2019-10-06

"職業としての学問" Max Weber 著

「職業としての政治」(前記事)では、1919年、第一次大戦後の混迷したドイツを浮き彫りにし、学生諸君にカツを入れるかのように現実的な政治論を説いて魅せた。ヴェーバーは、敗北の現実を前にし、自虐的な夢想に耽る知識人たちの論調に我慢ならなかったと見える。
ここでは少し遡って、1917年、まだ敗戦が決定的になっていないにせよ、その気配を感じ取った青年たちが、厳しい現実から救ってくれる世界観を欲し、教師よりも指導者を求めた様子が伺える。学生諸君は、宗教倫理や経済精神を論じてきたヴェーバー先生が、世界の意味を語り、どこかへ導いてくれると期待して集まったのだった。
しかし、ヴェーバーは逆に、教師が指導者であってはならず、ましてや扇動者になるのはもってのほかと冷たくあしらい、あらゆる政治思想や価値観から距離を置く立場を表明する。そして、さっさと日々の仕事に帰れ!と叱咤するのだった。世界観なんてものは科学的に説明できるようなものではなく、人それぞれ、人の努力いかんにある... 学問する者の心得は、学問が何かを教えてくれると期待するのではなく、学問することによって自分で自分を導け!と。この講演は、聴衆に脅かすような印象を与えたという...
尚、尾高邦雄訳版(岩波文庫)を手に取る。

1. 専門の意義とは...
教壇に立つ者の使命には、二重性があるという。一つは学者としての資格、二つは教師としての資格。実際、研究の感覚に優れた人と、教える感覚に優れた人がいる。一概には言えないが、後世に名を残すタイプが前者で、現在に熱気を帯びるタイプが後者ということになろうか。
例えば、学者として優れていながら教師としてまったく駄目なタイプに、ヘルムホルツやランケを挙げている。双方に優れた人は稀だが、ヴェーバーがそういうタイプということになろうか。彼は、専門に専念せよ!隣接領域の縄張りを荒すな!と説く。専門に閉じこもることによってのみ、成し遂げられる仕事があると。実に、耳の痛いご指摘である。
しかし、だ。そういうヴェーバー先生が、社会学、政治学、経済学、神学、哲学など幅広く手を出してきたではないか。いや、彼の目には、これらの学問が一つの分野に見えるのかもしれない。学問の真意は、真理を求めること。そのために視野を狭めるのでは本末転倒。専門化の過程はこれからますます続き、熱中する心構えのない人は学問には向かないという。それも研究が進み、知識が深まれば、自然の流れ。一つの研究に没頭すれば、学問上の霊感が自然にわいてくるという。それは、芸術家でも、技術者でも同じこと。自分の仕事に仕える人のみが味わえる領域が、確かにある。ある種のオタク的な感覚だが、現代風に言えば、geek といったところか。
ここで、ちょいと「専門」という表現にこだわってみよう。この時代と現代感覚とでは、抽象レベルが大分違うようである。専門とは、個性から生じるもので、自分で見つけるものと捉えるならば、自分がやれることこそが専門ということになろう。つまり、やるべきことをやれ!やれることをしっかりやれ!と説いているようにも映る。もっと言えば、やれることに専念しながら、けして専門馬鹿にはなるな!とも。こう解すのは、ちと行き過ぎであろうか...
ちなみに、老ミル(ジョン・スチュアート・ミルの父ジェームズ・ミル)は、こう言ったとか。
「もし純粋な経験から出発するなら、人は多神教に到達するだろう。」
知識ってやつは、その人の拠り所とする立場いかんによっては、神の知識となりうることも、悪魔の知識となりうることもある。知識が豊富になればなるほど、調和させる能力が求められ、発散させては元も子もない。老ミルの言葉を持ち出しているのは、学際的な態度を表明している。学問に熱中すれば、多くの神を見るであろう、と...
「学問上の達成はつねに新しい問題提出を意味する。それは他の仕事によって打ち破られ、時代遅れとなることをみずから欲するのである。学問に生きるものはこのことに甘んじなければならない。」

2. 学問の意義とは...
人が学問を始めようとする時、知識を得ようとする時、それは何のためにやるのか?それが何の役に立つのか?と問う。その理由ときたら、高い地位に就きたいから、高い収入を得たいからなどと、たいてい脂ぎった欲望に支配される。最初から純粋に学問に励むことは難しい。ただ、学んでいくうちに、脂ぎった欲望も鎮まりを見せることがある。
確かに、科学は進歩してきた。それで、科学が正しい世界観を示してきただろうか。正しい価値観を教えてきただろうか。むしろ無意味さを教えているのではなかろうか。この無意味さが、脂ぎった欲望を鎮めてくれるというのか。
何をやるにしても、人間は意義を求めてやまない。何をもって意義ある学問とするか、何をもって意義ある知識とするか、それは学問に携わる人の心構えいかんにある。まさにここに、学問の意義があるのだろう。
ヴェーバーは、学問の意義を絶えまない進歩の過程そのものに求める。それは、人類が何千年にも渡って積み重ねてきた合理化の過程である。ソクラテスの時代から哲学者たちが試みてきた主知化によって、認識論一般に通用する手段を編み出そうと。
その手段とは概念である。概念によって抽象化の意義を自覚し、論理的思考を発展させてきた。弁証法もその過程の一部。自然科学は、主観的傾向の強い人間に、ちょいとばかり客観的な視点を与えてきた。人間の思考を魔法や呪術から解放してきた。そこには絶対的な方法論は見当たらない。だからこそ、学問する者には常に健全な懐疑心が要請される。
そして、最大の敵は自己欺瞞ということになろう。せっかく苦労して獲得した知識も、古みを帯びてくるは必定。これを喜びとするには修行がいる。学問上の幸せとは、自ら歳老いていくのを楽しむことができる、ってことだろうか。ガンジーの言葉に... 明日死ぬと思って生きよ。不老不死だと思って学べ... というのがあるが、まったくである。
「学問は自然の真相に到達するための道である。」

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