2018-12-02

"不確実性の時代" John Kenneth Galbraith 著

世界を不確実にしているものとは何であろう。それは人間が関与するからにほかなるまい。神は嘲笑っているだろう。目の前に迫る危機にも気づかず、ひたすら邁進する人間どもを。だが、時間の矢に幽閉された精神の持ち主にできることは、それしかない。信仰や迷信に縋り続けるしか...
スミスの唱えた「見えざる手」は、いつのまにか「神の御手」に昇華させ、無慈悲な自由競争を旺盛にさせてきた。自由放任主義が行き詰まると、マルクスやケインズに攻撃され、今度は政府に希望を託した。経済学者が呪文のように唱えてきた、見えざる手、自由放任主義、金本位制、労働価値説、社会ダーウィン主義、マルクス主義、ケインズ革命... いずれも自足を満たせずにいる。経済思想ってやつは、常に移ろいやすく、しかも極端に触れ、おまけに過去の思想はゾンビのように蘇り、中庸の哲学とは無縁と見える。
優秀な政策立案者が施してきた経済政策にしても、しばしば的を外し、むしろ逆効果を生む。おせっかいな政府よ、なにゆえ、こうも社会をいじりたがる。おかげで、収奪的で適切さを欠く国家の手に委ねるより、見えざる手に委ねる方がまだまし、という考えはしぶとく残る。
異端者として登場したケインズは正統派の預言者となった。だがそれも、特別なケースにおける処方箋であった。よく見かける景気政策に、金持ちを優遇すると貧乏人が牽引される、といったものがある。だが、貧乏人が潤う前に景気は後退し、格差を助長してしまう。これが経済サイクルというものか。神は自責の念にかられているだろう。かくも多くの貧しき者をつくり給うたことを。だから、貧しき者を愛すというのか。なるほど、神の存在意義を強調するためにも、世界は不確実なままにしておくのがいい。そうでなければ、宗教の存在感も目立たなくなるだろう...
「一般理論は... 聖書や資本論と同様、それは、おそろしく曖昧であり、また聖書やマルクスの場合のように、その曖昧さが改宗者を獲得するのに非常に役立った。私は、あえて逆説を楽しもうとしているのではない。読書というのは、多くの努力を重ねたうえで理解に達した時には、その信念に強く執着するようになるものなのだ。」

ジョン・ケネス・ガルブレイスは、著作「ゆたかな社会」の中で、有閑階級の何が悪い... というようなことを書いた。経済学を学ぶと自己中心的になるという説を聞いたことがあるが、その大前提に自分だけは損をしない方法論という見方がある。保守的な意味では良い面もあるが、経済政策では露骨に国益を正当化してしまう。ただ、利己心にも称える言葉がある。教化された利己心... 啓発された利己心... といった形容の仕方で。まさにガルブレイスは、本格的な自己啓発、自己実現、そして自己投資の時代が到来したと言っているように映る。この酔いどれ天の邪鬼の解釈に、ちと行き過ぎ感は否めないにしても、生産や消費を煽る経済理論に行き詰まり感があるのは確かである。
ここでは、経済学界から逃避するかのように、テレビ界に救いを求める。原題 "THE AGE OF UNCERTAINTY." は、BBC 放送の連続番組の台本を作るために書き下ろした原稿を一冊にまとめたものだそうな。経済思想史を重要視している点に感銘を受けるが、なぜか経済学では異端とされるらしい。飽き飽きした学者連と議論するよりも、不特定多数の聴衆に訴えた方が合理的というわけか...
「経済学の分野で筆がたつということは、怪しまれるもとである。しかも、それには十分の根拠がある。名文は、人を説得する力をもっているし、また、頭脳が明晰でなければ、良い文章は書けぬ。自分自身が理解していないことを、うまく表現するということはできない。だから、わかりやすい文章というのは、一種の脅威とみなされる。つまり、頭の悪さを文章の難解さで隠す数多くの学者にとっては、何かおそろしく打撃を与えるもののように感じられるのだ。ケインズは、その気になれば、名文の書ける人だった。このことが、彼が疑いの目でみられた理由の一斑をなしていたのである。」

ところで、ガルブレイスの文脈は、独特の歯切れのよい名文だという。特徴的な分かりやすさを具えているとか。「ガルブレイスは、薬の処方を、読みそうもないラテン語で書く代りに、明快な英語で綴る医者みたいで、経済学者の常套手段である難渋さの陰にかくれるようなことをしないのは、ずるい」と言われたくらいだそうな。しかも、なぜか好んで男女間の交渉を皮肉をこめて話題にすることが多いという。女性とのかかわり合いを、予想もしない箇所に品を落とさぬよう持ち込むのがガルプレイス流なんだとか。この書は、彼の武勇伝だったのか。そのあたりは軽く読み流してしまったではないか。そういうことは先に教えといてくれないと。暗示にかかりやすい酔いどれ天の邪鬼は、この分厚い大作を最初から読み返さずにはいられないのであった...
尚、TBSブリタニカ版(都留重人監訳)を手に取る。

1. 主義や思想よりも既得利益か...
日常の政治議論では、その人が右か左か、リベラルか保守か、自由主義か社会主義か、といったことを気にかける。議論する側も、聴衆の側も。ただ、既得利益に対する態度は、どんな主義であれ、どんな思想であれ、あまり変わりがない。本書は、思想が既得利益にまさる場合もあるにはあるが、思想が既得利益の申し子である場合も極めて多いと指摘している。
産業革命や技術革新で経済思想の様相も随分と変わった。古代から盛んだった利息と高利貸しといった経済活動は生産へと向かい、食うための生産から付加価値を求める生産へと移行してきた。そしてさらに、人生にとって意義ある生産へと向かうのかは知らんが、金融屋の行動パターンは相も変わらずサヤ取りにご執心と見える。資本家と労働者の関係にしても、かつての地主と小作人、もっと古い飼い主と奴隷を言い換えただけで、労働市場が拡大するとともに、その仲立ちをする奴隷商人も多忙と見える。持つ者と持たざる者が生じるのは、人間社会の掟であろうか。人間と人間の間に所有関係が生じるのも、既得利益の賜物であろうか...

2. 労働運動の首謀者は...
「労働者の国家」とは、なんと心地のよい響きであろう。だが、マルクス的な労働運動にしても、階級の存在が前提される。植民地に、ブルジョアジーもプロレタリアートもあるまい。結局、既得利益や既得権益にしがみつくのであれば、労働者の間にも階級が生じる。階級闘争を煽るためには階級の存在が不可欠。資本主義の理念は平等社会を助長しない。
だからといって、平等主義に邁進すれば、個人の努力や創造力を損ない、文化を一様で単調なものとする。教育や芸術を活発にするには金持ちも必要。野心を罰っすれば、投資意欲を失わせ、リスクを冒す企業家を腰抜けにする。
政府のできることといえば、必要最低限の生活保障以外に何があろう。だが、これにも既得利益や既得権益が蔓延り、下手すると社会保障制度はタカリ屋を助長させる。階級ってやつは、貧乏人の世界にも生じ、人の不幸を見て救われるのである。それは、差別好きな人間の性癖であろう。
革命をもたらす思想は、大衆からは発しない。最も不満を持ち、最も反抗する者からは発しない。資本主義を恐慌から救った思想も、実務家や銀行家、あるいは株式所有者からは発しない。思想ってやつは知識人から生まれるのであって、これに踊らされる庶民という構図は変わらないようである。労働者の解放は実にいい。だが、それが自己の解放でなければ、いったい何を解放したというのか...

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