スパイの歴史が古代に、あるいは神話の時代に遡るにせよ、諜報機関として設立され、組織として本格的に機能し始めたのは二つの大戦から。近代戦争は国家総力戦の様相を呈し、国力を測るには、経済力、工業力、科学技術力、人口、エネルギー資源、地理、あるいは国民の性格や士気、イデオロギーなどあらゆる要素が絡んでくる。もし、戦争をやるなら正義の御旗が必要不可欠。特に、民主主義国家にとっては。民主主義の特徴として、いや、危険性として、国民感情を外交に反映させる傾向がある。先に攻撃を仕掛けて大戦果を上げても、末代までの恥となっては愚の骨頂。それゆえ、犠牲を最小限に抑えつつ、先にやらせるといった戦略が古くからある。先手必勝とは、先に備えるという意味で必勝となる。したがって、平時でこそ重要... 戦時では遅い... ということになる。これこそ、政治方面におけるインテリジェンスの意味することだと理解してきた。本書に、インテリジェンスという語は見当たらないが、こうした経緯に沿ってその発端を垣間見る...
「秘密情報任務の本質は、すべてを知る必要を別にすれば、歴史的潮流をフォローし、それを将来に投影する能力である。」
「ゲーレン機関」... インテリジェンス関連の書に触れれば、たいていこの名に遭遇する。東西冷戦時代の裏の立役者... BND(ドイツ連邦情報局)の前身... ヨーロッパでは CIA 以上に知られた組織で、その存在を誰もが知っていた。しかし、こいつがどこにあり、どこに所属しているかを知る者は限られている。資金源はどこか、本当に西ドイツの組織なのか、と疑われるほどに。ラインハルト・ゲーレンは、「顔のない男」と呼ばれた。ロンドンのタブロイド紙「デイリー・エクスプレス」に記事が躍る...
「ヒトラーの将軍、いまドルのためにスパイとなる!」
原題 "The Service: The Memoirs of General Reinhard Gehlen..."
「サービス」という言葉は商業用語として馴染んでいるが、ちょいと辞書を引いてみると... 奉仕、役に立つこと、助け、尽力、骨折り、功労、勲功... あるいは、公共事業、軍務、兵役などの意味が見つかる。シークレット・サービスが、大統領や首相など要人の警備という意味で使われるので、まったく違和感がないにせよ、一つの言葉には実に幅広い意味が含まれていることを改めて感じさせられる。まさに言葉の裏を読む世界!分かりやすさい言葉ばかり追いかけていると、思考停止状態に陥ると言わんばかりに...
現代の政治家たちが、現実に起こりつつある事柄にわずかな認識しか持っておらず、こんなことも想定できなかったのか?と驚かされることがある。わざと演じているのかは知らんが、誰にも知られずに影で世界を観察し、地道に分析している人たちがいる。大衆がソーシャルメディアで炎上合戦をやっている間に、彼らは社会を深く潜って真の情報戦を繰り広げている。本当の意味で世界を動かし、無知な大衆が幸せでいられるのも、名も無い彼らのおかげであろう。そして、シュリーフェン元帥の金言が輝きを増す...
「参謀本部将校は名前を持たない。」
1. 機関誕生秘話の背景
まず、ゲーレン機関誕生の背景に、第二次大戦中に既に始まっていたイデオロギー対立を無視するわけにはいかない。ルーズベルト大統領の腹心の友だったウィリアム・C・ブリット大使は、「ルーズベルが悪魔を追い出すために魔王の力を借りたこと、アメリカは今こそ本当の危機に直面しているということを確信しながら死んでいった。」と書いているという。ただしブリットは、「この事実が民主主義国において一般に浸透するまでには五年はかかるだろう。」と付言したとか。
ソ連も、西側に大規模な情報網を張り巡らせ、巧みな情報戦を繰り広げていた。首都ベルリンへの到達競争は、戦利品と戦後の主導権をめぐって激化する。戦利品とは、科学技術や機密書類といった物的なものだけでなく、優秀な人材の確保も含まれる。ソ連が米英に先んじてベルリンを陥落させたのも、偶然ではあるまい。1945年末、ソ連軍のペルシア侵攻によって動揺させられたにもかかわらず、世論が認識するには朝鮮戦争まで待つことに...
ゲーレンが米軍に投降した時、尋問にあたった将校の多くが「ドイツ軍 = ナチ」という図式しか頭になかったようである。陸軍参謀本部東方外国軍課の課長ゲーレンを米軍が確保したことは、ソ連にとって脅威となる。なにしろ東側共産圏に広大なスパイ網を構築した張本人だ。無論ソ連もゲーレンの行方を追っていて、西側にはソ連のご機嫌をうかがって、明け渡すべきだと主張する呑気な将校もいたという。
確かに外から見ると、陸軍参謀本部の位置づけはなかなか微妙だが、内から見るとヒトラーの機関と一線を画す。そもそも戦争目的からして違う。劣等人種論に憑かれたヒトラーは民族絶滅を目的としていたが、陸軍参謀本部は現実的な政治的解決を模索していたという。面従腹背の姿勢で知られるカナーリス率いる諜報機関アプヴェーアが、防波堤になっていたという見方もできそうか。本書は、カナーリス提督を信念の人、高潔な人と評し、提督の組織との協力時代から学んだ教訓が語られる。
2. 参謀本部と暗殺未遂事件
ヒトラー暗殺未遂事件に陸軍参謀本部の面々が関わっていた意味は大きい。ゲーレン自身は陰謀に加担していないというが、それは本当らしい。ただ、その情報すら知らなかったと言えば、さすがに嘘になろう。
ゲーレンの上司には、フランツ・ハルダー、クルト・ツァイツラー、ハインツ・グデーリアンという面々が連なり、彼らが、いかに男らしく夢想家の決定を覆そうとしたかを物語っている。ハルダー将軍は、こう言い放ったとか。
「とにかくヒトラーが私を追い出すまで、反論し続けてやる。彼はもう理性の声には一切耳をかそうとしない...」
自主的に判断し、行動することは、軍法会議もの。ヒトラー批判と見做されて。見事な官僚体質を助長する論理である。
使い古された軍人の掟に、命令は絶対服従!といったものがあるが、情報機関ではほとんど役に立たない。組織の末端で行動する情報員は独自の判断力がなければ話にならず、ヒトラー崇拝とは真逆の行動原理が求められる。
ヒトラー暗殺計画の妨害に、西側が噛んでいたという説も否定はできまい。チャーチルにとって、暴走オヤジの方が戦争は確かにやりやすい。いや、ゲーリングの方がましか。ん~、微妙だ。いやいや、ヒムラーだったらもっと悲惨だったか。ん~、実に微妙だ。いずれにせよ、政治の駆け引きってやつは、なかなか思惑通りにはならないもので、逆効果となるケースも多い。
バルバロッサ作戦の初期段階では、ドイツ軍はスターリンからの解放軍として歓迎されたという。こうした友好的な様子は、電撃戦で名を馳せたグデーリアン将軍の回想録にも見て取れる。しかし、ソ連民衆の好意も、後から乗り込んできた親衛隊によって憎悪に変貌させてしまう。ゲーレンは、独ソ提携の「ロシア民族解放プラン」を提示している。ドイツ参謀本部は、まさにそうした視点からソ連という広大な領土を分析していたという。スターリンを後ろから援護したのは、実はヒトラーだったというわけか。相手の文化までも抹殺にかかる検閲の狂気ぶりが貴重な情報源を断つとは、なんとも皮肉である。
そういえば、ある会津人の記録で、蒋介石が似たようなことを大日本帝国に対して警告していたのを思い出す。対立関係にあった国民党と共産党の双方から憎悪を買ってしまったと...
現在でも、「国家 = 民族」あるいは「国家 = イデオロギー」という図式しか描けない政治屋どもを見かけるが、戦略上、誰を敵にまわし、誰を味方にするかは死活問題である。
そして現在、グローバリズムが浸透し、各国で意識や価値観の二極化が進む。情報入手の機会が平等化していくと意識格差を助長するとは、なんとも矛盾した話だが、意欲のある人はますます意欲的に知識を求め、意欲のない人はますます置いていかれるという構図は、今に始まったことではあるまい。それは、金儲けの機会が平等化すると、金持ちはますます金持ちになり、貧乏人はますます貧乏になっていくのと似ている...
3. 紳士協定
ドイツ新政府がまだ樹立していない時期、OSS(米国戦略諜報局)のアレン・ウェルシュ・ダレスと紳士協定を結んだ様子を物語ってくれる。アメリカにとっては実にうまい話。ドイツ参謀本部の対ソ連諜報機関をそっくりそのまま取り込むことができるのだから。ただし、紳士協定というからには口約束のレベル。メモを残しているのかは知らんが、互いの信頼関係を示している。いや、ゲーレンには選択肢が他になかったのだろう...
内容は、ざっと六項目。
- 現存する勢力を利用して秘密のドイツ情報機関を設立し、従来行ってきたのと同様、東の情報収集を継続。
- アメリカの傘下ではなく、あくまでも協力的な立場。
- 完全にドイツ人の指導の下で、ドイツに新政府が樹立するまでアメリカの下で任務を受ける。
- アメリカから財政援助を受け、その代わりにアメリカに情報提供する。
- 新政府が樹立してドイツが主権を回復した時、同機関を存続するかどうかは新政府が決定する。
- アメリカとドイツの利益が食い違う立場に立たされたと考えた場合、同機関はドイツの利益を第一に考える。
4. 予防戦争の哲学
どんな仕事であれ、究めようとする者は哲学者になるものだと思っているが、ゲーレンにもその姿勢が見て取れる。本書には、クラウゼヴィッツの名を所々で見かけ、ドイツ参謀本部に戦争論哲学が浸透していたことが伺える。フリードリヒ大王に始まり、シャルンホルストやモルトケを経て、プロイセン軍人魂が受け継がれていることも。
また、孫子を引用し、戦わずして勝つ... 敵を知り己を知れば百戦殆うからず... という思想哲学こそが情報の要、ひいては予防戦争の要としている。
「未来に関する知識は神からも悪魔からも獲得できない。また比較や測量や計算によっても手にはいらない。敵に関する知識は人間的な機関を通じてのみ獲得される...
使われるスパイの種類には五つある。生まれつきのスパイに心内のスパイ。向こう側から寝返ってきたスパイ、死のスパイに生のスパイ。五種類のスパイ全部が使われるにしても、彼らの秘密のやり方はだれにも決してわからないだろう。それをわれわれは神聖な秘密と呼ぶ。それは主人たる者の、計り知れない価値のある所有物だ。主人たる者はスパイ活動を個人的に統制しなければならない。寝返ってきたスパイは敵に関する最善の知識をもたらす。故に彼らはとくに丁重に扱え。」
... 孫子「兵法論」
5. イデオロギー論争
本書のイデオロギーに関する記述は、共感できない点もあるが、なかなか興味深い。
「イデオロギーは、観念論的あるいはブルジョア的考え方で構成される場合は誤った信念であり、弁証法的唯物論とプロレタリアの考えを反映するとき正しい信念となる。二つの基準が正しい思考方法と誤りのそれを区別する。哲学的要素(唯物論と観念論との差異)と階級上の要素(すなわち階級の差異)である。その意味で、マルクス・レーニン主義は科学的イデオロギーと非科学的イデオロギーの間に一線を画すことによって、現実の経験を真実と虚偽とを区別する基準にしようとする機会をわれわれから一時的にせよ奪うのである。社会に関して政治的に中立である知識はすべて、現実を表面的にしか把握されないとされ、イデオロギー的に誤りとして排斥される。」
ところで、共産とは、共に生産すると書く。なんと響きのいいこと。ソ連が崩壊し、イデオロギーの時代は終わっただろうか。まさか!
資本主義は自由主義との両輪で機能してきた。ケインズ風に言えば、経済が恐慌のような危機的状態でない限り、市場への政府の介入を極力小さくするということ。自由主義陣営は、共産主義が存在するおかげで、自由の尊さを測ることができたとも言える。その有り難味が見えなくなると、国家資本主義へと暴走を始める。この潮流は大衆の愛国心によって支えられ、大衆を煽る諜報戦略もまたイデオロギーキャンペーンから愛国心キャンペーンへと移行していく。愛国心とは、人間の存在意識を基礎づける帰属意識の象徴のようなもので、こいつをちょいと擽れば、集団意識で縛ることができる。しかも、無意識で。この原理を達人レベルで操ったのが、ゲッペルス文学博士だ。人間社会には、神の恩恵と同時に若干の悪魔の同居が必要なようである。でなければ、神の存在の有難味も忘れてしまう...
「共存とは、基本的に競争とうい性格があるにもかかわらず、共産主義者たちがことのほか望む状態である。」
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