2018-12-09

"マネー その歴史と展開" John Kenneth Galbraith 著

「ゆたかな社会」、「不確実性の時代」に続いて三冊目... 経済学において歴史の観点を重要視し、思想史や哲学史に照らし合わせて魅せたジョン・ケネス・ガルブレイス。彼に言わせると、こうした見方は正統派経済学では邪道とされるらしい。ましてや、お金の歴史となると...
ケインズは、「一般理論」の序文で、是非大衆にも読んでもらい議論に参加してもらいたい、といったことを綴り、素人読者を励ましてくれた。お金は万人にとって身近な問題。経済学の専門家よりは、むしろスーパーの買い物客の方が実践的な知恵をもっているかもしれない。ガルブレイスも、これに通ずるようなことを書いてくれる。もっと皮肉った形で...
「本書のような書物に読者がどのような心構えで近づいてほしいかについて一言しておかねばならない。貨幣にかんする多くの議論には坊主くさい呪文がたっぷりと塗りこめられている。そのうちのいくつかは意図的なものである。貨幣について語り、それについて教え、それによって生計を立てている人びとは、医者、あるいは祈祷師がやっているのと同じように、彼らは神秘的なものと特権的な結びつきがある。つまり彼らは普通の人間には決してそなわっていない洞察力をもっているという信頼の念を世間に流布させることによって、威信、尊厳および金銭的収入を得ているのだ。それは、職業として役に立ち、個人的には金もうけになることであるけれども、このようなやり方もまた一つの定着した形の欺瞞行為である。貨幣にかんする事柄で、通常の好奇心、勤勉さ、および知性をもっている人が理解できないようなことは、いっさいない。同様に、以下のページにかかれていることでも、理解を超えるような事柄は何もないはずである... 経済学の他の分野のいかなるものにも増して、貨幣の研究は、真実を明らかにするためではなく、真実を偽装し、あるいは真実を回避するために、複雑さが利用される分野なのだ...」

第一次大戦は、金を軸に打ち立てられた通貨機構がいかに脆いものであるかを示した。1920年代は、金融政策が抑制手段としていかに役に立たないかを示した。金融政策の行き詰まりを市場が察知すると、たちまち相場が崩壊。財政政策のみが有効であり得た時代にヒトラーの第三帝国が出現した。財政政策は、貨幣を借り入れる機会を直接設けて支出を保証し、いかに生産や雇用を拡大し、不況を克服するのに有効であるかを示した。これが、ケインズの教えであろうか...
ニューディール政策もまたケインズ革命に先駆けた実証例であったかどうかは別にして、第二次大戦がアメリカ経済の躍進に寄与した。だが、財政政策は万能薬ではなかったし、インフレを阻止しえなかった。これが、戦争の教訓であろうか...
尚、TBSブリタニカ版(都留重人監訳)を手に取る。

人間ってやつは、お金を前にすると近視眼になる。お金が人を狂わせるのか、そもそも人が狂っているのか。経済学がお金の流れを追いかける研究分野であるからには、金融工学やファイナンス理論を旺盛にしていくのも、その性癖の顕れか。資本主義という貨幣を自然増殖させる奇跡的なシステムを支えているのは、投資という行動原理である。
しかしながら、投資の哲学的意義なんぞを問うても上の空。浪費家は主張するだろう... 金は天下の回り物... と。金融屋は主張するだろう... 金融商品を買おうという客で溢れているのに売らない理由がどこにあろうか... と。それを尻目に投機屋はサヤ取りに明け暮れ、元の鞘に収まるのかは知らん。
貨幣流通の最大の役割は、金欲の平等化であろうか。人類は価値の概念に弄ばれてきた。価値の尺度を探し求め、その挙げ句に貨幣を発明し、価値の概念を自由に解放してしまったがために仮想化へとまっしぐら。パンドラの箱を開けちまったか。精神ってやつが得たいの知れない実体だけに、仮想的な存在とすこぶる相性がいいと見える。つまり人間は、この長い歴史経験をもってしても、真の価値を知らずにいるということか。いや、まだまだ経験が浅く、経済哲学を身にまとうには若すぎるというのか。いまや仮想化の波は現金を抹殺にかかる。時代はリアル貨幣の最期を迎えようとしているのか。あるいは、一連の金融危機によって、紙幣や硬貨を絶滅の危機から救おうとしているのか。お金はお構いなしに自由に振る舞い、人間は永遠にお金の奴隷というわけか。金に目がくらみ、金で遊んでいるつもりが、金に弄ばれ、堕ちていく。天国と地獄の区別もつかんと。いま、テンポのいい文脈に乗せられて、ラジオからあの懐かしい ABBA の曲が流れてくる。Money... Money... Money...

1. お金は手に余る...
貨幣は、国家の信用度を裏付ける存在として君臨してきた。では、貨幣の信用は、どこから発しているのか?造幣局は、なにゆえ信用に足るのか?その後ろ盾となる国家は、どれほど信用できるというのか?それは、単に慣習がそうさせるのか?
お金ってやつは、ますます神秘性をまとい、人類を迷信へと駆り立てる。貨幣が仮想的な存在であることを最初に世に知らしめたのは、おそらく貨幣偽造であろう。贋金で敵国の財力を削ごうとする策謀は、古代の記録にある。贋金の歴史は、賢い人間のことだから、おそらく貨幣の発明とともに始まったのだろう。犬のディオゲネスとあだ名された犬儒学派の哲学者は、価値の本質を問い、貨幣の真の意味を問うて偽造に及んだがために、国外追放をくらった。この御仁がお金の犬になったのかは知らんが、彼の武勇伝に陶酔する酔いどれ天の邪鬼が子猫ちゃんの犬であることは確かだ。
やがて科学の時代が到来し、それでもなお、仮説を嫌ったニュートンまでもが錬金術に嵌った。お金が人を変えるのか。人の本性を露わにするだけなのか...
人間には、お金は手に余る。自由に泳がせておくのが一番。そう考えてお金の哲学に奔走したアダム・スミスは、後に経済学者と呼ばれたことを、あの世で迷惑しているかもしれない。
とはいえ、彼に始まる経済学が、宗教心が旺盛で迷信の強烈な時代に、価値の概念に若干の客観性を与えた功績は大きい。お金が暴走を始め、国家の信用度が下落すれば、ただちに何らかの対策を講じなければと権力者は焦る。そのためには、まずお金の正体を知らねば。だが、その正体が一向に見えてこず、イデオロギー論争にすり替えられてきた。経済政策とは、対立的なイデオロギー選択の問題とも言えよう。しかも、持つ者と持たざる者の闘争という形で。そして、経済学の歴史とは、金融政策と財政政策の綱引きの歴史であったか...
金本位制の理念は、貨幣を通じてのグローバリズムの試みであった。だが、何を本位にしたところで... 現代でもその名残をとどめ、貨幣の信用度に疑いが広まると、すぐさま鉱山物へお金が流れる。変動相場制は、金融政策に強烈な存在感を与えた。だが、市場はしばしば政策立案の思惑とは真逆の反応を示す。やはり人間には、お金は手に余る...
「公開市場政策、公定歩合、再割引率という概念ほどに神秘性に包まれたものは、実はないくらいである。これは、経済学者や銀行家が、その他市民のうちのもっとも物識りとみなされる人たちでさえが自分の理解を超えると考えるような知識に対して、特別の理解をもっていることを誇りとしてきたからにほかならない。公開市場政策というのは... 中央銀行が証券類を売却することであって、こうした操作は、商業銀行または普通銀行から貸付用の資金源である現金ないしは準備金を吸上げることになる。公定歩合と再割引率とは同じことで、これは、一般の銀行が中央銀行からの借入れによって苦痛なしにその現金ポジションを取りもどすことを妨げる効果をもつ。これだけのことなのだ。こうした手法が前世紀を通じて発展してきた背景に照していうならば、そのいずれもが、状況に対するきわめて単純で自明でさえあるような対応策にほかならず、それが神秘的であるなどとは、とうてい言えそうもない。」

2. 歴史をお金の目で眺めると...
歴史をお金の面から観察すると、人間社会の醜態が見えてくる。奴隷解放運動として名高い南北戦争の真の目的とは。自由精神を信条としたルネサンスのもたらした真の結果とは。インフレ要因となるものすべてを毛嫌いするのは、経済学の伝統のようである。
南北戦争においては、リンカーンが発行した「グリーンバック紙幣」に対して歴史家の評価は厳しい。その考察では南部と北部の産業格差が浮き彫りになるが、農業経済と工業経済の対立構図は現代の構造的問題と同じ。そして、政府紙幣が、金が金を生み出すシステムを助長してきたという見方もできそうか。
ルネサンスにおいては、通商の復活が見て取れる。まず、造幣局の次に銀行が出現した。銀行業はローマ時代にはっきりとした形で存在したそうだが、中世に高利貸しに対して宗教的な反発が生じて衰退したらしい。ルネサンス時代、宗教的な配慮よりも金銭上の利益の方がまさっていく。自由精神は金儲けの欲望までも解放してしまったか。当時のヴェニスやジェノヴァの銀行は、現代の商業銀行の先駆者として認められているという。偉大さにおいては、どんな銀行家よりも、ロスチャイルド家や JP モルガンでさえも、メディチ家に及ぶべくもないと。
お金を自然増殖させるシステムでは、銀行券が大きな役割を果たす。なにしろ利息が自然発生するのだから。ガルブレイスは、銀行の基本的な問題を、こう書いている。
「銀行業の性質上 100% の用意のない貴金属を求めて預金者や銀行券保持者が殺到してくるような可能性に対し、どのようにして貸付を制限するべきか、その他の予防手段を講ずるべきか...」
まさに、自己資本比率の問題ではないか。おいらが経済学に抱き続けた懐疑的な概念の一つ。それは、金融危機の主役を演じてきたレバレッジの問題に通ずるものだ。どこまでの範囲を自己資本と定義するか、という問題もあるが、返済義務が法的に発生しなければ、すべて自分のものと考えるのが金融屋の感覚のようである。いずれにせよ、BIS規制ですら 8% 程度という低水準を知って、ド素人感覚で唖然としたのは昔のこと。いつ信用不安が広がり、いつ金融危機が起こっても不思議ではない、資本主義ってやつは実に紙一重で機能している、というのは歴史的観点からも本当のようである。資本主義は、お金を自然増殖し続けなければ持たない、自転車操業状態というわけだ。
しかしながら、これは資本主義だけの問題とは言い難い。お金にかかわる人間社会そのものの問題なのだろう...

3. 価値尺度と市場原理
人の価値観は極めて主観的に決定され、これを客観的に解決することは絶望的である。そこで市場原理は、価値の尺度を統計的に解決する方法論として、欲望の群れを相殺する形で機能させようとする。中には、金銭的な欲望よりも優先すべき欲望を知っている者もいるだろうし、金銭的な欲望しか知らない者でも、誰かが儲ける方法を編み出せば、その裏をかいて儲ける方法を編み出し、その無限循環を突いて価値が均衡する、といった具合に。ここに、自由放任主義の原点がある。
つまり、欲望の多様性こそが鍵というわけだが、市場参加者の価値観は偏りすぎるほどに偏っている。人間の価値観は、市場に参加した途端に一様性へ向かわせるのか。やはり金に対する人間の態度は本能的なもののようである。
さらに価値尺度の偽装は巧妙化し、「信用格付」なんて概念まで登場した。価値のない債権に最高格付を与える格付会社の出現が、数多の金融危機を招いてきた。おまけに、こいつは公的機関のお墨付きときた。価値の変動を餌にサヤ取り技術を進化させ、その技術が価値の変動を煽る。価格の安定を問題とする経済学は、その変動に魅せられて本来の目的を見失ってしまったか...

4. 財政政策とケインズ信仰
一世紀以上も経済学を支配してきた「セイの法則」は、総供給と総需要が常に一致するという考えを中心に据える。失業は一時的な失敗現象で、放っておけば、いずれ完全雇用に落ち着くとする楽観的な考えである。この宗教的信仰に終止符を打ったのがケインズで、彼は深刻な失業状態でも均衡しうることを示した。身体が血液循環を頼みとするように、経済は資本循環を頼みとする。浪費家の自転車操業では、資本主義はすぐに息切れする。いくら貯蓄しても、それがまっとうな投資に向かわなければ、やはり息切れする。その投資刺激を市場原理に任せるだけでは不十分とする考えは、いまでは広く受け入れられている。
ただ、ケインズが論じたのは不均衡状態である。ケインズ体系の実証例として、よく持ち出されるものにヒトラーの経済政策がある。一貫して公共支出のための大規模な借入れを主体とし、アウトバーン、鉄道、運河などの建設、そして軍備拡張で、大失業問題をあっさりと解決してしまった。しかし、ガルブレイスの見方はちと違う。当時の超ハイパーインフレが、他に方法がないという事態にまで追い込まれていたからであって、ましてや第三帝国の面々が書物に親しむような連中ではなく、彼らの頭に金融政策という概念すらなく、偶然にも財政政策を実施したに過ぎないと。その証拠に、後の数年でナチス経済を絶滅させてしまったと。
金融政策が支配的な時代に、財政政策の重要性を指摘したのがケインズである。ケインズ体系の中心に、経済の生産物に対する総需要が経済の総生産を決定するという考えがある。まさに数学者らしく、産出量の水準と雇用の水準の関係において、かつて独立変数であったものを従属変数にしてみせた。ニューディール政策にしても、ファラオ時代のピラミッド建設にしても、公共事業の経済効果が絶大であることは確かである。クラウゼヴィッツ風に、戦争もまた政治や経済の手段だとすれば、第二次大戦後のアメリカがそれを実証してみせた。戦争ってやつは、見事に人手不足を体現してやがる。大不況で遊んでいた施設や労働者を、すべて戦備物資の生産に向けることができたのである。実は、第二次大戦こそがニューディール政策の根幹だったのでは、と解するのは行き過ぎであろうか。
しかしながら、ここにケインズの弱点が同居する。まず、何をもって不均衡とするか。はたして、完全雇用状態はありうるか。平時であれば、どんなに好況であっても不況で喘ぐ人々が少なからずいるし、好調の産業もあれば、衰退していく産業もある。労働賃金はベースアップすると下げにくい。支出が増大すると削減しにくい。欲望エントロピーは、軽いインフレを求めているようである。
ケインズの理論は、財政政策を裁量的に実施する... と言えば聞こえがいい。だがそれは、誰の裁量?いつ誰が発動する?予算はすべて消化しないと翌年度の予算が確保できないとなれば、官僚的思考に陥ってしまい、投資はたちまち浪費の餌食。箱モノづくりをちらつかせて地元の土建屋を喜ばせ、それが票につながるとなれば、政治屋はケインズがお好き...

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