学問でよく見かける態度に、専門家が自身の専門分野に苦言を呈すというものがある。ある種の批判哲学と言おうか。そもそも学問とは、客観性を保とうとする立場であって、その方向性には常に検証の目が配られる。おのずと自分自身の思考にも懐疑的な立場をとることになり、自虐的でもある。本書もその類いの一つ、科学者が語る科学への苦言の書である。
深刻な集団的攻撃性をもたらす文化的要素の一つに、イデオロギーってやつがある。世間では、すぐに利己的な態度に目くじらを立てるが、しばしば利他的な態度にも害となるケースがある。流行の知識は大衆を惑わし、流行の学問は、宗教以上に悪影響をもたらす危険性を孕んでいる。
「科学者はたった一つのイデオロギーしかもつことができません。そしてそのイデオロギーとは、イデオロギーをもたないということなのです!」
科学や技術が人間社会を豊かにしてきたのは確かだ。しかし、いくら文明を発達させようとも、人間もまた自然に依存した動物の一員であることに変わりはない。人間社会で、自然体でいるには肩が凝る。グローバリズムによって世界は広がっているというのに、一人の人間が生きる空間はますます息苦しくなる。孤独愛好家を増殖させるのは、本能が退化しているからであろうか。それとも、自然回帰にノスタルジアのようなものを感じるからであろうか。やはり地上の動物には、共通した行動パターンが遺伝子に刷り込まれているらしい。古代ローマの言葉に、"Homo homini lupus.(人間は人間にとって狼である。)"というのがあるが、これは怖ろしく真のようである...
動物行動学の権威で知られるコンラート・ローレンツ博士は、八つの大罪を提示し、近代社会に警鐘を鳴らす。八つとは... 人口過剰、自然な生活空間の荒廃、人間どうしの競争、虚弱化による感性や情熱の萎縮、遺伝的な衰弱、伝統の崩壊、教化されやすさの増殖、そして核兵器。中でも悪の根源を人口過剰とし、他の大罪はその派生的現象としている。その意味では、「七つの大罪」と題した方が、芸術的にも信仰的にも語呂がよさそうな気もしなくはないが、悪徳の原型としての枢要罪という観点から、「八つの大罪」の方が語呂がいいのかもしれん...
また、核兵器の項は記述が非常に短く、むしろ楽観視している。現象がひきおこす危険性に比べれば避けやすいというのである。科学者の発言としては少々意外だが、まだ人間の意志の働く範疇といえば、そうかもしれない。
しかしながら、理性もまた精神現象の一つである。核のボタンを押すことのできる人間は限られた権力者であって、彼らの衝動にかかっている。それでも、具体的な手段にすぎず、抽象度では格下という見方はできそうか...
「えせ民主主義的な教義は七番目までの人間性喪失の過程を促進している。この教義は人間の社会的な行動や道徳的な行為が系統発生で進化した神経系や感覚器の体制によってきまるのではなくて、もっぱら人間の個体発生の途中でそのときそのときの文化的環境をつうじてえられた『条件づけ』によって左右される。」
1. エソロジー(= 動物行動学)とは、どんな学問?
ローレンツ博士は、「行動を比較研究する科学」と定義している。生物学や生態学を動物だけでなく人間の行動にも適用するというもので、すぐに人間行動学という用語を思い浮かべるが、ここでは生態系の構造主義のようなものを感じる。
というのも、内分秘腺の構造をサブシステムとして捉え、衝動のメカニズムを分析する上で重要な位置づけを与えている。本能に理性が結びつくメカニズムにしても、知識を獲得する過程にしても、パターンマッチングや学習能力、あるいは洞察力が生得的な行動様式として DNA 二重螺旋構造の鎖に自然に組み込まれ、自律した衝動と化すといった具合に。知能もまた、系統発生的に生じた行動プログラムというのである。
また、客観よりも客観性、普遍よりも普遍性により価値を求めるあたりは、確率論的ですらある。確かに、進化の過程で重要な役割を果たす突然変異や遺伝子の再編成、あるいは自然淘汰といった現象も確率に支配されている。
ただ、こうした議論は真新しい科学ではなく、ダーウィン以来の生物学の方法を行動の研究に適用したにすぎない。行動とは、生物的、生理的な現象のこと。エソロジーとは、行動という現象に重きを置く学問というわけか。
したがって、この学問は、まず行動を観察するところから始まる。とはいえ、科学とは観察からはじまるもの。つくづく思うのだが、「科学」という用語も奇妙である。「科」を「学ぶ」と書けば、すべての学科を含むニュアンスを与える。学問の意義は、主観性の強すぎる人間精神に客観性の視点を与えることによってバランスさせ、知の世界を広げようという試み、ということができよう。それには、まず現象を観察し、現在の状態を的確に把握するという思考を働かせる。その意味で、科学的な要素を含まない学問があろうか。実際、社会科学、人文科学、人間科学、精神科学、心理科学など、多くの分野と結びついている。人間を知ろうと思えば、人間観察が鍵となる。なるほど、真新しい学問ではなさそうである。
過去の人物の偉大さを知るのに、その人物の記述を読んだだけではなかなか知り得ないものがあるが、影響を受けた人たちを通じて、その偉大さが伝わってくるということはよくある。この一冊も、その類いと言えよう。本書の場合、その偉大な人物とは、チャールズ・ダーウィンである...
2. 人口論
日本社会では、少子化問題が大きく取り沙汰される。なぜ大問題なのか?その動機は極めて単純で、経済が枯渇しているから。おまけに、大人たちの世代の面倒を見る将来的な世代が枯渇しそうだから。寿命が延びれば新たな世代層が生まれ、相対的に若年層が減少するのは当たり前。そして、絶対数においても減少の兆しがある。少しでも人口減少に転じれば、社会の破滅、ひいては民族滅亡にまで不安を増長させる。これは、もうパブロフ的反応である。そのくせ待機児童の問題を抱え、すべては大人たちの都合で問題を複雑化させる。
仮に経済が堅調で、かつ将来への憂いが解消されれば、老後の面倒を見てくれるはずの子供は、むしろ鬱陶しい存在とされるだろう。それとも、楢山節考のような棄老伝説までも、視野に入れなければならんのか...
世界に目を向ければ、子供の数を制限する政策は見かけても、寿命を制限する政策までは見かけない。大人どもには、もともと人口が多すぎるという発想はないのか?一億もの人口を抱える先進国は、広大な領土を持つアメリカを除けば、日本ぐらいなもの。自然に人口制限がかかっているとしたら、むしろ喜ばしい現象ではないのか?
人口問題については、過去にも偉大な提言がある。マルサスの人口論がそれである。この問題を凌駕したのは、あの産業革命だ。人類は、偉大な技術力をもって多くの人口を養えるほどの豊かな社会を築き、急激な人口増殖によって産業を拡大してきた。近代経済は、贅沢な物量によって拡大してきたのである。増幅回路のシステム設計は技術的には単純で、正のフィードバックをかけ続ければいい。人類が発明した資本主義とは、まさに資本の循環によって自然増殖をもたらすシステムである。実際、政策立案者は、いまだに消費を煽る以外に方策がないと見える。
そして再び、マルサスのように問い掛けなければなるまい。どこまで人口増加を容認できるのか?と。人間の都合による土地改良や品種改良は、どこまで容認できるのか?と。地球環境を本気で保護しようとすれば、人類の方が地球から去っていくしかないのかもしれん。体質改良を図って火星や月にでも移住するしか。経済問題を凌駕する方策が、本当に人口増加しかないとすれば...
「正のフィードバックの回路はふつうは個々の生物体にはみつからない。総体としての生命だけが、この無軌道を許しながら今日までみかけ上罰せられずにいる。有機的な生命は、たいへん珍しい性質をそなえたダムのように、浪費しつつある宇宙のエネルギーの流れの中に自分を組み入れ、負のエントロピーを食べ、エネルギーをもぎとってはそのエネルギーで成長する。そして自分の成長によって形を整え、ますます多くのエネルギーをもぎとる。すでにとりこんだエネルギーが多ければエネルギーをそれだけ速くもぎとれる。だからといっていまだに過剰増殖やカタストローフに至らないのは、非生物界の無情な力である確率の法則が、生物の増殖を制限しているからである。」
3. 報酬と罰の二重原理
文明人は、近代化した環境支配によって仕方なく、快と不快の経済市況に身を委ねてきたという。しかも、その進化の方向は、不快を触発する刺激には敏感になり、快を触発する刺激には鈍感になる方向にあると。人間は、不快に対する不寛容さをまし、快の誘引力も低下しているというのである。真の快楽を知らず、目先の現象に惑わされる傾向にあるというわけか。
奇妙なことに、生産者の商業戦略がインスタントな喜びを奨励すれば、これに負けじと、消費者もお得な分割払いに飛びつき、互いに生産と消費の奴隷と化す。現代人はますます利便性と自動化に邁進し、快と不快の生理的メカニズムの虜になっていく。ネット社会には、けしからん!と息巻く理性の検閲官どもが溢れ、エイプリルフールをささやかに催す喜びまでも奪われていく。理性ってやつが、ストレス解消の手っ取り早い手段となっているのである。実存の厳しさを知らない時代は、勇敢さを追求する必要はなくなった。あらゆる欲望はインスタント化し、愛の形もチンして終わり。愛が崇高だって?ご冗談でしょう。神の前で誓った結婚ですら、老後の不安解消のための救済処置として機能しているではないか。人を愛すのはいいが、人から愛されたいという衝動は少しばかり大きすぎる。面倒臭がり屋には辛い時代である。
では、文明社会とは、生物学的には病理的な現象であろうか?どうやらそうらしい。人間自身も、人間社会が自然から逸脱した状態であることは薄々気づいている。その証拠に、「自然」という用語に対して「人工」という用語を対立させる。
「古典的なパブロフ型条件反応を形成する能力のあるすべての生物では、この過程は相互的作用をもつ二つのタイプの刺激によって影響を受ける。そのひとつは、すでに生じている行動を強める強化刺激であり、もうひとつはすでに生じている行動を弱めたりまったく抑制したりする消去刺激である。人間の場合には第一のタイプの刺激のはたらきは快感と結びつき、第二のタイプの刺激のはたらきは不快感と結びついている。そして、高等動物の場合にはこれは要するに報酬と罰であるといったとしても、けっしてそれほど擬人化したことにはならない。」
4. 行動主義への反駁
本書は、行動主義派の反駁の書ともなっている。行動主義心理学者の大部分は、行動には生まれつきの要素は一つもない、と主張していたそうな。そして、このドグマは、あらゆる空論家たちの確信を強めるのに役立ったが、宗派間の教義を和解させるには役立たないと吐き捨て、こんな挑戦的なフレーズを叩きつける。
「人間は誰でも等しく成長する権利があるということは、疑いようのない倫理的な真理である。けれどもこの真理は、あらゆる人間がもともと等価であるという偽りに歪曲されやすい。行動主義の教義は、さらに一歩先をいっている。同じ外的条件のもとで成長すれば誰もが平等になれるし、しかもこうした条件さえ理想的なら誰でもまったく理想的な人間になれる、というのである。そこで人間は、いかなる遺伝的な性質も、とりわけ社会的な行動や社会的な欲求を決定するいかなる遺伝的性質ももっているはずがない、もっとうまくいえば、もっている必要がないということになる。」
2018-03-11
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