ひと月ほど前、「ギーターンジャリ」(渡辺照宏訳版, 岩波文庫)には、見事にしてやられた。今宵、翻訳者を変えての挑戦に、これまたイチコロよ。
尚、内山眞理子訳版(未知谷)を手に取る。
恥ずかしながら、おいらが詩を読めるようになったのは、半世紀も生きてからのこと。詩ってやつは、理解するというより、感じるものなのだろう。何事も素直に感じとるには、子供心に看取られた純真さがいる。脂ぎった大人には酷だ。中原中也ではないが、まったく、汚れちまった悲しみに... といった心境である。
素直に味わうには、感覚を研ぎ澄まさなければ。感覚のままに受け取るには、感情を解き放たなければ。それは、受動的でありながら能動的という矛盾の覚醒か。自由精神とは、矛盾を謳歌することか。いや、M の覚醒よ...
詩を本当に味わいたければ原語で読むべし!とは、よく耳にする。しかし、タゴールをベンガル語で触れるのは、生涯叶わぬであろう。語学力の乏しい酔いどれごときには。
それにしても原文には、オーラのようなものが放たれているのだろうか。翻訳語にも乗り移る何かがありそうな。これが、普遍性というものか。詩にうんざり、愛にはもっとうんざり、そんな天の邪鬼な心をねじ伏せてきやがる。
原題 "Stray Birds"... ん~、迷える子羊より響きがいい...
まったく人間ってやつは、迷える存在でしかない。善を知るために、悪をも知らねばならぬとは。相対的な認識能力しか持ち合わせなければ、対極を知覚して中庸を模索するしかあるまい。生と死、永劫と刹那、光と闇、暁と黄昏、大いなる存在とちっぽけな存在... こうしたコントラストを甘美な調べに乗せて。言葉遊びの相対性理論とでも言おうか。
澄んだ目で見つめる森羅万象は、愛にも悲しみにも溢れ、あるときは、大自然の神秘な讃歌を奏で、またあるときは、宇宙と静かに会話し、またまたあるときは、人間社会を痛烈に皮肉って魅せる。ささやかな箴言の凝縮、自己表現を極限まで簡素化する芸。これが、詩というものか。迷える存在だからこそ、対称性に看取られた小宇宙に魅せられるのやもしれん...
「歌は無限を大空に感じとり、絵画は無限を大地に感じとり、詩は無限を大空と大地に感じとる。なぜなら詩の言葉は歩みゆく意味をもち、空翔る音楽をもつのだから...」
騒々しく活字が飛びかう昨今、沈黙の奏でる調べに癒やされようとは。そして、言葉拾いに翻弄される。脂ぎった魂はどうしても皮肉の利いた言葉を拾ってしまう。詩とは、読者の心を映し出すものなのか。
その日の気分によっても、拾えるものが違う。マールをやりながら読めば、心の中にわずかに残った粕を搾って、箴言らしきものが拾えるやもしれん...
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海よ、あなたの言葉はどのような言葉ですか... 永遠の問い、という言葉です
空よ、あなたの答えはどのような言葉ですか... 永遠の沈黙、という言葉です
水のなかの魚は沈黙し、地上の動物は騒がしい、空を飛ぶ鳥はうたっている、そして人間は、海の沈黙と、地上の騒がしさと、空の音楽をそのうちにもっている。
生はあたえられたものであるがゆえに、あたえることによって、それを得るにあたいする。
謙虚さにおいて偉大であるとき、偉大者にもっとも近づく。
完全者は、不完全者への愛のために、美でもって自身を装う。
悪は敗北する余裕をもつことができないが、正しきことはそれができる。
子どもは、どの子も、神はまだ人間に失望していないというメッセージをたずさえて生まれてくる。
草はその仲間を地中にさがしもとめる。木はその孤独を大空にさがしもとめる。
死において多は一になる。生において一は多になる。神が死ぬときに宗教は一つになるだろう。
芸術家は大自然の愛人である、それゆえにその奴隷であり、その主人である。
闇のなかで唯一者は一様にあらわれるが、光のなかでは多様にあらわれる。
花をつんでおこうと集めてまわらずに、ただ歩いてゆきなさい、そうすれば花は、行くさきざきで咲いていることでしょう。
真理はその装いのなかで、さまざまな事実をとても窮屈だと知る。いっぽう物語において、真理はゆったりとふるまう...
器のなかの水は光るが、海の水は暗い。ちいさな真理は明瞭な言葉をもつが、大いなる真理は大いなる沈黙をもつ。
ペット犬は、世界がまるごと、じぶんのその地位をねらう陰謀ではないかと疑っている。
賞賛はわたしを恥ずかしく思わせる、なぜならひそかにそれをほしがるわたしがいるから...
人びとは残酷だ。しかし、人は優しい。
真理の流れは幾多の誤謬の水路を通りぬけてすすむ。
人間は動物であるとき動物よりも悪い。
神は限りあるものに、人間は限りなきものに、愛の口づけをする。
神の沈黙は人間の想念を成熟させて言葉にみのらせる。
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