2016-10-02

"蒼き狼" 井上靖 著

「東方見聞録」に触発されて「元朝秘史」を。その余韻に浸っていると、いつの間にか小説版を手に取っている。「東方見聞録」がモンゴル帝国の支配を贔屓目に伝えているのは、マルコ・ポーロがクビライ・カンに厚遇されたこともあろう。チンギス・カンの一代記として名高い「元朝秘史」もまた、英雄伝にありがちな正義の征服物語といった性格を覗かせる。双方とも主観の濃い歴史書という印象を拭えないが、そもそも歴史とは、解釈で成り立つもの。
だからといって、思いっきり主観の強い小説の領域に踏み入るとは、これいかに?他人の主観と主観を戦わせ、さらに深く自己の主観を彷徨い、主観をくたくたに疲れさせた挙句、その中から客観を見出そうとでもいうのか?もちろん鵜呑みにはできないし、だから小説なのだ。それでもなお、このくらい面白くないと、歴史の理解、いや誤解は深まらない。もはや酔いどれ天の邪鬼の衝動は、とどまるところを知らない...

本物語には、「元朝秘史」の冒頭を飾る発祥伝説が挿入される。
「上天より命(みこと)ありて生まれたる蒼き狼ありき。その妻なる惨白(なまじろ)き牝鹿ありき。大いなる湖を渡りて来ぬ。オノン河の源なるブルカン岳に営盤(いえい)して生まれたるバタチカンありき...」
ブルカンとは、仏陀のモンゴル語化した形で、仏や神を意味するそうな。初代バタチカンの後、狼と牝鹿の血は長い歳月をかけて受け継がれてきた。そして、十一代目ドブン・メルゲンと妻アラン・ゴアとの間に二人の男子を授かり、間もなく夫は死ぬ。その後も、アランは子を産み続けた。彼女が妊娠する時は、いつも天の一角から光が射し、白い肌に触れたという。そう、感光出生伝説だ。親はなくとも子は育つというが、夫はなくとも子はできるってか。蒙古高原の支配者は、蒼き狼の血筋で、しかも神から使命を授かった者でなければならないというわけである。
しかしながら、正統継承者の長子として生まれた鉄木真(テムジン) = 成吉思汗(チンギス・カン)には、消すことのできないコンプレックスを抱えていた。母ホエルンはメルキト部族に拉致され、男どもに犯された経緯があり、父親が誰かはっきりしなかったのである。出産の時、父エスガイはタタル部族との戦の最中、捕虜とした首領の一人の首を刎ねた。父が与えた「テムジン」の名は、その首領の名だ。チンギス・カンの飽くなき征服欲は、自分が正統継承者であることを証明するためのものであったのか?人間離れした大偉業がなされるところに、神がかった信念が宿り、信念が使命を駆り立て、宿命と化す。そして、息子ジュチの血統もまた...

ところで、分かりやすさという点では、歴史書よりも小説の方が断然優っている。だが、分かりやすさと理解は別の問題だ。例えば、軍制についてこんな記述がある。
「成吉思汗は二十万の金国攻略軍には、独特の編成を施していた。一番の末端は十人ずつを一組にして、それらを次々に集めて百人、千人、万人の部隊を作り、それぞれにそれらを統轄する長を置いた。一万人の指揮官には百戦錬磨の将軍が配せられ、成吉思汗の命令はいかなる時でも幕僚に依ってこれら将軍たちに伝えられ、将軍たちからまたたく間にそれぞれの集団の下部組織へと浸透して行った。」
千戸の制を語ったくだりで、確かに分かりやすい。だが、独特の編成を施していた... というわりには、チンギスの独創性がいまいち伝わらず、物足りなさを感じる。こうした点は、「元朝秘史」の方が優っているだろう。このあたりが小説の限界であろうか。まぁ、そう感じるのも、「元朝秘史」を読んだ後だからであって、本書を先に読めば何も感じないのかもしれない。いずれにせよ酔いどれ読者ごときに真相が分かるはずもない...

1. タイチュウトをやっつけろ!タタルをやっつけろ!
モンゴル族が、いつ頃からこの地に移り住んだかは不明だが、八世紀前後には他の聚落とともに突厥の勢力下に、八世紀中頃には回鶻(ウイグル)に隷属し、九世紀以降は韃靼(だったん)の支配下にあった。韃靼の衰退後、各聚落で家畜や婦女や牧草の奪い合いに明け暮れ、テムジンが生まれた十二世紀中頃には、モンゴル、キルギス、オイラト、メルキト、タタル、ケレイト、ナイマン、オングートなどの部族が住民となっていた。中でも、モンゴルとタタルのニ部族が、指導権を握ろうと絶えず小戦闘を繰り返す。
さらに、モンゴル部族の中でも、数々の氏族に分裂し、主導権争いが絶えない。アラン・ゴアの感光出生伝説から生まれたブク・カタギ、ブカト・サルジ、ボドンチャル・モンカクの三人の男子は、それぞれ、カタギン氏族、サルジカット氏族、ボルジギン氏族の祖先となる。中でもボルジギン氏族は、最も多くの汗(カン)を輩出した名門。ボドンチャルから八代目カブルは、分裂したモンゴル部族を曲りなりにも一つにまとめ、初代汗となった。そして、アムバカイが二代目汗となった時、タイチュウト氏族を名乗って独立する。
三代目は、またボルジギン氏族に戻ってエスガイの叔父クトラが汗となり、エスガイが四代目汗となる。テムジンが生まれた時、ボルジギン氏族とタイチュウト氏族は反目しあっていた。いわば、主家と分家の争いである。タイチュウトの奴をやっつけ、タタルをやっつけ... とは、父エスガイの口癖であったという。テムジンは父の遺志を継ぎ、蒙古高原からタタル族を葬り、続いてタイチュウト氏族を叩くことになる。

2. 嫁探しの旅と異母兄弟との確執
テムジン九歳の時、母ホエルンの希望で、父とともに母の郷里オルクヌウト部族の聚落へ、嫁探しの旅に出た。だが途中、オンギラト部族の首領デイ・セチェンと出会い、彼はテムジンを気に入って我が聚落へ来るよう勧める。ボルテという娘があると。富裕なオンギラト部族と婚姻関係を結ぶことは損な取引ではない。
また、長城に近い地域にあって金国とも交流があり、武器や武具に優れ、蒙古高原で最も高い文化水準を持つと聞く。将来敵となろう金国を知る上でも重要な部族というわけだ。テムジンは父の命で、この地に留まる。
テムジン十三歳の時、父エスガイが死ぬ。タタル族との戦いで勝利したものの、タタル族が催す酒宴で毒殺されたのだ。テムジンは帰郷する。テムジンには、母ホエルンが産んだ兄弟の他に、異腹の弟ベクテルとベルグタイの二人がいた。その二人は反抗的で、お前は母が拉致された時に孕んだ子ではないか、父エスガイの血筋ではない!と罵られると、ベクテルを殺してしまう。テムジンは兄弟を葬った罪を生涯背負うことになる。本当に同じ狼の血が流れているのかと...

3. テムジン一家襲撃事件と客人「ジュチ」誕生秘話
タイチュウト氏族に聚落を襲われ、テムジン捕らわる。この時、ソルカン・シラが逃亡を手助けする。テムジンの手枷を外したのは、彼の息子たち。彼の家はかつてエスガイの配下だった。
また、逃亡の途上で、敏捷な少年ボオルチュと出会い、家に匿われる。テムジンは、タイチュウト氏族の聚落で、ボルジギン氏族に心を寄せる人々が少なくないことを知る。
そして、拉致されて殺されたと思われた不死身な男の下でモンゴル部族が結束を始め、反目していた異母兄弟ベルグタイも従順する。テムジンは恩返しに、ボオルチュとソルカン・シラの二人の子、チンベとチラウンを帳幕に迎えた。ボオルチュとチラウンは、後に四俊馬に数えられる重臣となる。母ホエルンが、老人ジャルチウダイから預かり養育してきたジェルメも、立派に成人して加わる。この老人は、かつて父の帳幕にあった人物だったという。
この時期、蒙古高原の一番の実力者はケレイト部族のトオリル・カン。一時期、彼は父エスガイと親交があり、その誼で同盟する。そして今度は、メルキト部族に幕営を襲撃され、妻ボルテが略奪される。まだ弱小であったテムジンは、同盟者トオリルに応援を頼む。トオリルはジャダラン部族の長ジャムカに伝令し、三連合軍となる。ジャムカは、モンゴル族の最初の汗であったカブル汗の兄弟の後裔でボルジギン氏族に属すが、独立してジャダラン氏族を称していた。そして、三連合軍は勝利する。
ところが、ボルテは妊娠していた。はたして自分の子か?テムジンは混乱しながら、「ジュチ」の名を与える。それは「客人」という意味だ。かつて父エスガイが、自分の子か疑いを持ちつつ、敵の首領の名を与えたように。俺は狼になる!お前も狼になれ!との励ましの名か?それとも、テムジン自身を奮い立たせるための名か?ジュチもまた、蒼き狼の血筋であることを証明しなければならない宿命を負う。

4. 盟友ジャムカとの確執... 血を流さずして殺し!
テムジンとジャムカは盟友を交わす。しかし、ジャムカ陣営では、怠け者は得をし、優秀な若者は損をしていたために、テムジン陣営に鞍替えしたいという者が増えていったという。テムジン陣営は、次第に今までとは違う統制が求められ、帳幕の規模も父エスガイの時代よりも大規模となる。箭筒士と帯刀士を組織し、伝令を作り、軍馬の官、車輌の官、食糧の官、馬を飼育する官、羊を養牧する官などを任命。そして、自分に次ぐ帳幕の最上位にボオルチュとジェルメを就けた。
ジャムカは、自分の帳幕から離脱してテムジン陣営に走った者があることに恨みを持ち、突如、十三部族、三万の兵を率いて進軍を始める。テムジンの臨んだ初の大会戦は、不幸な結果に終わるが、不幸中の幸いと言うべきか、敗走しただけで被害は小さかったという。テムジンに敗戦の実感がなかったように、ジャムカにも勝利感があまりなかったようである。その後、三年間、互いに対峙するも、大きな戦闘には至っていない。
テムジンはトオリルと連合してタタル族を葬り、蒙古高原は、テムジン、トオリル、ジャムカの三つ巴。タイチュウト氏族はジャムカの傘下となった。
ジャムカがトオリルを攻めた時、テムジンは援軍を送り、仇敵タイチュウトを包囲する。この包囲戦で、テムジンは敵の毒矢に当たって負傷し、ジェルメが口で毒を吸い上げ、一命を取り留める。その翌日、包囲されたタイチュウトの聚落から二人の者がテムジン陣営に移ってきた。ソルカン・シラと矢を射た若者である。早く首を落とせ!と潔い若者をテムジンは気に入り、「ジェベ(矢)」の名を与えて臣下に迎えた。
ジャムカはテムジンとトオリルの連合軍に敗れて遠く北方に逃れていたが、再び軍勢を率いて現れ、トオリル陣営に身を投じる。すると今度は、テムジンとトオリルとの対立が表面化する。トオリルが敗れると、ジャムカはその傘下にあったナイマン族に身を寄せた。
ナイマンが劣勢になると、テムジンの本陣にジャムカが自身の五人の部下に縛られて連行されてきた。実に17年ぶりの対面。テムジンは、己の主君に手をかけた者を赦せず、ジャムカの前で五人の首を斬らせた。テムジンにジャムカを斬る気はなかったが、ジャムカは敗れた天運から逃れることを嫌い、血を流さずして殺せ!と告げる。「血を流さずして殺し...」とは、 古代モンゴルの信仰にしたがって、高貴な人には血を流さず死罪を行う慣習があったそうな。

5. チンギス・カン誕生とシャーマンの呪い
1206年、テムジンはナイマン攻略を終え、蒙古高原を平定し、盛大なる大君という意味の「成吉思汗(チンギス・カン)」の名を宣言する。
モンゴル帝国建国当初、一番やっかいな問題は、ムンリクと彼の七人の子供だったという。ムンリクは既に六十の老人で最高長老会議に出席できる地位にあり、子供たちも重要な地位に就いていた。チンギスが、彼らを重く用いる理由は、ムンリクの父チャラカへの恩義のためだけだという。三十数年前、父エスガイが死んだ直後、全ての部衆が離れていったが、一家が悲惨などん底にあった時、忠誠を尽くしたのがチャラカである。
ムンリクの方はというと、チンギスはこの男を信用していない。窮地にあるチンギス一家を棄てた一人であり、チンギスが成人すると、臆面もなく七人の子を連れて戻ってきたのだ。最も忍び難いことは、ムンリクが母ホエルンと通じていること。それゆえ、ムンリクは隠然たる勢力を張っていたという。おまけに、七人の子供たちも、父親の地位を笠に着て、目に余る行為。特に甚だしいのは長男で、シャーマン教の僧テップ・テングリだという。チンギス・カンという名を選んだのも、この卜者だ。父ムンリクの政治的立場と祭政を仕切る神託者という特権を利用し、人を人と思わぬ振る舞い。己が一族の勢力を張ることだけに腐心していたという。チンギスは、ムンリク同様、テップ・テングリも信用していないが、彼の予言は不思議と当たるので、無下に退けるわけにはいかない。
やがて、一つの事件が起こる。テップ・テングリは、弟カサルがチンギスに代って王位に就こうと図っていると、謀反を告げた。幼き時から苦難を共にしてきた片腕カサルが?真相を知りたければ、カサルの幕舎へ今行けば分かるというのである。そして、酒気を帯びたカサルが、テムジンの愛妃である忽蘭(クラン)を追いかけている光景を目にする。激怒したテムジンは、殺すべきか?追放すべきか?を決めかねていた。すると、老いた母ホエルンが説く、「お前は曾て弟ベクテルを殺した。そしていまカサルを殺そうとするのか...」と。カサルを罰しない限り、神託によって謀反者を断定したテップ・テングリを処刑しなければならない。かくして神の代弁者は葬られ、ムンリク一族の権勢は弱まり、横暴な行為は跡を絶ったとさ。

6. 母の死が意味するもの
母ホエルンは、突如、三日病んで他界する。チンギスにとって母の死は、己が出生の秘密を知るただ一人の人間が、この世を去ったという思い。真相を知る者がいないとなれば、チンギスは大きな自由を得る。チンギスは、蒼き狼と惨白き牝鹿の末裔の正統であることを信じてきたが、同時に疑いもあった。母ホエルンが、弟を殺したチンギスに激しく当たったことを思えば、正統な血筋ではないかもしれないと。同じ狼の血統を斬殺した自分にも、疑いを持っていた。母の死によって、初めて蒼き狼の正統であることを自由に夢みることができ、自覚にまで高めたとさ。

7. 西夏と金国へ遠征
「モンゴルの民の上天より降された使命は、宿敵金を撃つことである。われらの祖アムバカイ汗はタタルの手で捕えられ、金国へ送られ、木の驢馬に釘打ちにされた上、生きながらにして皮を剥がされた。カブル汗も、クトラ汗も、みな金の謀略に依って殪れている。モンゴルの歴史の上に血塗られた汚辱を、われわれは忘れてはならぬ。」
金国への怨恨は根深いが、父エスガイの代では報復を諦めるほど強大であった。おまけに、南には宋国が控えている。いよいよ狼の野望は、チンギスの代で現実味を帯びる。
まずは、金国へ進軍する途上にある西夏。西夏を避ければ、万里の長城と興安嶺の険峻にぶつかり、行軍が難しい。そして、西夏を平定し、西夏の南から大軍を東へ進める。ここに本格的な異民族との交戦が始まるが、モンゴル族の騎馬群団にかかれば、西夏の駱駝も馬も兵もひとたまりもない。一気に首都、中興府へ攻め上った。
そして、1210年という年を、金国遠征のための準備に費やす。軍事力や経済力がいかに大きいか見当がつかないため遠征時期を決めかねていると、金国の方から使節がやって来た。金国皇帝の章宗(しょうそう)が崩じ、允済(ユンジ)が即位したことを告げ、これを機に長く絶えていた来賓を促す。だがチンギスは、金国が恐れていることを知り、却って自信を深め、遠征を決するのだった。
しかし、野戦では得意の騎馬軍団で圧倒しても、城塞戦となると思うようにいかない。中都(北京)と叫んで進軍していたはずが、いつしか大同府と目的地が変わったり、指揮系統にも混乱をきたす。落としても落としても城塞が現れ、勝っているのやら、誘い込まれているのやら...
そして、新たな戦術が求められる。やがて二十万の金国兵を吸収していき、九十もの城邑を血で塗り、それぞれにボルジギン氏の旗を掲げた。1214年、ついに金国と講和を結ぶが、事実上の金国の降伏だったという。チンギスの中国各地で得た美麗な女は夥しい数に上り、公主の哈敦(カトン)を妃とする。
しかし、凱旋して間もなく、金国に和平の意志がないことを知る。金帝が、都を中都から汴京(べんけい) = 開封(かいふう)に移転したという知らせが入ったのだ。講和はわずか三ヶ月ほどで敗れ、1215年、中都陥落。その勢いで、大宋国も征服しようと目論む。
この戦で、チンギスは捕虜の中に「耶律楚材(やりつそざい)」という名を持つ契丹人を見出した。人間離れした大男で、天文、地理、歴史、術数、医学、卜占に通ずる。チンギスは彼の予言を喜び、家臣に迎えて「ウト・サカル(長き髭)」の名を与えた。彼の予言はこうだ...
「西南の方角に新しき軍鼓の響きがある。可汗の軍が再びアルタイを越え、カラ・キタイの国に進入する時は迫りつつある。いまより三年の後に、必ずやその時は来るであろう。」

8. カラ・キタイ遠征
かつての仇敵、ナイマン王グチルクが、カラ・キタイ(西遼)国の王位を簒奪して、六年が経っていた。1218年、耶律楚材の占いどおり、ジェベを二万の軍勢の将として侵攻させた。そして、直ちに宗教の自由を宣言し、グチルクに迫害されていた回教徒を解放すると、回教徒は各地で反乱を起こして味方した。ここに、高い文化の国と噂されるホラズムと国境を接する。
チンギスは未知の大国との貿易を企図し、450人からなる隊商を派遣する。だが、守将ガイル・カンに捕縛され、450人の隊商はモンゴルの間諜として処刑された。チンギスは回教国に激怒し、1219年、自ら二十万の軍勢を率いて出陣する。民族興亡を賭けた戦と位置づけ、降伏する者は生かし、反抗する者は徹底的に殺戮。城塞を攻略すれば、白昼、女という女の貞操は奪われ、市民の大部分が殺害された。1220年、サマルカンドへ到達し、ガイル・カンは処刑された。チンギスは、ジェベとスブタイに国王ムハメットの追跡を命じ、モンゴル勢はカスピ海沿岸にまで達する。ムハメットは、カスピ海の小孤島に逃れ、病死したとさ。

9. インドへの夢とジュチの死
ヒマラヤの向こうには、まだ未征服の大国があると聞く。暑熱の国、巨大な象の住む国、仏陀の国。だが、夢はいつかは覚める...
1224年、チンギスは全軍にインド侵攻を宣言。モンゴル軍は、行軍月余にして、越えなければならぬヒンドゥークシュ山脈の鋸の刃のような高峰を遠くに見る。山中に入ってわずかの間に、人馬の消耗が甚だしい。そこに愛妃、忽蘭の死の知らせが。もともと忽蘭の願いによって企画された侵攻であり、ついに意味を失ってしまう。ある夜、チンギスは角端という動物の夢を見る。その動物は、前脚を折って座ると、こう言ったという。
「卿ら一日も早く軍をまとめて、国に帰るべし!」
この言葉は天意か?チンギスはサマルカンドまで軍勢をひく。そして、西方へ遠征中のジェベとスブタイ、キプチャク草原にある皇子ジュチへ伝令を送る。即刻帰還せよ!と。1225年、スブタイと合流するが、そこにジェベの姿はない。ジェベは命を使い果たしていた。
さらに、ジュチの死の知らせが。三年来病床にあり、カスピ海北方の聚落にて薨ぜり、遺命により遺骨を奉じて帰還の途につく、と。チンギスは、今こそ知った。誰よりもジュチを愛していたことを。自分と同じく掠奪された母の胎内に生を受け、自分と同じくモンゴルの蒼き狼の裔たることを、身を以って証明しなければならなかった運命を持つ若者を。
チンギスの勇士たちは、みな年老い、いまや昔の武勇伝を懐かしむあまり。過去の栄光に縋る軍勢は、敗走する哀れな軍隊と化す。

10. 最後の遠征
1226年、西夏侵攻を決定したのには、三つの理由があるという。一つは、ホラズムに侵入せんとした時、西夏王が援軍を拒否し、これに対する罰則を与えるため。二つは、まだ完遂していない金国征討には、西夏の完全制圧が先決。三つは、ジュチの死を癒やすことができるのは、もはや大作戦を決行することだけ。そして、狼は死に場を求めるかのように、敵地をさまよう。
1227年、首都、寧夏(ねいか)を落とし、続いて、金国の南京の朝廷に使者を送り、臣属を要求。寧夏にある西夏王、李睍(リヒエン)は降伏。開城のための猶予を一ヶ月乞うたので、チンギスはそれを許した。
次は、金国征討の完遂であるが、冷血な狼は和平の申し出を拒否する。しかし、西夏王は約束を破って、期限がきても開城しない。怒ったチンギスは全軍をもって城を落とし、李睍を斬り、住民の大部分を殺戮した。その後、金国へ向かわず蒙古高原へ。陣中でチンギスが死んだのである。彼の死は少数の重臣しか知らされず、静かに帰途についたとさ... 享年六十五。

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