2020-11-08

"ガンディーとタゴール" 森本達雄 著

タゴールの詩集「ギーターンジャリ」に魅せられ、ガンディーの告白「獄中からの手紙」を突きつけれると、今度は、翻訳者の視点から描いたものに触れてみたい。この惚れっぽい衝動ときたら...

暗い受難の時代というのは、偉大な人物を輩出するものらしい。英国帝国主義の植民地支配に抵抗したセポイの反乱が鎮圧されてから、インドとパキスタンの分離独立に至る激動の時代に、二つの巨星が舞い降りた。片や仏陀の再来と言われ、片や古代サンスクリット語の大詩人カーリダーサに比肩するとされ、それぞれに国民大衆から「マハートマ(偉大な魂)」と敬われ、「グルデブ(尊師、先生)」と慕われた。
ただ、この二人の人物像は、国民的英雄といった印象とは大分違う。二つの卓越した人格が、肉体から離脱したような存在とでも言おうか。偉大なのは人物ではなく、人格と言うべきか。まさに人間離れした。普遍的な人間とは、こういう人物を言うのかもしれん...

しかしながら、どうしても腑に落ちないことがある。これほどの人格者が二人揃って、なにゆえ政治運動なんぞに執心したのか?彼らの使命感や義務感は、いったいどこからくるのか?時代がそうさせたといえば、そうだろうが、それだけだろうか。
同胞が過酷な迫害を受けた時代、二人は真理の探求に生きた。受難の時代に哲学をやると、政治へと向かわせるのか。思考は疑問を持つことに始まる。時代の在り方に疑問を持てば、社会の在り方を問い、政治の在り方を問うことに。プラトンは、哲学者による統治という国家の理想像を描いて魅せたが、これに通ずるものがある。
とはいえ、真理を探求する世界と政治の脂ぎった世界とでは、あまりにも真逆。政治は妥協の世界で、理想主義がしばしば混乱を招いてきた。真理ってやつは、よほど手ごわいと見える。俗世間から距離を置き、精神空間を遠近法で眺めないと、なかなか姿が見えてこない。はっきりと見えなければ、凡人は都合よく解釈するし、この凡人未満の天の邪鬼ときたら、そんなものが本当に存在するのかと疑いもする。
真理の探求者が、普遍原理に反する事に関わることは苦痛でしかあるまい。それでも、優れた才能の持ち主ゆえに、逃れられないことがある。両者とも、意に反してまで政治運動にかかわったようには見えないけど。有能な人材ほど苦難を背負うものなのかもしれん...

馬の耳に念仏というが、聞く耳を持たぬ者を説いても、人の心は動かない。それは、ガンディーも言っていること。考え方や生き方を強制することも暴力であると。良心に訴えるというが、個々は善人でも、集団化すると悪魔に変貌するのが人間社会。そんな性質とどう向き合うか。
残念ながら、ガンディーの唱える非暴力不服従運動は、凡人には高尚すぎる。現実的な解は、毒をもって毒を制すの原理に縋るしかなさそうだ。まともな政治哲学を持つには、人類はまだまだ若すぎると見える。なにも直接、国民大衆に接することはあるまい。諷刺の効いた芸術作品を通して、訴えるのも一つの手。多少なりと聞く耳を持つから作品を手に取るのだろうし、ましてや、まったく興味のないものに触れようとはしないだろう。
そこで、タゴールの方はまだ馴染める。やがて政治の世界から身を引き、文学の世界で生きるのだから。文学部門でアジア人初のノーベル賞に輝いたことも、国民に勇気と誇りを与えたことだろう。アインシュタインのような自然科学者とも親交を深め、まさに自然哲学に没頭したと見える。
生き方は違っていても、思想哲学ではガンディーとタゴールはよく似ている。タゴールが言葉の奏でる美を通して真理を探求した人なら、ガンディーは行動を通して真理を探求した人。ともに、狭い了見での国家主義に警鐘を鳴らし、帝国主義を批判した。
二人は親交もあり、「マハートマ」の称号を与えたのがタゴールだったとされる。自己を高めるライバル意識のようなものが、互いに引きつけ合ったのであろうか。ルネサンス時代に多くの万能者を輩出したように。類は友を呼ぶというが、天才が集まると偉大さを纏い、凡人が集まると魔性を帯びるのかは知らんが...

1. 行動の人... ガンディー
「あなたのメッセージは?」と報道陣に聞かれると、「マイ・ライフ、わたしの全生涯がメッセージです。」と答えたそうな。ガンディーにとって、行動そのものが言葉というわけか。彼が起こした非暴力不服従運動は、思想的には真新しいものではないが、集団行動となると、人類史上、未曾有の試みかもしれない。
ただ、尊敬はできても、生き方が合わないという人はいる。理想が高すぎて、受け入れる側の度量を超えると、抑圧的にも感じる。ガンディーには、そうしたところがあまりない。彼は、完全な菜食主義者だったというが、それを強要したりもしない。
「他人に魚を食うなと強要する人は、魚を食する者よりいっそう大きな暴力を犯しているのです。漁師も、魚の行商人も、それを買って食する者も、おそらく彼らの行為に含まれている暴力に気づいていないのです。たとえ気づいていても、彼らはそれを不可避とみなしているかもしれません。けれども、他を強要する者は、故意に暴力をふるうという罪を犯しているのです。強制こそ非人間的です。」
行動の人という意味では、まさに政治家らしい政治家。押し付けがましいところがないという意味では、実に政治家らしくない政治家。
しかし、だ。凡人が崇高な思想を慕って集団化すると、しばしば抑圧的な思想に変貌してしまう。一人の偉人の目よりも、集団の目の方がずっと力強い。ましてや寛容さには、凡人はその上にあぐらをかく。
したがって、こうした思想を慕う人には、自立が求められる。ガンディーも、必然的に自立を要請している。ガンディーが唱えた「サティヤーグラハ」という思想は、南アフリカ共和国で試験的に実践し、インド独立運動で展開された。だがそれは、単なる非暴力を要請しているわけではなく、自立が前提されている。
「スワデーシー」という国産品愛用の呼びかけも、民族の職業的自立を唱えてのこと。しかし、凡人がこれを実践すると、海外製品ボイコットという形でナショナリズムを煽ることに。敵愾心を持つのは、自立心のなさゆえか...
「無所有」という積極的な欲望の浄化を唱えているのも、自然との共存の中での自立を説いている。衣食住のすべては、なんらかの形で自然の恩恵を受けている。もし、必要以上の広大な土地を所有しているとしたら、住む家のない人の土地を奪っていることに。もし、必要以上のご馳走にありつき、食べ残して捨てているとしたら、飢えている人の食べ物を奪っていることに。そう考えると、必要以上の所有は悪となる。人の幸せは、何かの犠牲の上に成り立っていると考えれば、これ以上の幸せを求めなくなる。
しかし、必要以上とは、どの程度をいうのであろう。ここが凡人の解釈と違うところ。そして、自己満足に終わる。幸せすぎても、不幸すぎても、人間は残酷になるらしい。
ん~... やはり、ガンディーの生き方は高尚すぎる。少なくとも、21世紀の人類には...
だからといって、理想主義で片付ける気にはなれない。遠く紀元前五世紀にブッダガヤの菩提樹の下で大悟成道した行動も、二千年前にゴルゴダの丘で沈黙のままに十字架刑を受け入れた行動も、今尚、時空を超えて語りかけてくれるのだから...

2. 美を奏でた人... タゴール
ガンディーが政治家としての使命感に目覚めた人とするなら、タゴールは教育家としての使命感に目覚めた人と言えよう。国家教育から距離を置き、自ら学校を設立。後に、タゴール国際大学と呼ばれることに。ガンディーもアーシュラム(修道場)を建設し、出身階級のいかんを問わず、学問する人を広く受け入れた。二人とも不可触民制の排除を誓う。カーストのような過酷な階級制度の下では、まず学問の下での平等が唱えられる。
それは世界各地でも見られる光景で、自己啓発を促すことが主眼となっている。機会平等とはそういうことであろう。つまり、学問するということは、自立を要請しているわけである。
インドの場合、農村を疲弊させた要因に、東インド会社が導入した「ザミーンダーリー制度」という地租徴収制度が挙げられる。地主が徴税者となり、徴税権は富裕な商人の間で売買され、伝統的な農村の社会秩序が破壊された。地主の没落とともに、農民は小作人に。そこに高利貸しや悪徳商人たちが禿鷹のように群がる。農民はまったく労働意欲を失い、卑屈な自己蔑視を募らせる。
タゴールは、自立心を取り戻すために、文字の読めない農民にも口ずさむことのできる言葉を編み出した。彼の詩は、無名の時代から、政治集会や祭りで愛唱され、田畑を耕す仕事歌として歌われたという。無知では依存症を増殖させる。学問の道は、民族自立の道というわけか...
それにしても、詩集「ギーターンジャリ」には救われる。邦訳版に触れたけど、それでも救われる。詩は原語で味わうものと言われるけど、やはり救われる。原文が自然な美しさをまとうと、翻訳文にも乗り移るのだろうか。タゴール自身が、わざわざベンガル語の詩集を英語訳版で刊行したのも、西洋人にはタゴール・ソングが理解できないと見たのか。しかも、定形詩を散文詩に変えて。それで、ノーベル文学賞をとっちまうんだから。誰だかは知らんが、ある詩人はこんなことを言ったという...
「子供はみんな詩人になる素質をもっている。ただ、大人になってもそれを失わない人が詩人と呼ばれる。」
真の芸術家とは、子供心を失わないものらしい。大人になると、言葉の意味や理解が先行して、言葉の奏でる美しさ、言葉の抑揚や響きといったものを、耳を通して味わおうとしない。
おいらの場合、詩を読む機会がほとんどなかった。中原中也のような人を知ったのも、半世紀も生きてからのこと。この歳になって、ようやく耳から言葉の調べが聞こえるようになろうとは... まったく、汚れちまった悲しみ... といった心境である。
「言葉を教えることの主な目的は、意味を説明することではなく、心の扉をたたくことだ。そのように戸をたたく音で、心のなかに何が呼び覚まされたかを説明するよう求められても、子供はたぶん、なにかとてもばかげた返事をするだろう。なぜなら、心のなかで起こっていることは、言葉で表現できるものなどより、はるかに大きいからである...」

3. ともに見た死生観
俗世間では、手段が目的化することがよくある。苦行の世界にも苦行主義が蔓延り、苦行そのものが目的となって極端な難行へとエスカレートさせていく。こうなると、苦行も滑稽芸!精神を解放するための苦行が束縛へと向かえば、それは自立心の喪失にほかなるまい。
ガンディーとタゴールの哲学には、自立、自己啓発、自己省察といった言葉が目に留まる。その先に二人が見たものは、そこに共通の死生観が伺える。
インド伝統の哲学に、人間の魂にはアートマン、すなわち、宇宙的な真理であるブラフマン(梵)が宿るとする宇宙観がある。真理の下では、民族の肌色、言語、習慣の違いも単なる表現の違いに過ぎない、と考えるのも道理。
さらに、道理を求めれば、死を思わずにはいられない。宇宙論の下では、死は終焉ではなくなり、死すらも生の延長として受け入れられる。死が訪れなかったら、人生はいつまでたっても未完のまま...

「おお、死よ、わたしの死よ、生を最後に完成させるものよ、来ておくれ、わたしに囁きかけておくれ!
来る日も、来る日も、わたしは おまえを待ちうけてきた...
おまえのため 人生の喜びにも痛みにも わたしは じっと耐えてきた。
わたしの存在 所有 望み 愛... すべてが、秘かな深みで たえずおまえに向かって流れていた。
最後にひとたびおまえが目くばせすれば、わたしの生命は 永遠におまえのもになるだろう...」

... 「ギタンジャリ」より

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