粋(いき)な言葉をかけられると、なんとなくニヤけたり、なんとなく癒やされたり、なんとなくやる気が出たりする。粋な計らい、粋なルックス、粋なしぐさ... こうしたものが人生にアクセントを与えてくれる。然らば、粋に生きたいものである。理性屋どもの憤慨とは真逆なちょいワル感を漂わせ...
ただ、ちょいワルといえば、ちと野暮ったい感がある。辞書を引けば、粋の対義語には、まさに野暮という語が当てられる。しかしながら、野暮もうまく振る舞えば、時には粋となる。然らば、粋も野暮も、その双方の極意を会得したいものである...
尚、本書には、いき(粋)を表題にした作品に加え、風流と情緒を表題にした「風流に関する一考察」と「情緒の系図」の二篇が併収される。
さて、「いき」、「風流」、「情緒」といった用語で表される美意識とは、日本民族固有のものであろうか。
例えば、「粋な」という語を機械翻訳にかけると、それらしい用語がフランス語に見つかる。"chic" ってやつが。この語は、英語でもドイツ語でもそのまま借用される。日本語でも「シックな」という表現をよく見かけ、辞書には... 粋な様、あかぬけた様子... とある。
元来、"chic" の語源には、二説あるそうな。
一説によると、"chicane" の略で裁判沙汰を縺れさせる「繊巧な詭計」の心得のような意味合いがあるとか。
他説によると、"schick" が原形となった「巧妙」という意味合いで、ドイツ語の "schucken" や "geschickt" がフランスに逆輸入され、次第に趣味についての "elegant" と似た意味合いに変化していったとか。
したがって、"chic" には「繊巧」や「卓越」といった意味合いがあり、対して、「いき」には、これに上品な美意識といった、やや限定された意味合いがあるらしい。"chic" の方が抽象度がやや高そうか。あるいは、「いき」は美意識にまで高めたということか...
西洋哲学には倫理用語に溢れ、その背景にキリスト教的教示を感じるが、九鬼哲学には、「いき」、「風流」、「情緒」の他にも「わび」や「さび」といったくすぐったい用語に溢れている。春風駘蕩たる趣を帯びた粋な哲学!とでもしておこうか...
とはいえ、言葉とは、気候や風土に強く影響されるもので、同じ社会の住人ですら個々で微妙なニュアンスの違いを見せるし、専門用語ですら専門家の間で用い方が微妙に違ったりする。言葉とは、精神投影の一手段であるからして、これを完全に一対一で翻訳するなんてほぼ不可能であろう。ましてや各国語間で...
したがって、翻訳語には経験と慣習が根付く。実際、西洋語を邦訳した用語には違和感あるものが溢れており、最初に翻訳語を提示した偉い学者の影響力も強い。言葉には解釈がつきもの。客観的な言葉は数学の記号にしか見当たらないし、数学にしても不完全性に見舞われている。言語という現象は、歴史を有する文化固有の自己開示にほかなるまい。
しかしながら、人間精神の根っこには存在問題がある。すべての意識は存在を意識することに始まり、この普遍性から枝分かれして存在意識に多様性をもたらす。単純な宇宙法則から、様々な形の天体や多様な星団のあり方が出現するように。この書には、言語における普遍性と多様性の共存という問題が暗示されているようにも映る。
それにしても、言葉遊びは楽しい。多様性に満ち満ち、実に愉快!精神描写の域(いき)では尚更。なによりも言葉の力を感じ、生きる活力を与えてくれる...
「生きた哲学とは、現実を理解し得るものでなければならぬ。現実をありのままに把握することで、会得するべき体験を論理的に言表することが、この書の追う課題である。」
1.「いき(粋)」について
「いき」とは、すなわち美意識である。この意識について、九鬼は三つの徴表を挙げている。
一つは、「媚態」。形容するなら、艶めかしさ、艶っぽさ、色気といった表現で、異性を意識した情念である。
二つは、「意気」すなわち「意気地」。形容するなら、生粋、伊達、気立て、侠骨といった表現で、自由な気骨が後ろ盾になった情念である。
三つは、「諦め」。形容するなら、開き直り、覚悟、やけっぱちといった表現で、運命論で後押しされた因果応報とも背中合わせな無関心の情念である。
これら三つの情念を自己消滅させるものに、空虚、倦怠、絶望、自己嫌悪といった情念を配置し、双方で綱引きを始める。無関心に美徳を求めながら、媚態を求め、しかも意気地な自由を生きる... この矛盾感ときたら。無関心な自律的遊戯とでも言おうか。積極性と消極性の狭間であえぐ控え目の美学とでも言おうか。派手なようで地味であり、粋でありながら野暮を演じきる。肯定も否定もせず、善と悪の双方と距離を置き、身勝手なようで優しさもちらつかす。媚態は、まさにチラリズムの象徴。上品と下品の微妙な関係を保ちつつも、品格や気質を備える。そしてついに、矛盾は調和へ昇華するというのか...
自己抑制、自己反発、そして自己否定... この生殺し感は、武士道の理想像にも通ずる。剣の達人が、抜かずの剣を会得するような。いや、抜かせない剣を会得するような。「いき(粋)」とは、中庸の哲学を体現することであったか...
2.「風流」について
風流とは、いかなる状態を言うのであろう。九鬼は、三つの要件を挙げている。
第一の要件は、離俗である。それは、社会的日常から離れ、世俗を断つこと。風流人になるには、心を正しくして俗を離れるべし!
この道は、世間から離脱するという消極性だけでは成立しない。個人の充実を求める積極性をともなって成立する。これが第二の要件である。
第三の要件は、自然回帰である。風流人とは、一方に自然美を、他方に人生美を纏っているものらしい。
そして、対極にある享楽をも飲み込む。芸術精神は、まさに享楽の一面。価値観の逆転や価値観の破壊は、自己破滅型の人間を要請するかのようでもある。風流人とは、自然的自在人のことを言うのであろう...
「風流とは自然美を基調とする耽美的体験を『風』と『流』の社会形態との関聯において積極的に生きる人間実存にほかならぬものであるが、そういういわば芸術面における積極性にはあらかじめ道徳面における消極的破壊性が不可欠条件として先行している。風流とはまず最初に離俗した自在人としての生活態度であって『風の流れ』の高邁不羈を性格としている。」
3.「情緒」について
本書は、主要な情緒に「驚、欲、恐、怒、恋、寂、嬉、悲、愛、憎」の十種を系図に描く。
その中で、第一に、生存や存在に関する「驚」と「欲」を配置している。第二に、自己保存に関する「恐」と「怒」を。第三に、種族保存に関する「恋」と、その裏面の「寂」を。第四に、充実不充実の指標としての主観的感情「嬉」と「悲」を、客観的感情の「愛」と「憎」を配置... といった具合。
そして、それぞれの情緒に「快」と「不快」の感情が絡めてカオス化する。
こうした図式化には西洋哲学の流れを感じるが、第一のものに「驚」としている点には議論の余地がありそうである。デカルト風に言えば、情緒の第一のものに「思惟」を配置することになろうか。思惟とは、認識である。アリストテレス風に言えば、知覚の第一に認識めいたもの、すなわち形相なるものを配置することになろうか。
人間は、なにか存在めいたものを認識することによって、なにかを感じ始め、情緒めいたものを彷彿させる。その意味では、「驚」は知覚の一種で、認識の第一歩とすることができよう。驚くといっても、なにも本当に驚くわけではない。あっ、なんかある... ぐらいのニュアンスでも...
一方、スピノザは「驚」を情緒として扱わなかったという。つまりは、情報の入力段階であって、認識に至っていないというのである。確かに、条件反射的に、無意識的に驚くことがある。情緒という現象は、無意識から呼び覚ますところもあり、「驚」の扱いも微妙か。
対して、「欲」には明らかに意識がありそうだ。いや、そうとも言えまい。無意識の領域は、本人の意識より遥かに広大無辺なのだ。自律神経ってやつは、意識の領域にあるのだろうか。すべての情緒が無意識の領域にもあるとすれば、やはり「驚」も情緒の一種ということになりそうである。
ん~... すべての情念は、「驚」を介して「欲」の派生型とすることもできそうな気もする。いずれにせよ、「愛」の情緒が幻想の領域にあることは断言できそうか...
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