2019-12-15

"境界を生きた女たち" Natalie Zemon Davis 著

歴史学者ナタリー・ゼーモン・デーヴィスは、16 - 17世紀のフランスの宗教生活、民衆文化、ジェンダー研究が専門だそうな。おいらは、彼女にちょっぴり首っ丈...
まず、著作「贈与の文化史」では、贈与行為の心理学といった側面から人間社会の根本原理のようなものを語ってくれた(前々記事)。
次に、著作「歴史叙述としての映画」では、存在の記録すら残されない奴隷という身分を通して、それを描写する映画の可能性、いや、歴史における映画の役割というものを問い掛けた(前記事)。
贈与に限らず言葉や財の交換という手段をもって社会的な存在位置を確認しようという行為も、映画に限らず詩作や芸術活動という手段をもって感情的に印象づけようとする行為も、古代から集団社会に馴染んできた。こうした当たり前の行動パターンを新たな概念として掘り起こす彼女のセンスは、文化史の考古学者とでも言おうか。そして、こいつで三冊目...

原題 "Women on the Margins: Three Seventeenth-Century Lives."
ここでは、17世紀を生きた三人の女性が主役。その名は、ユダヤ商人グリックル、修道女受肉のマリ、博物画家メーリアン。記録によると、彼女らの関係にまったく接点はないらしい。共通点は生きた時代と、三人とも専門的な知識を有したこと、熟練した会計士でもあり財の行き来を念入りに記録したこと、難事を乗り切るために迅速に決断して持てる技能を遺憾なく発揮したこと、そして、自身の教訓を自伝に遺したことである。
男社会にあって男勝りの生き様、彼女らのジェンダーの域を超えた生涯はフェミニストなんて安っぽい表現では足りない。印象的なのは、三人がそれぞれにユダヤ教徒、カトリック教徒、プロテスタントだということである。ヨーロッパのキリスト教世界を生き抜いたユダヤ商人、アメリカンインディアンを改宗させるために苦悩した英雄的修道女、植物や昆虫と対話した風変わりな自然主義画家という構図は、ユダヤ教とキリスト教の対立に未開人を加え、異文化を受け止めるための途方もない寛容さといったものを突きつける。
そして物語は、接点がまったくないはずの三人が、それぞれに自分自身に思いをめぐらせながら会話する形で始まる。場所は、理想の地。時代は、1994年。登場人物は、六十過ぎの四人の女。四人目はデーヴィスそのひとである。似たような三人の人間像に対して第四の目を配置することで、純粋に宗教的立場の違いを観察できるという寸法よ。このような設定はプラトンの対話篇を観る思いである...
尚、長谷川まゆ帆 + 北原恵 + 坂本宏訳版(平凡社)を手に取る。

ところで、西欧の会計システムは宗教との結びつきが強い。それは、神への貸し借り報告書として。このような文化圏では、自分自身のバランスシートを書くことに、義務という意識が働くようである。無神論者を蔑視する伝統的な態度も、こうした意識との関係がありそうか。先進国と呼ばれる国々で、自分自身のバランスシートも書けないのは日本のサラリーマンぐらいなものであろうか。だから、消費税のような目先の税金に目くじらを立てることぐらいしか思いが寄らないのだろうか...
三人とも、道徳的な教訓を残そうと自伝の書き手になったことも、神への義務を果たそうとする意識からであろうか。
とはいえ、会計スキャンダルは西欧にも横行する。道徳をひたすら神の意志に委ねるのは危険であろう。そもそも、人間ごときに神の意志を解することができると考えることが、神を冒涜していることにならないのか。神との問答とは、自己との問答にほかならない。それ以上のことを人間に何ができよう。それでも、生身の人間に超自然的な自己を求め、成熟度を図ろうという変人ぶりにも共感できる。
そして、神から与えられた受肉は、宗派が違うというだけで骨肉の争いへ。神に看取られていると信じることができれば、人はなんでもやる。やはりパスカルが言ったように、人間とは狂うものらしい。彼はこうも言った... 人は良心によって悪をするときほど、十全にまた愉快にそれをすることはない... と。

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