「職業としての政治」は、1919年、ミュンヘンのある学生団体(自由学生同盟)のために行った公開講演をまとめたものだそうな。第一次大戦の敗北でドイツ全土が騒然たる革命の空気に包まれる中、帝政の崩壊とともに政治の意味するものも変貌していく。各地でレーテ運動が活発化し、どこよりも知識人革命の色彩を帯びていたのがミュンヘンだったという。プロイセンを中心としたドイツ帝国の中でも、ちょいと距離を置く南ドイツのバイエルンの首都。後に、ヒトラーの血なまぐさい運動を誘発した地でもある。
マックス・ヴェーバーにして、やりきれない気分に駆り立てたものとは... 敗戦の事実をあたかも神の審判のように捉える、知識階級の自虐的で独り善がりなロマンティシズムに苛立ったと見える。芸術界に波及したナショナル・ロマンティシズムが、いよいよ政治の世界で目覚める時が。愛は盲目と言うが、冷静な愛国心を身にまとうには修行がいる。ここでは、ヴェーバーのナショナリスト的な側面を垣間見る...
他にも、ヴェーバーが学生諸君に奮起を促した講演では「職業としての学問」という作品があると聞く。無論、こちらに向かう衝動も抑えられそうにない。実際、目の前に控えてやがるし...
尚、ここでは、脇圭平訳版(岩波文庫)を手に取る。
政治とは何か。国家とは何か。ヴェーバーは、そんな素朴な疑問を投げかける。彼は、国家を「正当な物理的暴力行使の独占を実効的に要求する人間共同体」と定義し、政治を権力の配分、維持、変動に対する利害関心としている。
「政治とは、国家相互の間であれ、あるいは国家の枠の中で、つまり国家に含まれた人間集団相互の間でおこなわれる場合であれ、要するに権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である...」
「すべての国家は暴力の上に基礎づけられている。... トロツキーはブレスト=リトフスクでこう喝破したが、この言葉は実際正しい。」
国家の正当性は国民主権を守ることに発し、統治権もまた正当性が担保されなければ、ただの暴力ということになる。
とはいえ、権利とは相手との関係から生じるもの。それが集団と集団の間であれ、個人と個人の間であれ、なんでもかんでも権利を主張すれば、当然ながら衝突することになり、権利にも相対的な制限が必要となる。この制限が、一般論で倫理や道徳と結びつけられるところ。有識者たちは、政治と倫理を結びつけて熱弁をふるう。
また、正当性が担保されるからといって安心もできない。正当性ってやつは、実に多種多様な解釈を招き入れるもので、一筋縄ではいかない。一般的な基準としては、法が役目を果たすことになるが、条文の解釈もまちまちときた。よって、政治行動の正当性は、歴史に委ねられるところがある。
しかしながら、政治行動とは現実の今を生きることであって、のんびりと過去を考察している場合ではない。本書は、政治に倫理を結びつけたユートピア志向への警鐘という見方はできるだろう。要するに、政治はあくまで政治であって、倫理ではない!ってことだ。ヴェーバーの問題提起は、有識者に対して、特に理性人には挑発的なものとなろう。
「政治に関与する者は、権力の中に身をひそめている悪魔の力と手を結ぶ...」
1. 政治心理学
「政治とは何か。これは非常い広い概念で、およそ自主的におこなわれる指導行為なら、すべてその中に含まれる。現にわれわれは、銀行の為替政策とか、国立銀行の手形割引政策だとか、ストライキの際の労組の政策がどうだ、などと言っているし、都市や農村の教育政策、ある団体の理事会の指導政策、いやそればかりか、利口な細君の亭主操縦政策などといった、そんな言い方もできる。」
政治は、なにも政治家の専売特許ではない。人間、二人寄れば争いが起き、三人集まれば派閥ができる... なんて言うが、人間関係あるところに政治的な思惑が生じ、集団あるところに政治屋が蔓延る。これはもう人間社会の掟である。
アリストテレスが... 人間をポリス的動物... と定義したのは実にうまい。ポリス的とは、社会を育むこと、集団生活を営むこと。つまり、人間はみな寂しがり屋ってことだ。
そして、共存は競争を生み、自己の優位性を強調しようと躍起になる。これは、ある種の自己防衛本能の顕れである。人間は、自己存在を確認するために、本能的に世話好きなところがある。自分だけが良い目に会ったり、自分だけが良い事を知っていると思えば、誰かに喋らずにはいられない。宗教心は、押し付けがましいところから始まり、それが使命感へと肥大化させる。教育や指導の動機にも似たところがあり、良く言えば、啓蒙家の資質である。ただし、啓蒙とは恐ろしいもので、使命感によって他人を陶酔させようとしながら、自己陶酔に浸るところがある。
したがって、政治行動の末期症状に、自己陶酔や自己暗示といった心理現象を見て取れる。ヒトラーが自滅したのは、歴史の偶然だけで片付けてよいものやら。民族主義と深く結びついた国家社会主義を掲げる以上、戦争は避けられなかったはずである。これはもうイデオロギー特有の必然性であろう...
「権力追求がひたすら仕事に仕えるのでなく、本筋から外れて、純個人的な自己陶酔の対象となる時、この職業の神聖な精神に対する冒瀆が始まる。」
2. 国家と帰属意識
職業政治家の行動と動機を考察する上で、国家の概念を抜きには語れまい。ナポレオン戦争後、ヨーロッパに秩序を回復させたウィーン体制。これを崩壊させた十九世紀の革命機運、いわゆる「諸国民の春」から近代国家が続々と出現した。
つまり、現在の国家の枠組みが成立して、せいぜい二百年ぐらい。ハプスブルク家の六百五十年やロマノフ王朝の三百年と比べれば、まだまだ若い部類だ。世界は政治哲学をもつにはまだ若すぎる... とは誰の言葉であったか、なかなか的を得ていそうだ。
近代国家の特徴として、かつて国家間の紛争が領土問題に発していたのに対し、これに民族意識としてのアイデンティティが火種として加わったことが挙げられよう。どちらも帰属意識に発することに変わりはない。二百年の歴史を伝統と呼べるほどのものかは別にして、帰属意識として定着すれば、伝統意識を強烈に植え付ける。政治を実践する者にとって、帰属意識の扱いはデリケートな問題となろう。その根底に自己存在という意識があり、まさに国家の概念はここに発する。こうした意識が自己防衛本能を刺激し、集団意識となって国家安全保障の概念と結びついてきた。
ただし、こいつは自己陶酔の根源となる意識でもあり、しばしば愛国心という名で集団的自我を肥大させる。人間ってやつは、本能的に臆病である。臆病でなければ、これほどの文明は発達しなかったであろう。臆病ゆえに恐怖心を煽ることが、政治戦略では絶大な効果を得る。順風満帆な社会では、政治の存在感は極めて薄い。それが政治家にとって幸か不幸か...
3. 権力と虚栄心
政治を行う者は、その必然性から権力を求める。ヒュームの言葉に... 政治的企画室というのは、権力を握ると、これほど有害なものはないし、権力を持たなければ、これほど滑稽なものもない...いうのがあるが、実にうまい。
権力を、高慢な目的や利己的な目的のための手段として追求するか、優越感を満喫するために追求するか、あるいは使命感のために追求するか、そんなことは知らんよ。目的がどうであれ、政治家を目指すならば、支持者を募る必要がある。少なくとも民主主義社会ではそうだ。大衆からどう見られるか、これは政治家としての重要な資質の一つである。そもそも虚栄心のない人間がいるだろうか。評論家や学者の場合、それが鼻持ちならぬものであっても害は少なくて済むが、政治家の場合、虚栄心の満足が権力と直結するだけに見過ごすわけにはいかない。
政治行動の原動力が権力であるならば、この権力が正当性に裏付けられた暴力であるならば、これに相応しい特別な倫理観を要求せねばなるまい。ヴェーバーは、政治家の特に重要な資質として、情熱、責任感、判断力の三つを挙げている。しかも、この三つを貫く心に、悪魔的な信奉者となることまで要求している。情熱とは権力を味わう充実感、責任感とは政治哲学の信念、判断力とは冷静で客観的な視点で、それぞれのバランスをとることが政治家の資質ということになる。だが、一人の人間の内でさえ、心情倫理と責任倫理を和解させるには、よほどの修行がいる。そして、不倶戴天の敵が卑俗な虚栄心というわけだ...
「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。... どんなに愚かであり卑俗であっても、断じてくじけない人間。どんな事態に直面しても、それにもかからず!と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への天職を持つ。」
4. 服従と人間装置
権力の正当性を語るならば、服従の正当性も語らねばなるまい。服従の正当性の根拠を問い詰めていけば、三つの純粋型に突き当たる。一つは、永遠の過去が持つ権威、習慣によって神聖化されるような「伝統的支配」の類い。二つは、天与の資質や英雄の啓示など個人に帰依するような「カリスマ的支配」の類い。三つは、法の命令が義務となるような「合法的支配」の類い。三つ目の服従が最も客観的と言えようが、実際は単独の純粋型を見ることは稀で、三つが複雑に絡み合った形で現れる。そして、心理学的に、無意識の服従という型も加えておこうか...
「暴力によって、この地上に絶対的正義を打ち立てようとする者は、部下という人間装置を必要とする。」
服従の原理は、部下や追従者という人間装置なしでは機能しまい。そこには、必ずと言っていいほど見返りの原理が働く。しかも、たいていは復讐、権力、戦利品、俸禄といった欲望の正当化にすぎない。
そもそも人間には、本能的に見返りを求める性癖があり、神の前ですら願い事を唱える。そりゃ、神も沈黙するしかあるまい。なぁーに心配はいらない。代わりに宗教が願い事を叶える、と約束してくれる。死後の世界で...
大衆は、心地よく服従する状態を求めているかに見える。だから、人のせいにし、組織のせいにし、社会のせいにし、それで安穏と生きていられる。いとも簡単に平凡きわまるサラリーマンに堕落してしまうのは、それを心底望んでいるからではあるまいか。服従とは、依存症の政治的状態を言うのやもしれん...
2019-09-29
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