悪霊までも支配したと伝えられる叡智の持ち主、ソロモン王。彼には「魔法の指環の助けをかりて動物と話をした...」という伝説がある。どうやら、旧約聖書にある「けものや鳥や這うものや魚たちの話をした」という一節を、「... と話をした」と読み違えたことに発するらしい。
だがここに、指環の力なんぞに頼らなくても、動物たちとの会話を謳歌したオヤジがいる。古代の王様のように、ありとあらゆる動物と語り合えたわけではないにしても。そのオヤジとは、動物行動学の権威で知られるコンラート・ローレンツ博士だ。彼は遺伝的に引き出される解発因としての動物たちの行動や意識を観察し、その実体験を物語ってくれる。副題に「動物行動学入門」とあるが、むしろ「人間行動学入門」したほうがいい。そして、その延長上に人口論が見えてくる...
「この眼で美をみたものは死の手にゆだねられることはないけれども、自然の美しさを一度でもみつめたことのあるものは、もはやこの自然から逃れることはできない。そのような人間は、詩人か自然科学者のいずれかになるほかはない。もしほんとうに眼をもっていたならば、とうぜん自然科学者になるだろう。」
「動物の話を書くためには、生きている動物たちにあたたかい、偽りのない感覚をもっていなくてはならない。」
そんな資格を持った人間なんているのだろうか?動物について語ると称して、動物については何も知らない。それどころか、人間という動物についても。そして、信仰の捌け口を宗教や哲学に求めるほかはない...
ところで、自分が人間だと思える時って、どんな時だろう。なぜ、自分は人間だと信じることができるのだろう。周りが人間だらけで、単なる同族だと思っているだけのことだろうか。他の動物よりも知能が優れているという差別意識がそうさせるのだろうか。
好物のミミズを博士の口元へ運ぶ鳥は、博士を同族と見ているようだ。生まれたばかりの赤ん坊の鳥は、はじめて眼にした博士を母親だと思い込んでいるようだ。人間と付き合っているうちに、動物たちの方が人間だと思い込んでいるのかもしれない。このようなエピソードは、「トムとジェリー」の一話を眺めているようで、鬱陶しい社会に慣らされた身には和ましい。
無に帰する恐怖は生あるものの本能。動物たちは息巻く... オレの平和を乱すヤツは誰だ!と。縄張り意識、所有の概念、居場所への執着... こうした情念が無意識に働くのは、動物でも同じようである。人間ってやつは、この意識をより強烈にさせ、自分の人生にまで意義を求めてやまない。惰性的な慣習を義務だと主張しては異口同音に身を委ね、それで安眠安住できるという寸法よ。およそ人間ほどしぶとい動物はいない。どんな劣悪な環境に追い込まれようとも、けして希望を捨てない。いや、捨てきれないのだ。おそらく人類滅亡に瀕しても...
エゴイズムのない人間はいない。いや、エゴイズムは動物の本能というべきか。だが同時に、高等とされる動物には、集団生活の中で自然に育まれる節制の原理が働く。種の保存原理と言うべきものが。本書には、モラルの起源を見ている思いである。そして、ダーウィンの「種の起源説」が一層輝いて見えてくる。自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したものではあるまい。地上に豊富な生命を溢れさせ、共存するには、生命体が多様化する必要がある、というのが真意だと思う...
1. 逆檻の原理
動物愛好家というのは、概して動物の良い面から書こうとするものだが、ローレンツ博士は正反対の試みを突きつけ、まずもって動物たちへの忿懣から書き下ろす。なんでも擬人化してしまう動物好きは、自分が話すことを動物が理解していると主張して譲らない。それどころか、ペットに家族の一員としての絆を強要する。博士は、こうした人間側の思いを真っ向から否定にかかる。動物園で満足して暮らしている動物には、ばかにセンチメンタルな同情を寄せるくせに、本当に辛い思いをしている動物の気持ちには気づかないものだと。檻の中では、動物たちの背中がしょんぼりと見え、いかに精神的にかたわであるか。それは、満員電車の中でぎくしゃくしているサラリーマンを観察しているようでもある。
動物を飼いたいという願望は、太古から人間の心に住み着いている。それは、文明を獲得した知的生命体が、自然という失われた楽園に抱く郷愁のようなものであろうか。人間と動物とではあまりに世界観が違いすぎる。互いに理解しようなどとは無理な話。人間同士ですら互いに理解できないというのに。神の前で誓った人間愛ですら当てにならないというのに、なにが動物愛だ。ペットを選ぶにしても、自分の世話が及ぶ範囲、すなわち、飼い主の寛容さの程度で決まる。まずは、そこから認めようというわけである。
だからといって、ネズミを放し飼いにし、こいつが家中を走り回り、あちこちをかじっていく様を見守ることができようか。洗濯物のボタンを片っ端から食いちぎるオウムを、笑顔で観ていることができようか。家の中で飼い慣らすことのできないという性質を持つハイイロガンが、毎晩寝室に入り込んでは共に夜を過ごし、朝になると窓から自由に飛び立っていく光景を黙認できようか。
このような馬鹿げた苦心談は必要不可欠なのか?と問えば、どうやらそうらしい。ちなみに、モラリストとして知られるモンテーニュはうまいことを言った... 結婚は鳥カゴに似ている。外にいる鳥は必死に入ろうとし、中にいる鳥は必死に逃げ出そうとする...と。
「大型インコ類は、ただ利口なだけではなく、精神的にも肉体的にも異常なほど活発なのである。おそらく大型のカラス類とともに、囚人の感じる倦怠の苦しみを知っている唯一の鳥だろう。しかしこの真にあわれむべき動物をあわれむ人はだれもいない。無理解にも、愛情深い女主人は、その鳥がひょいひょい頭をさげるのを、おじぎをしているのだと思っている。とんでもない。これはもともとは鳥がカゴから逃げ出す出口をさがし、なんとかして飛びだそうというはかない望みで、もがきまわった行動がすっかり身についてしまったものなのだ。こういう不幸な鳥を自由にしてやってみたまえ。数週間、いや数ヶ月間、鳥は飛びたとうともしないだろう。」
2. アクアリウムは一つの世界
アクアリウムは、地球上におけるのと同じく、動物と植物が一つの生物学的な平衡の下で生活している。植物は動物が吐き出す炭酸ガスで息をし、動物は植物が吐き出す酸素を吸って息をする。植物は自分の身体を作るために炭酸ガスを費やすばかりか、呼吸に使うよりも多量の酸素を吐き出す。生産性という意味では動物よりもはるかに優れている。静寂しきった身体だからこそできる芸当か。
一方で動物は、無駄な動きばかりするものだから、酸素を思いっきり費やす。あり余った酸素を前に、先祖の動物たちは、それを使い切ろうと浪費癖がついたようである。おまけに、その浪費遺伝子を、最も忠実に受け継いだのが人間か。
植物は、静寂で無駄口をたたかず、平穏で寛容だ。なにしろ生物の排泄物や死骸までも、バクテリアに分解されて生じた物質と同化させ、再び物質の大循環系に組み入れるのだから。この循環の平衡がちょっとでも乱れると、たちまち悪循環に陥る。水槽の中に、これ以上の動物は不要だと分かっていても、もう一匹魚を入れてみたいという衝動に駆られる。そして酸素欠乏が生じ、アクアリウムというちっぽけな世界を破壊してしまうのである。腐ってゆく動物の死骸には莫大なバクテリアが増殖し始め、水は濁り、溶存酸素量は急激に減少し、動物たちが追うように死んでゆく。この悪循環は容赦なく進行し、ついに植物までも殉死へ。アクアリウムは、もはや悪臭を放つドクロの肉汁と化す。
アクアリウム愛好家は、エアーポンプで人工的に空気を水中に送り込み、この危険を防ごうとする。だがそれでは、アクアリウムの真の魅力は損なわれる。実は、ちょっと餌を与えるぐらいで、生物学的に特に世話をする必要はないという。平衡状態が保てれば、掃除してやる必要もないという。枯れた植物の組織や動物の排出物が底に溜まっても、砂にしみこんで肥料となっていくので、気にすることはないと。まさにアクアリウムとは、自然界の自由意志を体現する場。人間にとって汚物の沈積物があるにもかかわらず、水は高山の湖のように澄み切り、臭いもない。その魅力は、ちっぽけな世界が自立し、自律し、そして、自活しているところにある。この世界を手に入れるには、かなりの謙虚さと自制心が必要だ。うっかり世話をしては駄目!それが善意からのものであっても...
とはいっても、ある程度思い通りに支配できる世界でもある。水槽の大きさ、中に住まわせる生き物、好みの水草など、ある程度の選択肢が許される。ただそれには、多くの経験と生物学的な勘が要る。底にしく砂、水槽の大きさや置き場所、湿度や光の条件、中に入れる動物や植物の種類と数など。この自然モデルの構築は、まさに神にでもなった気分。これこそが究極の管理技術やもしれん。
騒々しい人間社会に嫌気がさせば、癒やさる空間として、激しく動き回る生き物よりも熱帯魚のような静かな魚類を選びたい。世界を完結できるという意味では、まさに人口論を体現する場と言えよう。自然界をそのままを再現しようと思えば、池から水網一つで掬ってくるのが一番だと助言してくれる。
しかしながら、水槽の世界にも、恐ろしい肉食系がいる。掬ってきた生き物の中には、たいていゲンゴロウの幼虫が一匹や二匹混ざっている。こいつは相対的に、大きさ、貪欲さ、獲物を殺す狡猾さの面で、虎、ライオン、狼、シャチ、サメ、狩人バチのような名うての捕食動物のものの数ではないらしい。ゲンゴロウの幼虫は、体の外で消化する数少ない動物の一つ。獲物に注入する分泌物は獲物の内臓を溶かして液体状にしてしまい、幼虫は鉗子の中の菅を通して吸い込む。水草に隠れて待ち伏せし、少しでも動く物体ならなんでも盲目的に襲いかかる。アクアリウムのような狭い空間に大きなゲンゴロウの幼虫がニ、三匹もいると、二、三日足らずで食べ尽くしてしまう。それからは、もっぱら共食いだ。大抵の動物は、餓死しそうになっても、同族までは喰おうとはしないものだが...
そういえば、かつて人食い人種というのがいたと聞く。大飢饉に襲われれば、屍体を貪るような異常行動も記録される。家畜同然に扱われた奴隷が、その対象にされたということも考えられる。人間ってやつは、飢えると何をしでかすか分からない。理性に縋ったところで、これほど脆く崩壊しやすいものはない。ゲンゴロウってやつが、人間種に見えてくるのは気のせいであろうか...
3. オオカミ系とジャッカル系
思い浮かべる忠誠な動物といえば、犬だ。忠犬から権力者の犬など、良い意味でも悪い意味でも代名詞のように使われ、無駄な死を「犬死に」なんて言ったりもする。哲学界に目を向ければ、犬は乞食の代名詞のようにも言われ、必要最低限のものしか欲しないという意味で「犬儒学派」というのもある。ちなみに、一目置かれるディオゲネスも、この一派とされるが、おいらは子猫ちゃん派だ!
さて、ペットとしての犬の歴史は長いそうな。新旧石器時代の境目ごろ、最初の家畜としてトルフシュピッツ犬が現れたという。ジャッカルの血をひいた半家畜化された犬で、狩人のキャンプについてまわり、人間の食べかすを漁る。サーベルタイガーやホラグマなどの猛獣が近づいたら凄まじい声で吠えてくれるので、番犬としての役割が与えられたとか。人間と犬の古い結びつきは、両者の自発的な意志によって、なんの強制もなく契約されたようである。人間が犬を忠実で恭順な友と呼ぶのも、その所以であろうか。他の動物が囚われの身という経緯で家畜になったのとは違うようだ。
野生犬が一人の主人に抱く愛着は、群れのリーダーに抱く愛着がごとく。犬がたった一人の主人に強い結びつきを誓うのは、やはり謎である。そして、人間自身もまた、犬に見習って人間の犬になるのかは知らん。
一方、猫は違うらしい。とても家畜とは言えないし、これほど自由に振る舞っているヤツも珍しい。そして、男性諸君が子猫ちゃんの犬となっていくのは、やはり謎である。
ところで、犬の系統によっても忠誠の誓い方が違うようである。ジャッカル系とオオカミ系とでは、気質の本質的な違いが見られるそうな。ジャッカルはもともと定住性の動物で、たまたまその場所に住み着いて群れをなしているらしい。
対して、獲物を求めて徘徊してまわるオオカミの群れは、がっちり組んだ、まったく排他的な社会を形成するという。仲間同士で死んでも守ろうとする意志、妥協のない排他性と勇敢な集団性は、なんといってもオオカミの特性である。
ジャッカル系は、誰とでも仲良しになりすぎで、誰が綱をひっぱっても喜んでついていく。オオカミ系は、一度忠誠を誓ったら永久にその人の犬となり、知らない人には尻尾すら振らない。
「二君に仕えぬというオオカミ系のイヌの忠誠さを味わった人は、もはやジャッカル系のイヌを飼っても幸せにはなれない。」
しかしながら、欠点も大きい。もし何かの理由でオオカミ系の犬を手放すことになると、完全に心理的平衡を失うという。モラルが崩壊し、鳥小屋を襲い、悪事に悪事を重ね、そこらじゅうをうろつきまわり、野良犬のレベルにまで転落するのだとか。ゲシュタルト崩壊ってやつは、忠誠心の強いデリケートな感覚にこそ起こりやすいようである。
さらに、オオカミの血の濃い犬ほど、その並外れた忠実さと愛着の深さにもかかわらず、けっして従順ではないという。野性的な自立性は保たれているということか。オオカミ系の犬は、大型ネコ族の性質を多く持っているという。それは、死ぬまで君の友、だが、けっして奴隷にはならないという性質である。あなたなしでは生きていけないわ... なんて台詞を吐きながら、しっかりと自分というものを持ってやがるし、気まぐれな行動も多い。どうりで犬族の男どもは、子猫ちゃんの性質に隷属するわけだ...
ジャッカル系の犬はまるで違い、古くから家畜化されたために、子供っぽいところが残っているという。声をかければ喜んで近寄ってきて、ほとんど本能的に言うことをきくのも、幼稚な忠誠である。主人だけでなく誰にでもなつき、いわば万人の犬であって、すぐに盗まれる。
だからといって、忠誠心を求めてオオカミ系の犬をペットにしようとしても、調教済みのものを飼っても無駄だ。一人の調教師に忠実なはずだから。そこで、双方の長所を受け継ぐために、品種改良を試みるのが人間ってやつだ。オオカミ系とジャッカル系を無理やり交尾させ、自然界にあふれる多様性を人間の都合で変質させてしまう。
そして、自然から逸脱した多種多様な品種に溢れ、もはや純血な生態系を見つけるのも難しいときた。孤独を信念に持つオオカミなら辛うじて森に生息するが、人間に近すぎたジャッカルはとうに絶滅しちまったとさ...
4. 勝者の社会的抑制
「カラスは仲間の目玉をえぐらない。」という諺があるそうな。ハシボソガラスやワタリガラスは同族の仲間の目玉をつつかないし、懐つけば飼い主の目玉もつつかないらしい。博士が飼っているワタリガラスのロアを腕にとまらせ、わざと顔をくちばしに近づけ、下向きに曲がった恐ろしい先端すれすれに目玉を差し出したことがあるという。すると、ロアは実に感激的なことをやったとか。神経質というか、なかば苦しそうな態勢から、くちばしを眼から遠ざけるように振る舞ったと。これは信頼なのか?あるいは服従なのか?
とはいえ、カラスはやはり猛獣だ。くちばしに目玉を近づけるなど自殺行為。人間同士でも、被害妄想者にいきなり射殺されるかもしれない。カラスにも衝動というものがあろうに。同類虐殺の防止本能といった動物学法則でもあるのか?
一方で、動物界で最も高等とされる人間は人間を虐殺する。そればかりか民族レベルで抹殺にかかる。友愛や博愛を唱える修道士でさえ異教徒を相手にすれば、人格を変貌させる。こうした行為は動物界では見られないが、少なくとも同じ人間の種だとは思っていないからやれる行為だろう。
それでも救いはある。絶望の中で死を覚悟してもなお必死に抵抗する者が、敗北を認めた途端に敵対心を消失させることが、しばしば見られる。ホメロスが描いた古代ギリシアの戦士たちは、降伏時に、兜と槍を捨てて跪き、首を垂れた。負けを認めた武士は、潔く首を差し出した。すると、殺しやすい姿勢を無防備に見せることによって、却って相手を殺しにくくしてしまうという不思議な心理が働く。同情心のようなものが。こうした心理が働くのは、なにも人間界だけのものではないらしい。動物界でも、情けを乞う方の個体は、攻撃者に向かって身体の最も弱い部分を差し出すという。敵が殺そうとして襲いかかる時に狙う部分を。鳥の場合は、多くの場合が後頭部を差し出すのだとか。社会的動物の服従の態度は、すべて同じ原理に基づいているという...
2018-03-04
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