2019-12-01

"贈与の文化史 - 16世紀フランスにおける" Natalie Zemon Davis 著

アリストテレスは人間を定義した... ポリス的な動物である... と。ポリスとは共同体のこと。人間は一人では生きられない。人と関係を持ちながらでしか生きられない。いわば人間社会の掟である。それは、集団社会の奴隷という見方もできるわけで、生まれつき奴隷説もあながち否定はできまい。
贈与とは、まさに人と人の関係において成り立つ概念。いわば日常の行為である。贈る者とそれを受け取る者の関係は、美談として語られる。しかし、その動機となると、あまりに多種多様。贈与という行為は集団社会を活性化させるところがあり、感謝の念をこめた無償性こそが基本的な動機となろう。
しかし、人間は自己存在を無意味とすることを忌み嫌い、その先に、自分の行為が無駄であることを極端に嫌う性癖が見えてくる。いわば見返りの原理というやつだ。よく見かける行為に社交辞令ってやつがある。そこには慣習化された常識とやらに囚われ、脂ぎった思惑も見え隠れする。存在感を示すために、集団の一員であることを確認するために、虚栄心のために、あるいは、人間関係を清算するための贈り物、恩を売るのを嫌った返礼品、悪名高いものでは贈収賄の類い... 中には、純粋な感情から発する贈り物もある。その動機の歴史となると、キリスト教が成立するずっと前から...

それにしても、これほど古くから馴染んできた行為でありながら、新たな概念として掘り起こすナタリー・ゼーモン・デーヴィスという人は、文化史の考古学者とでも言おうか。経済学は、限界効用論やポートフォリオ理論などを持ち出すよりも、贈与の経済学を論じた方がまともに映る。現代社会では、市場経済と贈与行為とが根深く共存し、しかも相互作用を及ぼしている。こうした視点は、彼女にとっては自然な思考なのであろう。この方面の権威では、マルセル・モースという文化人類学者を紹介してくれる。彼の社会モデルは、「自発的 = 義務的な贈与と返礼」という形だとか。
しかし、だ。自発的と義務的とは少々対立するところがあって、返礼の型を規定できるはずもあるまい。現実に、ポジティブな互酬性とネガティブな互酬性とが共存する。親切ってやつは、言葉の響きがいいだけに、押し売りと化すと余計に厄介。そこで本書では、贈る者は見返りを求めず、受け取る者は御礼の心を忘れないという、バランスのとれた互酬性が問われる。とはいえ、モースの「贈与論」も、いずれ挑戦してみたい。
尚、宮下志朗訳版(みすず書房)を手に取る。
「贈与とは、理屈としては、自発的なものとはいえ、実際は、義務としておこなわれ、また返礼されるのであって、外見上は、自由で、感謝の念にみちていても、実は、強制的にして、利己的なふるまいにほかならない。どの贈与も、多くのことを同時に完了させる、一連のできごとの連鎖のなかで、返礼なるものを生み出すのである。明確な商業マーケットを有さない社会においては、財は交換され、再分配される。こうして平和が、ときには連帯感やら友情までもが維持されていく。そして社会的なステイタスが、北アメリカの北西海岸のインディアンのあいだのポトラッチのように、確認ないし獲得される。(略)はたしてだれがもっとも多くの財をふるまえるかを誇示しようとして、競ったのであった...」

1. 16世紀という時代
本書は、16世紀のフランスを題材にしているが、それはどんな時代だったのであろうか。キケロの「義務について」とセネカの「恩恵について」という古代ローマの偉大なガイドブックが刷られた時代。カトリックとカルヴァンとが、人間は神に何を与えることができるかを巡って激しく論争した時代。それは、濃密な感謝と義務の文化に由来する贈与システムに、重荷を背をわせた時代であったという。
大航海時代から植民地時代へと流れていく中、原住民の中に贈与の動機を探る。奴隷という言葉は悪いイメージを与えるが、悪い主人ばかりではあるまい。原住民が自発的に贈り物をするのも、けして珍しいことではなかったようである。
だが、文明レベルの違いが物品価値の格差を明るみにし、もらっても馬鹿にしたりする民族的な優越感が蔓延る。フランスでは、贈与品の価値をけなしたり、からかったりするのは、侮辱よりも酷い振る舞いとする伝統があったという。16世紀の贈与の特徴は、同じ身分の人々だけでなく、異なる身分の人々の間でも人間関係を和らげるのに寄与したようである。贈与行為が読み書き能力の垣根を取り払い、コミュニケーション回路を開く。これこそが互酬性というものであろうか。
しかしそれも、市場経済が勢いを増すとともに影をひそめていく。そうした時代の流れを敏感に感じたからこそ、モースは「贈与論」というものを書いたのかもしれない。そこには、こう書かれているそうな...
「われわれのモラルや生活のかなりの部分は、依然として、贈与と、義務と、自由とが混じり合った環境のなかに立ち止まっている。さいわいなことに、まだまだ、すべてが、売ったり買ったりといった言い方で整理・分類されてしまっているわけではない。モノには、いまだに、市場価値に加えて、感情的な価値が存在するのである。(中略)返礼なき贈与は、これを受け取った人間を、さらに低い存在とする。返礼する気持ちもなしに、そのモノが受けとられた時には、特にそうである。(中略)慈善は、これを受けた者にとっては、さらに感情を傷つけるものとなる...」

2. 贈与の信仰
贈与の動機は、ヨーロッパでは、キリスト教的な施しと結びついてきた歴史があり、倫理観や道徳観とも深く関わる。しかし、キリスト教が成立するずっと前から古代ギリシア風の動機がすでに発達していた。アリストテレスは、贈与の動機を互酬性と結びつけて説明したという。社会的市民には、お互い様という感覚が自然に働く。第一の動機として、神の恵みと結びつける信仰が未開人や部族にも見られる。ただ、強者への返礼よりも弱者への施しを重んじるという感覚は、キリスト教的であろうか。仲間内の儀礼はちっぽけな事で、より貧しい人を救おうと。人に対して非対称性でも、神との契約で対称性をなせば、チャラ!
しかしながら、個人に感謝しないで、神にのみ感謝するというのも利己的である。弱者にも格付がある。文句の言える弱者が救われ、文句を言う機会もなく、ただ沈黙するしかない弱者が救われないのであれば、十字磔刑の時代からあまり変わっていない。
しきたりと義務はすこぶる相性がいい。意味の分からないものを常識と定義づければ、何も考えずに済む。面倒くさがり屋には実に都合のいい思考アルゴリズムである。贈った者が、返礼がないから奴は無礼だとするなら、もはや贈った者が無礼極まりない。返礼する者が、悪口を言われたくないからというなら、もはや儀礼の奴隷。冠婚葬祭では、包む金額をいくらにするか駆け引きをやる有り様。協調性や絆までも強制される。
一方で、入院病棟でよく見かけるのが返礼品のお断りといった張り紙で、実に合理的である。気持ちだけで十分というは本音であろう。真に仕事をしている人たちは、形式的な儀礼に付き合っている暇もあるまい。
贈与という行為を、信仰との結びつきから論じるのもいいが、贈与行為そのものが信仰になっていることがある。人間の慣習や行動パターンなんてものは、どこか信仰的なところがある。信念めいたものがなければ学問もできない。宗教から遠ざかるには、合理性という信仰も必要だ。人間ってやつは、信仰なしに生きるのが難しい動物である。
但し、宗教に頼らなくても信仰は構築できる。実際、まったくのキリスト教徒でありながら、その伝統にこだわらず、独自の宇宙論的な信仰を構築している人たちがいる。キリスト教は秘密主義として育まれた経緯があり、おそらく点在したグループの多種多様な解釈の下で広まってきたのであろう。けして限られた数の聖書で規定できるような代物ではなさそうである。疑問を持ち、見直し、応用をともなってこその信仰とするなら、科学もなかなかの信仰である...

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