2019-12-08

"歴史叙述としての映画 - 描かれた奴隷たち" Natalie Zemon Davis 著

歴史家ナタリー・ゼーモン・デーヴィスは、贈与行為の心理学といった側面から人間社会の原理のようなものを語ってくれた(前記事)。アリストテレス風に... 人間は社会的動物... と表現するならば、そこにはなんらかの交換行為が育まれる。言葉の交換しかり、 財の交換しかり... 贈与とは実に古くからある慣習で、当たり前過ぎるほど集団社会に馴染んできた。しかし、これを新たな概念として掘り起こす彼女のセンスは、おいらに新たな視点を与えてくれる。贈与の経済学という視点を...
ここでは、五つの映画作品「スパルタカス」,「ケマダの戦い」,「天国の晩餐」,「アミスタッド」,「ビラヴド」を題材とし、歴史上言葉を発する機会を与えられなかった奴隷という身分に焦点を当てる。そして、こう問いかけるのである。
「過去を有意義かつ正確に描こうとするとき、映画にはどのような可能性があるだろうか...」
尚、中條献訳版(岩波書店)を手に取る。

世界を語る... という行為は数千年前から受け継がれ、さまざまな手段が編み出されてきた。詩、小説、新聞のコラム、ネット配信など。今や映画はその一手段として君臨しているが、その歴史はすこぶる浅い。デーヴィスは、これを感情的なジャンルとしてホメロスの時代から受け継がれる詩作と重ねて魅せる。
ヘロドトスやトゥキュディデスは叙述文体を詩文から散文へと移行させ、歴史をいかに厳密に記述するかを問うた。ホメロスのような偉大な詩人には、聞く者を喜ばせ引きつけるための誇張や創作が許されていたが、こうした風潮に警鐘を鳴らしたのである。
アリストテレスは、もう少し突っ込んで、詩文や散文といった形式の違いよりも叙述の内容と目的を重視した。そして、こんな言葉を残した...
「歴史家はすでに起こったことを語り、詩人は起こる可能性のあることを語る。... 詩作はむしろ普遍的なことを語り、歴史は個別的なことを語る。」

歴史学という学問は、その性格上客観性を重視する。否、あらゆる学問が主観性から距離を置き、あらゆる事象を遠くから眺める立場にある。
とはいえ、人間の思考の原動力は主観性の側にある。人間は感情の動物であり、この本質からは逃れられない。プレゼンテーションなどでは視聴覚的な演出がよく用いられるが、実は人間にとって、淡々と語るということほど難しい方法論はないのかもしれない。
さらに言うなら、客観性という用語の解釈もなかなか手強い。学問分野によってもレベルが違い、最も客観性を帯びた数学ですら、定理への道筋には感動的なドラマで満ち満ちている。ちなみに、客観的に語ると宣言された政治屋の演説で、そうだったためしがない。
デーヴィスは言う、「歴史映画は過去についての思考実験だ...」と。事実を語ることは難しい。こと歴史事象では、時間的な距離を置かないと見えてこない部分があまりに多い。当事者だって、それぞれの立場で言い分があろう。ましてや奴隷という身分となると、当事者たちの記録はほとんど皆無。これを、感動的に映像化してしまえば、ただちにイメージが固定化され、固定観念までも植え付けてしまう。まぁ、人間にとって思い込んでいる状態は、幸せな状態でもあるのだけど...
映画界においても、人物像を描くシナリオや手法が形式化や慣習化しているところがある。それでも近年、歴史の再解釈を試みる映画監督やプロデューサたちが、ちらほら現れてきたのは救いであろう。一方で、事実に基づく... と触れ込むだけで興行的に成功が見込めると考える映画監督もいるようだ。
デーヴィスは、もう少し突っ込んで、歴史的事実に対して、たとえ簡単であれ、どのように演出を施したかを観客に伝えるべきだと主張する。時代背景を映像の中に組み込めれば尚いい、と。
しかし、映画制作には商業的な性格があり、時間的にも制限される。上映時間については、黒澤明が ...どうしても切ると言うなら、フィルムを縦に切ってくれ!... と言い放った逸話が有名だ。似たような愚痴は、作家たちにも見かける。あとがきで、ページ数の制限や省略した項目などで出版社とひと悶着あったことを匂わせたり。分厚い本は売れないというわけだ。芸術家たちのこだわりは、しばしば商業的に反発する。それは、自由人の宿命であろう。
映画監督が本質を描こうとすればするほど、大衆に受け入れさせるのに苦難がつきまとう。なんといっても、映像と音楽がタッグを組めば、激的に感情移入を仕掛けることができるのだから、これほど手っ取り早い方法はあるまい。この時代になっても尚、映画作りにご執心な政治屋たちが暗躍するのもそのためだ。観客動員数なんてものを気にせず、才能ある方々には自由に創造力を解放していただきたい。凡人は、それを拾う機会を与えてくれるだけで幸せになれる...

ところで、映画というメディアに、どこまで歴史の重荷を背負わせるか、という問題がある。そもそも、歴史書の執筆と映画の制作とでは、性格があまりに違う。デーヴィス自身、映画「マルタン・ゲールの帰還」の制作顧問を担当し、この違う二つの分野のあり方について、改めて考えさせられるものがあったと見える。
近年、歴史文献では、歴史家の解釈の大勢が、これこれになっている... といった表現を見かけるようになった。歴史の解釈を、多数決に委ねるわけにもいくまい。科学においても、宇宙論などで、現時点ではこれこれが有力である... といった表現をよく見かける。真理の解釈を、多数決に委ねるわけにもいくまい。人類が学術面において少しばかり控え目になったのは良い傾向であろう。ヒルベルトの時代には、すべての問題は科学で解明できると、豪語されたものだが...
それはさておき、映画が完全に伝えようとしなくても、軽く匂わせるだけで、その情報の欠片から歴史事象に興味を持ち、小説や文献を手に取って理解を深めようとする観客も少なからずいる。その意味で、ディーヴィスは、映画監督、役者、観客は、過去についての思考実験の共同参加者と見ている。
やはり映画は娯楽だ。忠実すぎても肩がこる。いくら事実に忠実であろうとしても、やはり限界がある。解釈をめぐる限界が。ここでは、フランチェスコ・ロージ監督の言葉がなんとも印象的である...
「もし、実在した人物の物語を作るならば、... 私の考えでは、解釈することは許されても、創作は許されてはいけないと思う。二つのあいだには、大きな違いがある。観客の注目を集める容易な手段として、より壮大な映画に仕立てようという理由で、わざわざ何かを創り出す必要があるのだろうか。そのようなことはない。私にとっては、真実を解釈するために必要なだけの猶予が、作品の中で充分に与えられていることが肝心だ。なぜなら、その事実の解釈こそが、私にとって重要であるからだ...」

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