2017-07-16

"ゲーム理論と経済学" David M. Kreps 著

今日、多くの研究分野で見かけるゲーム理論。その最も典型的な応用例は、経済行動におけるものであろうか。この理論自体は経済現象を完全に説明するものではなく、演繹的、帰納的に分析できるような数学モデルを構築する上で、一つの補助的な道具を提供してくれる。人は金が絡むと本性を剥き出しにする。そこに愛が絡もうものなら... つまり、人間の本質をモデリングする対象としてはうってつけとも言えよう。仮に、理想的なモデルとしての合理的な個人が存在するとして、そのような個人の集団が相互にどのように干渉し合うか、そこから現実の人間行動を理解しようという試みである。その予測過程では、チューリングマシン的な、オートマトン的な、あるいは人工知能的な方法も模索されてきたことだろう。ゲームという名に反し、ずっと厳密な戦略科学と言えよう。本書は、この方面の第一人者デイヴィッド・クレプスが語ってくれる入門書である。

ゲーム理論の枠組みは、大きく二つに分類される。それは、「非協力ゲーム」「協力ゲーム」である。本書が主題とするのは「非協力ゲーム」の方で、「協力ゲーム」は所々で説明の補足に用いられる。この扱いは、いかにも経済人モデルという印象を与えなくもないが、個人的な利得しか考えていなくても、結果的に利害が一致して協力的な行動を選択することもあれば、協力するつもりであっても、我が身可愛さに非協力的な行動を選択することもある。共通の利得が見い出せるかは、妥協という心理も働き、社会的合理性だけでは説明がつかない。
経済活動に限らず政治活動ですら、十分に検討されたはずの契約や提携を破棄するといった行動がしばしば見られる。相手の思惑を知っているかどうかでも戦略は変わり、その行動パターンは、極めて統計学的であり、確率論的ですらある。
犯罪心理学では、必ず動機というものが想定されるが、行動経済学においても、やはり同じであろう。どんなに協力的な行動であっても、人間ってやつはどこかで見返りを求めている。たとえボランティア的な動機であっても、自己実現や自己啓発という観点から、やはり独善的という見方はできるわけで、自己意識や自己愛の類いからは免れない。良心そのものが自己愛から発しており、その潜在意識から派生する人間の価値観は、金銭欲や名誉欲だけでは推し量れないのである。

本書には、「均衡」という用語がちりばめられる。個人と個人、あるいは集団と集団の関係において、ある落ち着く点、協調点や妥協点と呼ぶ場合もあるが、そのような収束する状態を検討してみるのは有意義であろう。この収束点において、経済行動の基軸となる契約、提携、取引などが成立する。
そして、非協力ゲームを研究する上で最も有用な概念に「ナッシュ均衡」を位置づけている。その事例で、あの有名な「囚人のジレンマ」が登場する。
人間の価値観は、実に多様だ。それは趣味の数ほどある。いや、人の数ほどあると言ってもいい。あらゆる多様な観念から、どこかに均衡状態を求めているとしたら、それは人間が自然物である証であろうか。
人はみな、心の落ち着ける場所、自己の安住できる場所を求めてやまない。その一方で、社会関係における均衡は、緊張を求めている側面もある。どうやら人間は、退屈ってやつが苦手なようだ。
しかしながら、どんな均衡を求めたところで、思惑どおりの状態に落ち着くとは限らない。人によっては均衡が不均衡に見えることもあろう。少なくとも混沌とした宇宙では、エントロピーの力は偉大である。

ところで、ゲームというからには、ルールがつきもの。ゲームのプレイヤーたちが、そんなに合理的で頭の良い連中ならば、なぜこんな馬鹿げたゲームを続けているのだろうか?なぜルールを変えて、みんなでもっとうまくやれるようなゲームを編み出せないのだろうか?プレイヤーたちは、隙あらば自分が有利になるようルールの改善を目論む。市場原理がゼロサムゲームと考えられる以上、そうした意識は改められそうにない。将棋や囲碁は、勝者と敗者を明確に区別してゼロサムゲームとなる。では、株式市場はどうであろう?選挙は?そして、戦争は?
奇妙なことに人間の心理は、自分一人が損をすることは認められなくても、みんなで損をする分には受け入れられる性分がある。株式市場では、上昇トレンドでみんなが儲けていると報じられれば、自分だけがその波に乗れないことを恐れるがために、上値を掴まされる。そして、下降トレンドで、みんなが損をしていると報じられれば、安堵できるのである。投資戦略がトレンドに流されるのであれば本末転倒。
政界におけるゲームの均衡は、さらに悪魔じみている。なにしろ、「毒を以て毒を制す」の原理に縋るしかないのだから。これをゲームと呼ぶと、不謹慎だ!などという声が聞こえてきそう。だが、将棋のようなゲームにしても、戦争好きな王を改めさせるために戦いに模したゲームを献上したことが始まりといったことも伝えられるし、実は、政治のリアルな世界よりも、ゲームの世界の方がはるかに高尚なのかもしれない。社会的合理性への道は、果てしなく遠いってことか...

1. 戦略形ゲームと展開形ゲーム
非協力ゲーム理論で用いられるモデルには、二種類の基本形があるという。
一つは、「戦略形ゲーム」、あるいは「標準形ゲーム」と呼ばれるもの。例えば、二人でジャンケンをすると、何を出すかの選択肢が戦略で、勝ったことで得られる利得などを分析する。表記法では利得表が用いられ、ゲームは勝者と敗者で規定され、利得の合計がゼロとなる。極めて数学的な、いや確率論的な思考である。
二つは、「展開形ゲーム」。どのプレイヤーが、どの時点でどんな行動をとるか、その時点でプレイヤーがどんな情報を持っているかなどを分析する。表記法では、ノード点とベクトル表記が用いられる。プレイヤーの現時点、次の分岐点、さらに様々な分岐点への移行を検討し、最大利得を獲得するための経路を規定する。ただし、プレイヤーの行動は最大利得と安全利得の間でうごめき、利得にともなうリスクという概念が生じる。
そして、双方のゲーム形式においてモデルが数学的に定義できるということは、プログラム可能ということである。基本的な思考概念は確率論的であり、確率であるからには、事象は同時かつ独立ということになる。例えば、クジ引きのような期待利得を考慮した場合、期待値の高い方を選択するのが好ましい。
しかしながら、人間は数学ではない。現実の人間行動は、こうした数学モデルからしばしば乖離する。とはいえ、数学には、リアルな世界を補完する役割がある。極めて主観性の強い世界を、客観性をもって調和させてくれるのだ。
本書は、戦略形ゲームと展開形ゲームの双方を組み合わせるような分析法を要請してくる。これらをうまく組み合わせた時、はじめて予測可能となり、予測を誤った時、戦略は空振りに終わる。
「どのような展開形ゲームについても、それに対応して、1つの戦略形ゲームが考えられる。その戦略形ゲームでは、実行すべき戦略を同時に選択する複数のプレイヤーが想定される。他方、一般に、ある与えられた戦略形ゲームに対しては、いくつかの異なった展開形ゲームを対応させることができる。」

2. 三すくみの均衡
均衡の関係では、まず「三すくみ」という状態を思い浮かべる。天文学は二体問題を簡単に解き明かしてくれるが、三体問題となると極端に難解にしやがる。
ジャンケンのルールも、三すくみの状態を基本とする。この状態では、「毒を以て毒を制す」の原理が働く。つまり、蛙、ナメクジ、蛇のような三つ巴の関係だ。三角関係が一筋縄ではいかないのも道理である。そして、揉め事が渦巻く状態もまた、ある種の均衡状態なのである。
さて、ナッシュ均衡とは、各プレイヤーがそれぞれの利益に目が眩むあまりに、自分の立てた戦略から離れられなくなるような状態とでも言おうか。この概念を説明するには、「囚人のジレンマ」という事例が分かりやすい。それは、警察官と二人の囚人の関係である。
いま、警察官が非常に疑わしい二人を逮捕した。だが、十分な証拠はない。そこで、別々の監禁室で司法取引を持ちかける。仲間を共犯者だと認めよ!と。どちらも相手を共犯者だと認めなければ告訴されず、拘留期限が切れるまで留置される。
しかし、片方だけが相手を共犯者だと認めた場合、認めた方は釈放され、反抗する方は最高刑が与えられるよう判事に進言する。また、両方が相手を共犯者と認めた場合は、二人とも刑務所に送られ、協力的だということで寛大な判決が下されるだろう。
最も良い結果が得られるのは、自分だけが共犯者と認めた場合。二番目は、二人とも共犯者と認めない場合。三番目は、二人とも共犯者と認めた場合。最悪は、自分だけが共犯者と認めなかった場合だ。互いに最大利得を得ようとすれば、互いに首をしめることになり、妥協も視野に入る。
こうしたケースは、経済活動でもよく見かける。例えば、似たような製品を販売している企業が二つあるとする。競合企業よりも大きな利潤を得ようとすれば、宣伝戦略を強化して広告費を増額するという手もある。だが、競合相手も同じ戦略をとれば、ともに利潤幅を下げる。利潤の総和を減少させるとなれば、双方で談合という手もある。
また、互いに貿易相手である二国間の場合も。相手国の戦略が変わらないと考えれば、自国の利益を最大にするために、あらゆる種類の保護貿易措置をとることができる。だが、両国が保護措置を強化すると、やはり状況は似てくる。リカードの比較優位論も輝いて見えるというもの。
あるいは、租税優遇措置をとることによって、その地域の産業発展を競い合う二つの租税管轄区域を考える場合も。
競争の原理と「囚人のジレンマ」には密接な関係がありそうだ。
「実行可能で、かつ、効率的で、かつ、個人合理性を満たす配分は、どれでも、ナッシュ均衡であるということ...
主な論点は、ゲーム理論の経済学への多くの応用においては、複数のナッシュ均衡からどれかを選び出すには、後ろ向き帰納法や前向き帰納法といった精緻化に依存してそれが行われるということ...」

3. 両性の闘い
物語は、晩をどのように過ごすかを決める夫婦の物語。夫はボクシングの試合を見に行きたい。妻はバレイ鑑賞に行きたい。二人とも一緒に行く方が楽しいと思っている。協調の動機が優先される場合はどうだろう。その場合、夫婦間の力関係で左右されるので、外野は多くは語れない。
こうした関係は、競合する企業で市場を分け合うような状況と似ている。例えば、互いに補完財を生産する場合、できることなら共通の規格を採用したい。災害対策なども考慮すれば、社会的には独占的な体制よりも、互いに補完できる体制を整えておいた方がいいし、行政もそのように指導するだろう。最大利益で考えがちな従来式の経済学では、なかなか説明の及ばない領域である。
このような動学的な競争モデルには、戦略形ゲームだけでは説明が乏しく、展開形ゲームを考慮する必要がある。独占企業や寡占企業は、常に新規参入の脅威に晒される。独占や寡占とは、亭主関白や嬶天下のような状況というわけか。
企業戦略では、目先の利潤よりも将来的な成長戦略が重んじられる。では、将来的とは、どのくらい先を言うのだろう?それは企業によって様々であり、定量化することは困難である。これが、経済学の編み出したあらゆる公式の弱点、すなわち、数学の弱点と言えようか。そして、短期的な独占と長期的な共存と、どちらが合理的か?と考える企業経営者が業界にどれだけいるかが問われよう。

4. 独占や寡占における競争モデル
「フォン・シュタッケルベルグ」のゲームという市場価格ゲームを紹介してくれる。プレイヤーは先導者と追随者で構成され、先導者が市場の価格を決定できるような状態にある場合。まず、独占者が生産量をある水準にコミットすることができると想定する。独占者が先導して生産量を選び、参入者はこの生産量を見極めて参入するかをどうかを決める。この時、独占者がどれだけ生産量を調整すれば、どれだけ新規参入者が増えるか?といった情報を知っているかが鍵となる。
また、「クールノー均衡」という複占企業の競争モデルを紹介してくれる。フォン・シュタッケルベルグのゲームで参入が決定されると、この均衡状態へ移行することが想定される。互いに利得最大化を目論んで、相手の生産量が変化しないと予測し、自社の生産量を減らして価格を釣り上げようとする。
そして、両者はナッシュ均衡の状態に落ち着きそうだが、そう結論づけることも微妙だ。というのも、生産の動機には、生産物や生産活動に対する信念や哲学も関与する。そこには、社会的貢献という動機も含まれる。人間の長期的な行動パターンには、この動機が大きく影響するものと思われる。
さらに、長期に渡って生産の正当性を握ってきた先導者は、政治力を持った者と癒着していることも想定できよう。政府の規制による脅し、あるいは、免税といった優遇措置などの条件が加われば、さらに複雑なゲームとなる。
どんな業界でも、たとえ競争原理が平等に働いているように見えても、人間のやることだから、そこには必ず力関係が生じる。新規参入の余地は業界に活気を与える要素でもあり、業界にとっての合理性を担保できなければ、業界全体が先細りとなろう。

5, フォーク定理と情報経済学
囚人のジレンマのような状況を繰り返しているうちに、やがて協調という均衡がもたらされる場合がある。これが、「フォーク定理」というものらしい。共倒れは、ごめんだ!というわけだ。
嫉妬心や復讐心ってやつは、人を先細りにさせる。駆け引きと緊張から、協力へと収束するならば、これぞ合理的社会というもの。目先の利益から長期的な利益を模索した結果、長期的な妥協という見方もできる。激烈な価格競争に疲れた時の無限級数的な収束点だとすれば、レッドオーシャン戦略からブルーオーシャン戦略への移行という見方もできそうか。そのために相手のプレイヤーの本音を知ることが重要となるが、相手の本音を知るということは自ら本音を晒すことでもあり、ここにも囚人のジレンマのような状況が起こる。情報の非対称性の中で事はうごめく...

6. オークションの法則
競争入札では、出品する側が有利になるという。なぜなら、入札する側は最大コストを支払うことになるから。入札したければ、金額が提示される度に上乗せしていかなければならず、ポーカーでレイズしていくようなもの。入札者は勝利して満足するものの、高値をつかまされた格好だ。それ故に「勝者の呪い」と揶揄される。仮に出品者と結託して、価格の釣り上げ役がいるとしたら...

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