2020-11-29

"翻訳困りっ話" 柳瀬尚紀 著

小雨降りしきる中、虚ろな気分で古本屋を散歩していると、ちょいと気の利いた題目に出逢った。ん~... 翻訳家の方々には、いつもお世話になっております!

海外の小説や詩を味わおうとすれば、語学力の乏しいおいらには翻訳家の存在が欠かせない。期待するのは、語の翻訳もそうだけど、むしろ、文化の翻訳、心の翻訳である。芸術作品ともなると意訳はつきものだが、その案配が難しい。作者がさりげなく演出した行間までも読ませるように翻訳するのは至難の業。言葉で補足するのでは芸がない。原文から離れてダラダラ文章になるのでは、作品を壊してしまう。美しい文調に、語学的な説明は無用だ。
センスのいい翻訳家に出逢えるのは、読者のみならず、原作者にとっても幸せであろう。シェイクスピアの作品ともなると翻訳家が群がり、腕を競い合う。異なる翻訳家で味わうのも一献!原作者と翻訳家が同時代を生きていれば、うまい翻訳文を原本の改訂版に盛り込むといったケースもある。そうなると、共同制作者。原酒に酔い痴れれば、モルトもブレンデッドも自在に味わえるという寸法よ。
時には、日本語にない日本語を編み出し、日本語の在り方までも問い掛けてくる。翻訳語に酔い痴れれば、日本語が翻訳語に毒されていくは必定。おいらは、純粋な日本語なんぞ知らんよ。

やはり、言語は手ごわい。なにしろ精神の投影なのだから。言語システムを、方程式のように置き換えることは不可能。なにしろ精神ほど得体の知れない存在はないのだから。母国語ですら語彙の解釈を巡っては、人それぞれ。客観性を帯びた専門用語ですら、微妙にニュアンスが違ったり、時代とともに変化したりする。それで会話やコミュニケーションが成り立つのだから、人間社会は摩訶不思議。いや、成り立っていると信じ込んでいるだけのことかもしれん。翻訳家は、人間の多様性を相手取る厄介な仕事の一つ。文学というより、心理学や精神医学の領域に近い。まさに、困りっぱなし!の世界というわけか。
しかし、困ったものである。人の困っているのを見ると愉快になるのだから...

著者は「翻訳恥書きっ話」というタイトルも提案している。ん~... こいつも捨てがたい。
翻訳文は、厳しい評論や批判に晒される。それも当然だろう。下手な翻訳は作品を壊す。くだらん作品なら見捨てればいいが、名作を壊されてはかなわん。
翻訳家は、対象の外国語はもちろん、母国語のセンスが大いに問われる。言語システムを超越した普遍的な、メタ言語的な感覚も必要であろう。ゲーテやタゴールのような美しい旋律を奏でる文体には、翻訳語にも乗り移る何かかがあると見える。
ところで、言葉センスを曝け出して生きてゆく仕事とは、いかなるものであろう。口は災いの元というが、一旦言葉にすれば恥がつきまとう。太宰小説ではないが... 恥の多い生涯を送って来ました... となりそうな。まさに、恥かきっぱなし!の世界というわけか。よほどの言葉好きでもないと、やってられんだろう。実際、本書は言葉遊びのオンパレード。言葉遊びの基本は、語呂合わせであり、なんといっても駄洒落だ。笑いネタに困れば、駄洒落をかます。西洋語の語呂合わせを日本語に翻訳するとなると、よほどの駄洒落センスが問われる。アリス物語ともなると、語呂合わせも芸術の域!翻訳者の仕掛けに、おいらはイチコロよ...

おびただしい活字の氾濫する昨今、言葉との戯れ方にも凝ってみたい。こういう試みを「文字遊びの四重奏」というそうな。「も」じあそびに「じ」たばたと「あ」がいたり、「そ」そられたり、「び」っくりしたり...
しかし、だ。これが困りっぱなしの文章か!翻訳家が駄洒落にご執心とくれば、やはり困ったちゃん。読み物だから面白いけど、会話で使えばドン引き!トートロジックな駄洒落じゃ、言い訳もできん。
「正気の沙汰か」に「将棋の沙汰か」を当てれば、「啓蒙的な」に「軽妄的な」翻訳談義を当てつける。
「翻訳は駒落ちで指してもらわなければ歯が立たないような相手なら、対局を断るのが礼儀というものだ。大駒は近づけて受けよ、大作は近づいて受けよ、大作でないにしろ厄介な作品ならば、自分がその作品にどの程度近づくことができるかを見極めてから、注文を受けるべきだ。そうしないから、桂馬の高飛び歩のえじきというようなみじめなことになる。本人はいいつもりでも、作品がみじめだ。」

ドナルド・バーセルミの小説 "The Dead Father" に、「死父」という日本語にない用語を当てたことには自画自賛。翻訳とは、辞書では足りない言葉を探す仕事といわけか。暗示にかかりやすいおいらは、即、ToDo リストに追加しちまう。
「翻訳困立破無氏」の草稿もなかなか。
「翻訳」という性と、「困立破無(こまりっぱなし)」という名を持つ人物は、劇団「翻訳の世界」所属の道化厄者で、十二ヶ月で逝っちまったとさ...
「氏は生活がプロである人間を尊敬し、生活がプロであるべき人間がプロらしからなぬ仕業をすることに腹を立て、プロでない人間がプロであるがごとき顔をすることに唾さえひっかけなかった。」

猫とじゃれながら洒落た筆を走らせ、私生活までも見えてきそうな書きっぷり。困りっぱなしも、一皮むけると自己陶酔というわけか。しかし、読者の方は、自己に酔うだけでは足りない。君に酔ってんだよ、とピロートークでもかますか。そして、自己陶酔に浸る。
ん... 実にくだらん!でも、おもしろい!だから言葉遊びなのだ。くだらないことに目くじらを立てていては、遊びは成立しない。脇をくすぐる領域で、くだらん人生、くだらん笑いで、愉快にゆきたいもんだ...
ちなみに、あるバーテンダーが能書きを垂れていた... 「酒に落ちる」と書いて「お洒落」... と。棒が一本足らんよ。

「卒業証書は社会には保証の幻を、証書所有者には権利の幻を与えます。証書所有者は公式に知識があると見なされます。そして、いっときの、全く便宜にすぎない学識を証明するこの書類を一生大事に持ちつづけます。他方、法に基づいて卒業証書所有者なるこの人間は、世間は自分に負い目があると信じるようにしむけられます。例えば、原著者のものを読む代わりに、要約、便覧、奇妙奇天烈な学識の錠剤の使用、すっかり出来上がった問題と解答の集成、抜萃その他かずかずの嫌悪すべきものが持って来られるのが見られるようになったのは、卒業証書を考えればこそです。その結果、こういう贋造された教養に属するものは、もう一つも、発達してゆく精神の生命に援助を与えることも、適合することもできないのです。」
... ヴァレリー「知力の決算書」(寺田透訳)より

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