2018-03-25

"宇宙を復号(デコード)する" Charles Seife 著

宇宙の基本教義の一つに... エネルギーは創造されも、破壊されもしない... というのがある。熱力学の法則は... 熱量は無からは創造できない。系を撹乱することなく、仕事をすることはできない。永久機関を組み立てることなど不可能だ... と告げる。どうやら宇宙に存在しうるエネルギーの総量は一定のようである。
では、エネルギーとは何か?今日、エネルギーは物理法則を根底から支える物理量として君臨しているが、そもそもは力の源として、得体の知れないものとして捉えられてきた。アリストテレスの運動論以来、力の作用をめぐる議論は迷走を続け、インペトゥス、モーメント、トルク、フォースなど様々な用語が乱立してきたのである。アインシュタインは、あの有名な公式で質量とエネルギーの等価性を示し、力は質量を通じてエネルギーという具体的な物理量と結びついた。
さらに、著者チャールズ・サイフェは、この物理量の抽象化を試みる。「情報」という概念によって。彼に言わせると、相対性理論も量子力学も情報の理論だという。
相対性理論は、核心において情報をいかに速く伝送するかの理論... といえばその通りだろう。その限界は光速によって定められる。
量子力学は、観測系が関わると物質から真の情報が引き出せないことを告げ、真空状態であっても、量子のゆらぎによって粒子と反粒子の対消滅を繰り返し、情報の痕跡らしきものを残すと言っている。
なるほど、どちらもシャノンの理論より先に現れたものの、しっかりと情報理論が絡んでやがる。情報ってやつは、掴みどころのない抽象的な存在ではなく、シャノンのおかげで具体的に数値化でき、物理量として計測できる。だからこそコンピュータ工学の礎をなす。インターネットで体現される情報エネルギーの威力は凄まじい。そして、復号(デコード)とは、情報をいかに解釈するか、ということになる。こうしてみると、あらゆる学問、あらゆる知識が、情報の手先に見えてくる...

また、エネルギーの絶対的な法則に、エントロピーってやつがある。覆水盆に返らず... 喰ったラーメンは胃袋の中... 空けちまったボトルにおとといおいで... といった類いは、すべてこの法則の支配下にある。おまけに、時間の矢という一方向性が、人間の認識能力を記憶の時間軸に幽閉しやがる。
そして、情報理論にも情報エントロピーってやつがあるが、本書はこれをさらに抽象化した観点から、量子力学が唱えるデコヒーレンスを持ち出す。生きている、かつ、死んでいるといった重ね合わせ状態で存在することが、なぜ量子にはできて、猫にはできないのか?というシュレーディンガーの謎掛けも、デコヒーレンスが理解の助けになると...
物質が宇宙の隅々にまで行き渡ろうとしているとしたら、情報もまた宇宙の隅々にまで伝わろうとしているのだろう。無毛定理は、ブラックホール理論の基本教義の一つとしてある。この暗黒の天体はすべてを飲み尽くし、毛もないというわけだが、それは何を意味しているのだろうか?巨大な情報貯蔵庫なのか?ブラックホールは、究極のコンピュータになろうとしているのか?いや、悪魔が、限りない重力を元手にあらゆる情報を収集しようと目論んでいるかもしれない。人間が、楽してすべての知を得ようとするように。
ただ、人間が収集する情報は冗長性に満ちているが、おそらくブラックホールには冗長性なんて概念の欠片もないだろう。そして、ブラックホールの死とともに、すべての情報は解放されるのか?人間の死によって、自由意思が完全に解放されるように。なるほど、馬鹿は死ななきゃ治らない!とは、この原理であったか...

「論理的で一貫性(コヒーレント)のある不条理を棄てて、非論理的で一貫性のない不条理を受け入れるというのは、いったいどんな解放なんだい。」
... ジェイムズ・ジョイス「若き芸術家の肖像」より。

本書は、「情報」という概念について考え直す機会を与えてくれるが、さらに、「観測」という概念についても改めて考えさせられる。ハイゼンベルグの不確定性原理は、観測者が相補的な二つの属性を同時に正確に測定することは不可能だと言っている。これは、情報への制約だ。では、観測者とは誰か?なにも人間のような知的生命体である必要はあるまい。
量子力学は、「ゆらぎ」という概念を唱える。反物質は物質に触れた途端に消滅し、その質量はエネルギーとなって、束の間の存在という痕跡を残す。何かに触れるということは、何かと関係するってことだ。それは、何か情報を伝えたことを意味するのか?なるほど、存在とは、情報の痕跡を残すことであったか...
ところで、自己存在を強烈に印象づける力の類いに重力ってやつがある。まさに人間の命は重さにかかっており、それが自意識の源ともなれば誰もが血眼。ただ、人間は明確な重さの尺度を持ち合わせていない。自意識が強くなるほど、なんでもいいから何かと関わりたくてしょうがない。それは、自己との関わりでも構わない。孤独愛好家は独り言で充分に心を満たす。自己啓発や自己実現もまた自己観測の類いで、自己情報の収集を意味する。まるで観測依存症!
これほど情報を欲するのは、物質の性癖か?何かに絡まずにはいられないのは、「量子のからみ」の影響か?ついでに、なんでもワイドショー化してしまうのも、物質の性癖か?人間ってやつは、夢想、瞑想、妄想を続けてもなお飽き足らず、仮想空間をさまようことのできる情報的存在というわけか。そして、いつも心はゆらいでいる。自己存在を自己否定によって抹殺するのも、存在のゆらぎってやつか...

1. エントロピーと情報理論の相性
ボルツマンの墓碑には、あの公式が刻まれる。そう、エントロピー S の公式だ。

  S = k log W

W は、存在しうる状態の数。k は、ボルツマン定数。
ボルツマンは、躁と鬱の状態を繰り返す双極性障害に苦しみ、自ら命を絶ったと伝えられる。それは、自ら存在のゆらぎ、すなわち対消滅を体現したのであろうか...
一方、シャノンが提示した公式がこれ。

  S = - ΣPi log Pi

Piは、送られた情報量の中に、あるメッセージが含まれる確率。
二つの方程式は、そっくり。情報量に生起確率が絡むと、エントロピーになるってか。あらゆる物理現象、あらゆる人生、あらゆる運命は、確率論に支配されている。すべての物質の存在や状態は確率的に表せる。おそらく反物質も。アインシュタインは「エントロピーはすべての科学の第一法則」と言ったが、どうやら本当らしい。
とりうる状態 W = 1 の状況下では、エントロピーは永遠に S = 0 のままとなり、確率が存在するということが、あらゆる変化や進化に柔軟性を与えることを表している。男が生まれるのも、女が生まれるのも、はたまた天才が生まれ出るのも、障碍者が生まれ出るのも、遺伝子の組換え確率であり、運命論を信じるか、決定論を信じるかも、自由意思の選択確率だ。犯罪も、戦争も、災害も... 人間の気まぐれにも困ったものだが、神の気まぐれには往生する。
また、シャノンは、情報量にマイナス符号を与えているので、負のエントロピーやネゲントロピーとも言われる。情報もまたエネルギーのように... 創造されも、破壊されもしない... ということか。
ちなみに、シャノンはこの関数を「インフォメーション」と呼ぶことを考えたが、あまりにも使い古された用語なので、「不確実性」と呼ぶことにしたそうな。そして、フォン・ノイマンと意見交換をしたところ、彼はもっといい考えを思いついたという。
「エントロピーと呼ぶのがいい。理由は二つある。第一に、きみの不確実性関数は統計力学ではその名前で用いられてきたのだから、名前はもうある。第二に、こちらのほうがもっと重要だが、エントロピーとは何なのか、だれも知らないから、論争ではいつもきみが有利だ。」

2. 対数の妙技
エントロピーと情報理論の公式は、どちらも対数を基調にしている。対数で定義される方程式は、底を省略して記述されることが多く、本質的な現象を掴むには、むしろ底は曖昧な方がいい。対数は、単なる指数関数の逆関数という以上に、抽象化した思考方法を与えてくれる。エントロピーの公式こそ、底にネイピア数 e を選んだがためにボルツマン定数に存在感を与えているが、実は、底に何を選ぼうが大した問題ではない。
例えば、コンピュータ工学では、ブール代数という古典的な論理法を用いる。それは、真か偽かという二値を問うもので、そのまま 0 と 1 の値に対応し、トランジスタの on/off 制御に用いられる。そして、とりうる状態が N 通りあれば、log N のビット数があれば事足りる。これは底に 2 を選んだ場合で、情報理論の基礎をなす。チューリングマシンの消費量は、ビットの浪費で決まるという見方もできるわけだ。
ちょいと眺め方を変えると、2進法であれば N はそのまま桁数となるが、底に整数 n を選べば n 進法の桁数とほぼ等しくなり、モジュロ演算とすこぶる相性がいいことが見て取れる。ここが対数の凄いところ。
したがって、年齢表記に、かつて2進法とすこぶる相性のいい16進法を用いていたが、最近はモジュロ演算で若返りを図る。何を除数に選ぶかは精神の状態数で決まり、不安定状態が多いほど精神エントロピーも増大するという寸法よ...

3. 重ね合わせと絡み合い
「重ね合わせ」ってやつは、ぞっとする現象だ。一つの電子の経路に対して干渉縞ができるということは、電子の伝達に波動性があることを意味する。だがそれは、粒子という観点から伝達経路が一つではないことを意味する。しかも、スピンが逆ときた。情報の観点から言えば、0 と 1 が同時に伝わった状態である。これは、ハイゼンベルグの行列理論で数学的に説明がつく。そりゃ、猫も悩む。俺は生きているのか?それとも死んでいるのか?と...
波とは、統計的な情報である。個人が粒子性だとしたら、人間社会という集団が波動性であり、互いに相容れないのも道理かもしれない。一人で生きていれば間違いなく責任は自分にあるが、集団の中にいれば責任の所在も曖昧。存在しているか、存在していないかも曖昧。実に、曖昧とは心地よいものだ。
「量子のからみ」ってやつも、実に薄気味悪い作用だ。光速よりも速く情報が伝わるとすれば、時間は無ということか。テレポーテーションといえば、SFの世界では瞬間移動を思わせるが、量子の世界では物質ではなく情報をテレポートさせる。
テレポーテーションが過激な解釈だというなら、平行宇宙だって過激さでは負けてない。多宇宙の重ね合わせ... 宇宙の分裂... 選択肢の同時進行... 互いに因果関係がなく、同時に存在する世界とは?EPR対(スピン共鳴)は、それを体現しているというのか?
情報が光速を超えられないとすれば、独立した世界にならざるをえないが、そもそも「相対性理論」という名で、光速という絶対速度を規定するところが奇妙である。
しかしながら、因果関係がないとすれば、それは複写でもなければ、移動でもなく、完全な独立事象となる。単なるそっくりさんか?自分のそっくりさんは世界に三人いると言われるが、これだけ人口が溢れていれば驚くほどでもない。仮に、夢と現実が同時進行したところで、どちらが本当の自分なのかは、どうせ分かりゃしない。夢に酔うか、酒に酔うか、結局は同じこと。
そして、その正体が瞬間的な意思疎通だとしたら、しかも科学的に実証できるとすれば、気味の悪い遠隔操作が可能となる。そりゃ、政治野心家どもが量子コンピュータの研究に慌てて予算をつけるのも無理はない。おまけに、自分の方が遠隔操作されていることに気づかなければ幸せだ...

4. エントロピーとデコヒーレンス
微視的な世界と巨視的な世界とでは、なぜこうも異なる振る舞いをするのか?そこにどんな境界条件があるというのか?デコヒーレンスとは、量子が観測者になったような状態で、環境あるいは他の量子と絡んだ途端に、どちらかの状態に落ち着くというのか?どうやら、デコヒーレンスが猫を殺すらしい。
猫は生まれた時から環境に触れ、他となんらかの関係を持っているので、量子のような純粋な存在ではありえない... などといえば、プラトンの唱えたイデア論にも通ずる。物質とは、もはや原型をとどめていない状態ということか?そうなると、量子コンピュータに用いられるキュービット(量子ビット)ってやつは、デコヒーレンスを喰らうとどちらかの状態に安定して、もはや量子情報ではなくなるのではないか?物質の世界にどっぷりと居座る人間には、もはや検証できないシステムということか?
キュービットのデコヒーレンスで系のエントロピーは増大するという。どれだけ増大するかは、k log 2 といった形をとる。キュービットならシュレーディンガーの猫の状態を記述できるが、それがデコヒーレンスによって検証できないことになる。
検証できないシステムの意義とは、なんであろう?なぁーに心配はいらない。巷でもてはやされている AI だって、勝手に答えを出してくれる。計算過程なんぞどうでもいい。人間はブラックボックスの出力する答えを鵜呑みにすればいいのだ。なんと便利な世の中だろう。ん?それは宗教と何が違うのだろうか?デコヒーレンスは、エントロピーよりも強力な信者を生みそうだ。
古来人類は、意識とは何かを定義することに苦慮してきた。シュレーディンガーは、「生命とは何か」という本を書き、エントロピーの観点から考察している。人間の脳は、意識と無意識の境界をさまよい、思考が具体的な形として現れた時、これを閃きと言ったりする。ある考えが凝結し、意識の前面に現れた瞬間に意識となる。こうした精神状態も、デコヒーレンスとの境界面をさまよっていることになるのだろうか?
あらゆる苦悩は、自己を意識することから始まる。何かに集中している時、完全に時間の概念がぶっとび、ある種のトランス状態となって快感となり、崇高な気分になれることが度々ある。無意識、無心、無想、無我といった境地こそ、至福のひとときを与えてくれるのだ。量子論研究者の中には、意識の正体をこのように見ている人もいるらしい。
「人間の思考は、初め前意識で重ね合わせ状態にあり、それから重ね合わせが崩れ、波動関数が収縮するとともに意識に現れる...」

0 コメント:

コメントを投稿