霧立ち込める朝、ぼんやりと古本屋を散歩していると、ぼそぼそと問い掛けてくるヤツがいる。日常、当たり前のように使っている「言語」。こいつの役割とは、なんであろう... その意義とは、なんであろう... と。
情報伝達のための媒体、意思疎通のための道具、いや、そんな外的な役割より、内的な意義の方が大きいような気がする。思考するための素材としての。記憶を活性化させるための。少なくとも、論理的に、思弁的に、自問するためには不可欠。真理を探求すれば、言葉の壁にぶち当たる。真理を探求する学問が、個性あふれる難解な記述になるのも致し方あるまい。つまりは、人間の言語能力の限界をつきつけることになる。
尚、伊藤邦武訳版(勁草書房)を手にとる。
ユークリッド原論は、人間の証明能力の限界をつきつけた。これ以上証明のしようがない純粋な法則として五つの公準を提示したのである。五つ目だけは疑問の余地を残しながら...
カントは、人間の認識能力の限界をつきつけた。経験的なものがまったく入り込む余地のない、最も純粋な認識として「ア・プリオリ」という用語を編み出したのである。
新たな境地を記述するのに、辞書を頼るのでは心許ない。新たな定義が必要になり、新たな言葉が必要になる。哲学するのに、言語は絶対に欠かせない。それで、真理のテクニックが精神のクリニックになるかは知らんが。希望へ導くか、絶望を悟るかは知らんが...
ただ、言語は自己陶酔と、すこぶる相性がいい。そして、自分探しの旅は、言葉探しの旅となる。
本書は、言語に注視するという観点から、近世以降の西洋哲学史を外観する。登場する哲学者は、ホッブズ、ロック、バークリー、フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタイン、エイヤー、クワイン、チョムスキー、ファイヤーアーベント、ディヴィッドソンといった面々。
彼らを「観念の全盛期」、「意味の全盛期」、「文の全盛期」の三つに分類し、「意味の理論」に至る流れを物語ってくれる。観念の時代では、まだ言語は主題とはならず、その重要性も認識されず、ひたすら精神的言説に突っ走り、意味の時代になって、ようやく言語の意義が問われるようになり、文の時代になって、意味の理論が本格的に議論されるようになったとさ...
どんな学問にも反省の糧となる時代がある。近代哲学で自省の糧となったのは、デカルトやホッブズあたりであろうか。
それにしても、「観念」という言葉は手ごわい。その意味するものと言えば、ほとんど人の選り好みにも映る。それは、悟性の対象となるものすべて。思想や空想、感覚や知覚、心象や形相... なんでもあり。それでいて、哲学書の中に、この言葉についての定義は見当たらず、ただ「観念」の一言で片付けられる。この大層な用語は、まるで湯上がり気分の王子様気取り...
「言語」という知識が、先天的か、後天的かといえば、明らかに後者である。ただ、ア・プリオリな認識ではないにせよ、完全に経験的とも言えないような、どこか生得的で遺伝子に組み込まれていそうな。そう感じるのは、乳幼児期から幼児語を押し付けられ、物心つく前から言語に支配されてきたということであろう。人は言葉に癒やされ、言葉に励まされ、言葉に傷つき、言葉に怒る。言葉が猛威を振るうネット社会ともなると、誰もが言葉に振り回され、ますます政治屋たちは言語統制に躍起ときた。もはや、どちらが振り回されているのやら。人間の人間たる所以は、言語を編み出したことにあるのかもしれん。文明の文明たる所以も...
自分が口にする言葉は、誰もが自分自身で支配していると考えるだろうが、そうは問屋が卸さない。言語には常に解釈がつきまとい、解釈はしばしば誤謬へと導く。賢人の理性や判断力ですら、自らの言葉で混乱に陥れる。それで言語に支配される存在に成り下がるとすれば、結局は自己矛盾の呪縛からは逃れられない。
「言語帝国主義は、軍事的な帝国主義よりも巧妙に武装されている。」
「言語」という言葉の定義となると、なかなか厄介!
ましてや、自然言語や数学の方程式やプログラミング言語のような記号で記述できるものばかりではあるまい。印象に残った風景、感動した音色や味覚、和んだ香りや肌触りといった五感で得た情報、おまけに第六感までも絡み、脳に記憶される知識のすべてが言語的に感じられる。人間精神そのものが、言語的な存在と言ってもいい。
そして、しばしば疑問に思う。同じ用語でも、会話の相手と同じイメージを描きながら喋っているだろうか?と。客観性の強い専門用語ですら、専門家の間で微妙にニュアンスが違うと見える。所属するグループの間でも用語の使い方が違ったり、きわめて組織文化に影響されやすい。
仕事の場で、初対面の会議で用語の定義を確認しようと心掛ける人は、それだけで信頼に値する。そうかと思えば、用語の意味も知らんのか!そんなことは常識だ!などと相手を馬鹿にする人もいるけど...
そもそも、脳の構造からして無数の電子の集合体である。そんな物体同士が、完全な意思疎通など不可能に思えてならない。それでいて会話が成り立っているのだから、人間のコミュニケーション能力、恐るべし!いや、成り立っていると思い込んでいるだけのことかもしれん。主張するという行為も、自己満足に浸っているだけのことかもしれん...
尚、カントの友人で、後に批判者となったヨハン・ゲオルク・ハーマンは、カントの著作を論評して、こんなことを書いたという。
「言語こそが、理性の最初にして最後の道具であり、また基準であって、それは伝統と使用という信用意外のものを、何も持たないのである。」
2021-02-07
"言語はなぜ哲学の問題になるのか" Ian Hacking 著
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