2019-06-09

"中原中也詩集" 大岡昇平 編

ソクラテスの言葉に「良い本を読まない人は字が読めないに等しい。」というのがあるが、そんな心持ちにさせられる領域が確かにある。孔子の言葉に「三十而立、四十不惑、五十知命...」というのがあるが、半世紀も生きて、ようやくこのようなものが読めるようになろうとは...
この書に出会えたのは、音楽評論家吉田秀和氏が、音楽以外のものを... と書いた著作「ソロモンの歌」の中で見かけたおかげ。BGM のような書とでも言おうか、これは救われる。宇宙論では詠嘆調を奏で、堕落論では道化調を奏で、この臨終感ときたら、この黄昏感ときたら、この無力感ときたら... すべての表象をセピア色に変えちまう。人間はこの自然の中で生きている。いや、この自然の中でしか生きられない。そんな当たり前のことを、さりげなく啓示できる人がいる。この手の人種は、啓蒙家としての使命感のようなものに取り憑かれるのであろうか。いや、むしろ自然体だからこそ響くものがあるのだろう。ベートーヴェンをベトちゃんと親しみをもって呼ぶのは、詩人の盲目感を聴覚障害を患った音楽家の絶望感に重ねて見るからであろうか...
今宵は、キューバ葉巻を吹かし、照明を紅葉色に演出。BGM は「月光ソナタ」といこう。この演出にはグレンリベット18年がよくあう...

「もろもろの業(わざ)、太陽のもとにては蒼ざめたるかな。」... ソロモン

人生観や世界観を表現する手段として、詩を選ぶ人たちがいる。淋しさを知らねば、詩人にもなれまい。自己破滅型の人間でなければ、自己を創造することもできまい。彼らは、孤独愛好家という趣向(酒肴)をよく心得ているようだ。芸術家たちは自我との対立から偉大な創造物に辿り着き、真理の探求者たちは自問することによって学問の道を切り開く。
中原中也という人は、十七歳の頃から本格的な詩作活動を始めたそうな。死の前年に書いた「詩的履歴書」には、こう宣言されるという。
「人間が不幸になつたのは、最初の反省が不可なかつたのだ。その最初の反省が人間を政治的動物にした。(略) 私とは、つまり、そのなるにはなつちまつたことを、決して咎めはしない悲嘆者なんだ。」
この詩人は三十という若さで逝く。まさに三十而立か...

「盲目の秋...
 風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限の前に腕を振る。

 その間(かん)、小さな紅(くれなゐ)の花が見えはするが、
  それもやがては潰れてしまふ。

 風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまへに腕を振る。

 もう永遠に帰らないことを思つて
  酷白(こくはく)な嘆息するのも幾たびであらう...

 私の青春はもはや堅い血管となり、
  その中を曼珠沙華(ひがんばな)と夕陽とがゆきすぎる。

 それはしづかで、きらびやかで、なみなみと湛(たた)へ、
  去りゆく女が最後にくれる笑(ゑま)ひのやうに、

 厳かで、ゆたかで、それでゐて佗しく、
  異様で、温かで、きらめいて胸に残る...

    あゝ、胸に残る...

 風が立ち、浪が騒ぎ、
  無限のまへに腕を振る。

 これがどうならうと、あれがどうならうと、
 そんなことはどうでもいいのだ。

 これがどういふことであらうと、それがどういふことであらうと、
 そんなことはなほさらどうだつていいのだ。

 人には自恃があればよい!
 その余はすべてなるまゝだ...

 自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、
 ただそれだけが人の行ひを罪としない。...」

詩人とは、よほど辛い職業と見える。狂気しなければ到達しえない境地がある。彼らの生き様は滑稽ですらある。いや、あえて道化を演じているのか。活動の出発点は、自我を追い詰めることから始めるしかない。その挙げ句に、人生を自我に乗っ取られる。自己を救おうとすれば、逃避の道しか残されていないというのか。空想に縋るしかないというのか。それで、自ら人生を縮めていくのか...

「なんにも書かなかつたら
 みんな書いたことになった

 覚悟を定めてみれば、
 此の世は平明なものだった

 夕陽に向って、
 野原に立ってゐた。

 まぶしくなると、
 また歩み出した。

 何をくよくよ、
 川端やなぎ、だ...」

既成概念に反発する精神活動は、いつの時代にも見られるが、芸術家には欠かせない資質である。二十世紀初頭にも、ダダイズムという芸術活動が現れた。「ダダイストは永遠性を望むが故にダダ詩を書きはせぬ」という主張もあるが、中原中也もまたそんな一人であろうか。ダダ思想を謳歌し、自我を目覚めさせよ!と自ら鼓舞するかのように。この矛盾感がたまらん...

「南無 ダダ
 足駄なく、傘なく
  青春は、降り込められて、

 水溜り、泡(あぶく)は
  のがれ、のがれゆく。

 人よ、人生は、騒然たる沛雨(はいう)に似てゐる...」

「幾時代かがありまして
  茶色い戦争がありました

 幾時代かがありまして
  冬は疾風吹きました

 幾時代かがありまして
  今夜此処での一(ひ)と殷盛(さか)り
   今夜此処での一と殷盛り...」

「歴史に...
 明知が群集の時間の中に丁度よく浮かんで流れるのには
 二つの方法がある。
 一は大抵の奴が実施してゐるディレッタンティズム、
 一は良心が自ら煉獄を通過すること。

 なにものの前にも良心は抂(ま)げらるべきでない! 
 女・子供のだって、乞食のだって。

 歴史は時間を空間よりも少しづつ勝たせつゝある? 
 おゝ、念力よ!現れよ。」

気難しい作品に癒やされるようになったら、歳をとった証であろう。意識は、ちょいとばかりうつろなぐらいがいい。ちょいとばかり曖昧なぐらいいい。騒々しい社会に慣れちまったら、特にそうだ。具体的すぎる社会は疲れる。
突然、なにかに目覚める瞬間がある。今まで何とも思っていなかった事柄に感動すれば、目の前の幸せに気づいていなかったことを嘆かずにはいられない。この感覚、この喜びは、死ぬ瞬間まで忘れないでいたいものだが、そうもいくまい。そして、脂ぎった魂が救いを求めるとすれば、こういうものになろうか...

「汚れつちまつた悲しみに
 今日も小雪の降りかかる
 汚れつちまつた悲しみに
 今日も風さえ吹きすぎる

 汚れつちまつた悲しみは
 たとへば狐の革衣
 汚れつちまつた悲しみは
 小雪のかかつてちぢこまる

 汚れつちまつた悲しみは
 なにのぞむなくねがふなく
 汚れつちまつた悲しみは
 倦怠のうちに死を夢む

 汚れつちまつた悲しみに
 いたいたしくも怖気づき
 汚れつちまつた悲しみに
 なすところもなく日が暮れる...」

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