映画で観たのは何年前であろうか。映像には見たまんまの分かりやすさがある。とはいえ、原作も読んでみたい。やはり原作はいい。文字は作家の哲学を露わにする。そして、このフレーズに出会いたいがために...
「私は十代から板前修業の道に入りましたが、馬締と会ってようやく、言葉の重要性に気づきました。馬締が言うには、記憶とは言葉なのだそうです。香りや味や音をきっかけに、古い記憶が呼び起こされることがありますが、それはすなわち、曖昧なまま眠っていたものを言語化するということです。... おいしい料理を食べたとき、いかに味を言語化して記憶しておけるか。板前にとって大事な能力とは、そういうことなのだと、辞書づくりに没頭する馬締を見て気づかされました...」
主人公は、真面目と渾名されそうな馬締(まじめ)君。考えることが得意でも、何を考えたかを人に説明するのが苦手。心を開いて会話しているつもりでも、どうもうまくいかない。それが辛くて本を読むようになったとさ...
学校で本を読んでいれば、迂闊に話しかけられずに済む。辞書は知識を伝えるための道具、なによりも正確さを旨とする。言葉好きで人間嫌いにとっての辞書づくりは、都合のいい世間との媒体物となる。人は不安でしょうがないから必死に努力する。人とどう付き合っていいか分からないから必死にアプローチする。不器用だからこそ、真面目にならざるをえない。言葉にまつわる不安と希望を実感できるからこそ、言葉のいっぱい詰まった辞書に惹かれる。何かに本気で心を傾けたら、様々なやり方を試し、自ずと目標値が高まっていくだろう。物事の本質を見る目を養おうと思えば、ちょっと不器用なくらいの方が多くの機会に恵まれるのやもしれん...
「どんなに少しずつでも進みつづければ、いつかは光が見える。玄奘三蔵がはるばる天竺まで旅をし、持ち帰った大部の経典を中国語訳するという偉業を成し遂げたように。禅海和尚がこつこつと岩を掘り抜き、三十年かけて断崖にトンネルを通したように。辞書もまた、言葉の集積した書物であるという意味だけでなく、長年にわたる不屈の精神のみが真の希望をもたらすと体現する書物であるがゆえに、ひとの叡智の結晶と呼ばれるにふさわしい。」
辞書の主役は、なんといっても語釈。万人に受け入れられる語釈となると、客観性が重視される。
しかしながら、語釈とは語の解釈。それは編む者の解釈であり、すなわち主観である。辞書の個性は、まさに語釈に現れる。誰にでも受け入れられる説明文というやつは、味気ないものばかり。おまけに、形式張っていて、分かったようで分からぬ文章のオンパレード。監修者や執筆者一覧ではネームバリューがものをいい、辞書編纂者は批判を恐れて縮こまる。
そういえば、好きな辞書なんて考えたことがない。どれも似たようなものだろうとの思い込みがある。知識の核は自由精神によって支えられ、柔軟性によって担保される。知識の宝庫である辞書には、もっと自由で柔軟な物の言い方を提供してもらいたい。まずは、辞書を権威主義から解放しよう。
辞書はチームワークの結晶だという。人間の多様性は計り知れない。編纂チームには、キモい奴がいても、チャラい奴がいても、ダサい奴がいても構わないし、女子高生が引くようなオヤジギャグが登場しても構わない。語釈といえば、酔いどれ天の邪鬼ときたら、ついアンブローズ・ビアスばりの悪魔の辞典を思い浮かべてしまう。
ちなみに、「ぬめり感」とは... 「情けが深いが去り際のきれいな女」みたいな紙の質感を言うそうな。
「指に吸いつくようにページがめくれているでしょう!にもかかわらず、紙同士がくっついて、複数のページが同時にめくれてしまう、ということがない。これが、ぬめり感なのです!これこそが、辞書に使用される紙が目指すべき境地です。辞書は、ただでさえ分厚い書物です。ページをめくるひとに無用なストレスを与えるようではいけません。」
もちろん万能な辞書はない。万能な言語はない。言語が人間精神を体現するものだとすれば、人間精神を科学的に完全に解明できない限り、完全な言語システムを構築することはできまい。辞書は完成してからが本番。より精度と確度を上げ、改訂に改訂を重ね、次の世代を生き延びようとする。永遠に持続する満足などありはしない。言葉ってやつは、捉えても、捉えても、まるで実体が見えてこない。言葉の終わりなき運動は、無限宇宙を体現するがごとき...
「辞書は言葉の海を渡る舟だ...
ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かびあがる小さな光を集める。もっともふさわしい言葉で、正確に、思いをだれかに届けるために。もし辞書がなかったら、俺たちは茫漠とした大海原をまえにたたずむほかないだろう...
海を渡るにふさわしい舟を編む...」
2018-12-30
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