育の時代、文章力の欠如は既にお札付き。作文の悪い例として皆の前で読まれ、以来、国語は大っ嫌いになり、成績は常に学年最下位。諦めの境地は、開き直りの境地にある。そんなおいらでも、文章を書くことは嫌いではない。まず、いかに読むかを問う三島由紀夫版を、次に、いかに書くかを問う丸谷才一版を、そして、本格派の誉れ高い谷崎潤一郎版を手にとってきた。
「文は人なり」とはビュフォンの言葉だが、川端は「文章は人間の命」と書いている。本書には、技巧や技術といったものが見当たらない。理論的文章論では語れない文章論があると言わんばかりに...
「文章の不可欠の要素について... すなわち、調子、体裁、品格、含蓄、余韻等についても、説明すべきことは多い。しかし一面また思えば、少なくとも小説の文章に於ては、くりかえしてのべ来った如く、凡百の理論も一つの実践に劣る。いずれを優とし、いずれを劣とする方則も、こと文章に関してはあり得ぬ。理論上の劣をとりあげて、名文となし得た作家も少なくないし、理論上の優をふみながら、遂に名文を書き得なかった例はまた頗る多いのである。」

逝ってしまった者は、少なからず生きる者を不安にする。それは、生きてある者もまた同じ運命にあることを、知らしめているからではない。死者が今もなお揺り動かしてやまないのは、この世に何かを残しているからだ。意志の痕跡なるものを... 忘却してしまうには後ろめたさを感じるようなものを...
文章とは、一つの生命体のごときもの。大袈裟に言えば、単語の選択ひとつにも、書き手の魂が宿る。川端は、文章とは作家にとって皮膚のようなものだという。確かに、文章と魂はけして切り離せないモナドロジー風な感覚を覚える。ただ、すべての文章がそうなるわけではない。ほとんどの文書は命が与えられる前に消え去っていき、鳥肌が立つようなものは達人の手によって命が吹き込まれる。真の文章か?誤魔化しの文章か?小説家にとって、命がけの問い掛けとなろう。本物と信じているものが実は誤魔化しであると知った時、彼らは地獄を見る。文体の破壊を試みては、魂の破壊を招いてきた作家たち。書けなくなることも珍しくない。表記法の合理化が進んでも、はたして精神の合理化は進んでいるのか。新たな境地を求めるとは、精神破綻を覚悟するということか。言葉の商業主義化が進む御時世、小説家にはいつまでも自由の砦を守っていってほしい...

尚、これは、フローベールの有名な言葉だそうな。モーパッサンの「ピエールとジャン」の中にあるとか...
「われわれの言おうとする事が、例え何であっても、それを現わすためには一つの言葉しかない。それを生かすためには、一つの動詞しかない。それを形容するためには、一つの形容詞しかない。さればわれわれはその言葉を、その動詞を、その形容詞を見つけるまでは捜さなければならない。決して困難を避けるために良い加減なもので満足したり、たとえ巧みに行ってもごまかしたり、言葉の手品を使ってすりかえたりしてはならぬ。どんな微妙なことでも、ボワロオの『適所におかれた言葉の力を彼は教えぬ』という詩句の中に含まれた暗示を応用すれば、いいあらわすことが出来る。」

1. 文章のノスタルジー
川端は、文章を単なる小説の一技術とみなす風潮が、どれほど文学を貧しくしてきたか、と問いかける。
「つねに新しい文章を知ることは、それ自身小説の秘密を知ることである。同時にまた、新しい文章を知ることは、古い文章を正しく理解することであるかも知れぬ。」
言葉の変化は、思いのほか早い。平安時代には平安調の言葉があり、元禄時代には元禄調の言葉があり、現代には現代調の言葉がある。同時に時代を超えた文章の調子がある。鴎外調、夏目調、芥川調、鏡花調、荷風調... 等々。はたまた世界を股にかける文脈の力がある。ホメロス調、ダンテ調、ゲーテ調、ドストエフスキー調... 等々は翻訳語までも凌駕する。もはや名文は作者の元を離れ、独り歩きをはじめる。幽体離脱がごとく。かと思えば、名文は読者たちの魂と結びつき、それぞれの心の中で生き続ける。霊魂融合がごとく。
人類の叡智としての文体の普遍性と、個人の心の中で奏でるリズムの多様性は、こうも相性が良いものであったか。おいらの場合、読書にはその時々の気分に合った BGM が欠かせない。生命の宿る文章には、ある種のノスタルジアを覚える。
「少年時代、私は源氏物語や枕草子を読んだことがある。手あたり次第に、なんでも読んだのである。勿論、意味は分りはしなかった。ただ、言葉の響や文章の調を読んでいたのである。それらの音読が私を少年の甘い哀愁に誘い込んでくれたのだった。つまり意味のない歌を歌っていたようなものだった。しかし今思ってみると、そのことは私の文章に最も多く影響しているらしい。その少年の日の歌の調は、今も尚、ものを書く時の私の心に聞えて来る。私はその歌声にそむくことは出来ない。」

2. 文章の第一条件
世間では、芸術的文章と実用的文章を区別するようだが、川端はこの差別を認めない。文章とは、感動の発するままに、思うことを率直に簡潔に分り易く述べることを良しとするからであると。文章の第一条件は、簡潔と平明にあるという。いかなる美文も、理解を妨げるものは卑俗な拙文にも劣ると。
しかしながら、作家と読者の間で心理活動を一致させることは難しい。作家の複雑な心理過程を率直に描写したところで、誤解を招くこともしばしば。高尚な芸術を理解するには、読者もまた高みにのぼらなければならない。読者の目が肥えてくると、今度はより優れた芸術性を求めてくる。そうなると、どちらが牽引役なのやら。
かつて文章は、小説家のものであった。高度な情報化社会では、発言のためのツールが豊富になり、あらゆる専門知識が庶民化していく。言葉の理解は、人と人との間の契約によって成り立ち、完全な自由を求めたはずの文章が、今度は制約を受けることになる。
「言葉は人間に個性を与えたが同時に個性をうばった。一つの言葉が他人に理解されることで、複雑な生活様式は与えられたであろうが、文化を得た代りに、真実を失ったかもしれない。」

3. 独自の文体への夢
「作者の気魄と気品とが溌剌と躍動し超俗の風懐が飄々と天上に遊ぶ『気韻生動』の境地は、芸術の妙境には相違ないが、現代作家のうちでは僅かに徳田秋声、泉鏡花、葛西善蔵、志賀直哉、横光利一等の数氏にしか、これを見ることが出来ないのは残念である。」
年の功を経てくると、文章の癖は風格や心境の衣を纏うものらしい。細かい文章を書く作家は、だいたい話上手なのだとか。繊細で多感であるがゆえに、想像力を豊かにさせるのだろうが、同時に精神的リスクを抱えている。文章が精神の投影であるならば、精神の限界を攻めるは必定。おまけに、芸術は孤独と相性がいい。
一方、読者は気楽なもんだ。自分自身の文体を築き上げる必要もなければ、ただ好みの作家を嗅ぎ分けるだけでいい。作家たちの敏捷自在な心の働きが、読み手をふと文章の幻想世界へ導いてくれる。とはいえ、凡人は凡人で夢がある。独自の文体は、生涯をかけて獲得すればいい。いや、獲得できれば運がいい...
「文章でもつねに怠らぬ努力は、いつか作者の血となり肉となるのではあるまいか。才能豊かな作家は、その才能によって、自らの文章を作るであろうし、一方才能薄い作家は作家で、努力のはてに、己の文脈を発掘するであろう。すでに述べた先輩作家の中でも、泉鏡花、里見弴の両氏にくらべて、単に文章の生まれつき才能の点からいえば、徳田秋声、菊池寛の両氏のごときは、はるかに劣る。しかしながら、その作品を今日みれば、それぞれの特長の上に立派な文章の花は咲くといえようか。生まれつきの天分によって切り開いた、鏡花、弴両氏の文章の持たぬ世界を、秋声、寛両氏は、努力の涯に作り上げたといえるであろう。」

4. 口語体と文語体
古典文学は、文語体で書かれた。そこには、土佐日記や源氏物語のような和文調と、保元物語や平治物語のような軍記物に見られる漢文調がある。和文調は早くから廃れたが、漢文調は意外にも簡素な音律が長持ちさせたようである。ホメロス調が生き残ってきたのは、その音律にあるのだろう。偉人たちの名言にも、どことなく音調が整っている。端的なリズムは、記憶に残りやすい。そこに口語体が結びつけば尚更。現在でも、分り易くインパクトのあるキャッチフレーズ戦略が重宝される。
とはいえ、文語体も捨てたもんじゃない。音感的効果と視覚的効果の双方に訴えることで、文章に高級感を演出する。いずれにせよ、文章がいかに書き手の魂を描写できるか、そして、いかに読者に訴えられるか、に尽きるのであろうけど。
「国民性を変えずして、言語の変化は困難である。ましてや国民性と俗にいわれるところのものは、単に精神的なことのみではなく、気候、風土、体格、習慣等に厚く裏打ちされていることを思えば、一層である。」
時代はいつも新たな文体を求め、いっそう喋るような表現を要請してくる。TED.com などに見るプレゼン手法は、この類いか。言語システムは、やはり自然で精神により近い形を求めるようである。
自然主義派の態度は「話すように書く」、対して、文藝時代派の態度は「書くようにして書く」であるという。新しい時代の新しい精神は、新しい文章によってしか表現できないと。そして、国語教育に苦言を呈す。
「最近の、新仮名遣いの問題、漢字制限の問題もその間に政治的な一種の強いるものがなければ、容易に否定も肯定も出来ないであろう。徒らな懐古趣味や保守主義は、生きている言葉を死滅させること、無理解な統制が言葉を枯死せしめると同様、罪は共通する。」

5. センテンスの長短
「センテンスの長短は、それぞれ特長と欠点を持って、その優劣は決すべきではないが、要は、用語と同様、このセンテンスの長短にそれぞれの作家の作風あり、と知るべきである。」
センテンスの長短にも作家の文学観が現れるようで、戦後、センテンスが長くなる傾向にあったという。西洋文学の影響か。
尚、川端自身は、センテンスの短い作家に分類されるそうで、だからといって、短いセンテンスの賛美者ではないと語る。心の中に奏でる音調は、人それぞれ。種々風趣を含ませてこそ、真の文章が生まれるという。一概には言えないが、短編小説には短いセンテンスが、長編小説には長いセンテンスが合うようである。
また、作家の健康状態の反映とする説もある。血気盛んな青年は、ダイナミックな文体を綴るのに短いセンテンスを用い、老年になると、センテンスも次第に内省的に緩やかな長い波を持つようになるとか。おいらの文章が長ったらしく、まったりしてくるのも、歳のせいであろうか。
長いセンテンスは、詳悉法の傾向を帯び、多分に修辞とも握手するという。もし、長いセンテンスが、修辞と握手せず常識と握手すれば、冗長で退屈極まる文章になるに違いないと。それゆえ詞姿の変化を好み、修辞を愛する作家は、長いセンテンスによる複合文を多く駆使すると。
短いセンテンスは、素朴で明快な感じがある。圧力感を与えることもあろうが、説得力があるとも言える。漱石の「吾輩は猫である」に見るピリオド越えの技には、溜め息しか出ない。
ちなみに、技術論文や研究論文では短いセンテンスが好まれる。だが、天の邪鬼な酔いどれは、センテンスだけでなく内容まで冗長ときた。おまけに、冗談の一つも忍ばせないと気が済まない。そういえば、むかーし、ある会社で悪い事例として紹介されたこともある。
川端は、文章の第一条件に簡潔と平明を挙げていた。短いセンテンスの方が、簡潔で分かりやすい。ただ警戒ずべきは、長所に酔って、うかと短所を見逃してしまう、とも言っている。
「短いセンテンスは、時として色も匂いもない。粗略単調な文章となる危険を持つ。性急で、無味乾燥な、文章となれば、そこに詩魂も枯れ、空想の翼も折れるであろう。反面、長いセンテンスは、徒らに冗長に失してその頂点を見失う事が多い。」

6. 描写万能論批判
新進作家時代に、小島政二郎が唱えた「描写万能論」というものもあるそうな。川端は、描写と説明の調和論を唱える。描写と説明は、車の両輪の如く、文章には欠かせないという。描写とは、事物を具象化すること、具体的に書き現すこと、感覚に訴える世界を言葉で築きあげること。説明とは、より客観的な視点を加えることになろうか。主観と客観の調和という見方もできそうで、ある種の対称性をなしている。
「描写も説明も、立派な文章の場合は、渾然一になるべきで、描写のための描写、説明のための説明ということは敢言すれば邪道であろう。描写すべきところは描写し、説明すべきところは説明する... 文章の要は、そこにつきる。」

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