2022-10-16

"人生十二の智慧" 福原麟太郎 著

霧曇る秋雨前線を振り切って古本屋で宿っていると、智慧足らずを焚きつける奴に出会った。うん~... 天の邪鬼の眼には、「十二の智慧」というより、当時の社会風潮を皮肉った「十二の苦言」に映る。
その背景に、日露戦争から太平洋戦争までの暗黒の時代から、一変して高度経済成長に勢いづく時代へ... 戦争をやりたがっていた国民の意識が、一変して平和ボケへ... そんな変貌ぶりにギャップを感じつつ、「十二の自省」を重ねずにはいられない...

では、21世紀の現代を背景に眺めると、どうであろう。時代は、あまり変っていないようだ。どんなに技術が進歩しようとも、どんなにコミュニケーション手段を拡大させようとも、人間の根本までは変えられないということか。そればかりか、左右両極端の人間性を培養しているかに見える。古来、偉人たちが唱えてきた中庸の哲学が、未だ輝きを失わないのも道理というものか。そして、あらゆる進歩に精神がついて行けず、いつの日か、最後の一線を越えちまうのであろうか。人類の文明は、その輝かしい成功ゆえに滅びゆくのであろうか...

しかしながら、こんな観点から眺めるのでは、著者の意図から大きく逸脱するであろう。福原麟太郎は、十二もの題材を関連づけ、おおらかに語ってくれるが、おいらの色眼鏡のせいか、対立関係に見えちまう。本当のところは、人生の志に根ざした、もっと建設的な書であるに違いないのだけど...

「人が志を立てるというのは、何歳の時のことであろうか。五歳か、十五歳か、二十五歳か。そのいつでもありそうに思われる。三十五歳でも良さそうだ。事実、ぎりぎり切羽つまって来るのは、三十五歳であるかも知れない。あるいは、本当に志がきまってしまうのは、いつのまにか三十五歳に成った頃だといえば言えなくもない。」

尚、本書には、「志を立てること」「愛国心」「金銭について」「偽善と偽悪」「魅力ということ」「失敗について」「顔について」「旅について」「義理と人情」「タイミングについて」「徒党について」「交友について」の十二篇が収録される。

1. 志 vs. 愛国心
まず、人生における「志」というものを、孔子風に... 十五にして学び、三十にして立ち、四十にして惑わず、六十にしてようやく耳を得たり... といった感じで語り、次に「愛国心」を配置するところに、少々違和感を覚えたが、読み進めていくと、そうでもない。
愛国心とは、読んで字の如く国に根ざした感情で、本来は郷愁を覚えたりするものであろう。著者も、自然に根ざした感覚で、郷土愛の如く、素朴でセンチメンタルなものだと語ってくれる。
ところが、この言葉には、戦争と結びついてきた暗いイメージがつきまとう。国家主義や国粋主義と相まって。国家という概念はプラトンの時代からあるにせよ、十八世紀頃、近代国家の枠組みが成立して以来、大きく変貌したかに見える。愛国心という言葉のニュアンスも、この頃に変貌したのであろう。愛国主義者どもは、この戦争は平和のための戦争だ!戦争を殺すための戦争だ!などと叫び、必ず正義を掲げる。そして、市民は殺され、兵士は死んでいく。正義の殺戮なんてものが存在しうるのか。民族主義でも持ち出さない限り説明がつくまい。おまけに、戦争を非難しようものなら、裏切り者呼ばわれ。祖国に忠誠を誓うのと、権力に服従するのとでは、違うであろうに。
したがって、この言葉に警戒感を示す人が、科学者や文芸家の中に多く見られるのも道理である。失敗から学ぶことが多いことも確か。ならば、戦争からも学ぶことが多いはず。うん~... 人間社会という奇妙な世界では、すべての戦争は無意味とするぐらいの方が合理的なのかもしれんが、自衛権までも無意味とするわけにはいくまい...

2. 偽善 vs. 偽悪
偽善や偽悪には、異なるを欺く... といった感覚を覚える。善人なおもて往生を逐ぐ、いわんや悪人をや... という言葉も、なかなか手ごわい。悪人が善人の顔をすると最悪である。とはいえ、陳腐な偽善も装えないようでは、政治家は勤まるまい。
偽善家に対して、偽悪家というのもいる。人間には、本能的に悪に惹かれるところがある。ちょいワル親父を演じたり、昔はワルだったと武勇伝を自慢したり。芸術作品においても、神の崇高さをダイレクトに描くより、悪魔の神秘性をグロテスクに描く方が、高い芸術性を露わにする。

「偽善は罪悪が徳行にはらう敬意である。」... ラ・ロシュフコー

3. 成功 vs. 失敗
失敗のリスクを恐れるより、やらないリスクを恐れよ... 実践に価値を見い出せ... そんな助言は聞き飽きた。失敗を選択肢の一つとするには、勇気がいる。人間とは臆病なもので、できれば苦労は避けたい。そして、成功のためのハウツー本は、いつの時代も活況ときた。それは、成功のアウトソーシングか。
古くは、成功者と失敗者の区分けに階級意識というものがあり、現在では、勝ち組と負け組に色分けされる。高い階級を望むより勝ち組に属す方が、チャンスがある。
しかし、意識そのものは、大して変わらないようだ。面子がそうさせるのか。外ヅラがそうさせるのか。他人の目を意識しているとすれば、自立性に欠ける。人生は失敗であったかもしれん、と思うことはある。そして感傷に襲われる。おそらく人生とは、そうしたものなのだろう。なぁ~に、失敗者の僻みよ。

「運命を改ざんしようとするところに、ストイシズムの倫理が生れた。失敗するごとに立ち直って、理想とか希望とかいうものの方向に一生をもってゆこうとする努力が、先は、人間世界の花である。けれども、それには、この世の中にも、モラルというべきものがなければいけないようだ。成功というのは、図太く、無礼講、破廉恥を極めても、大金持や大臣になることを言う場合もあるが、失敗の方は、金をなくしたにしても試験に落第したにしても、立ち直るときは倫理的なストイシズムが要求される。失敗が教訓を齎すという所以である。」

4. 義理 vs. 人情
今のご時世、義理も、人情も、流行らない。どこか封建的で古臭い。義理は人との間に生じる。金を借りれば、返す義務が生じる。しかも暗黙に。踏み倒してもいいが、そこは義理。きわめて受動的で、後ろめたさのようなものを背負う。そして、義務へと昇華し、やがて強迫観念へと変貌する。
対して、人情は、人間の本能的な感情で、理論や形式を越え、自然に湧き出るもの。普遍的という形容もできようか。その意味で、能動的である。しかしながら、情けは人の為ならず... というように、結局は、見返りの原理に収まる。
人間社会とは、実に奇妙なもので、利己主義を激しく非難しながら、ほとんどの人が自分の利益のために行動している。無私の立場を称賛しながら、自己を捨てられないでいる。しかも、義理も、人情も、村八分社会と相性がいい...

5. 徒党 vs. 交友
徒党とは、嫌な感じの言葉。正しいものを曲げて、無理を通すために団結する... そんなイメージ。
対して、交友は、響きの良い言葉。とはいえ、真の友人を持っているか?と問えば、一人もいないような気がする。なんでも相談できる人はいない。親ですら当てにならんというのに。親友と呼べる奴もいない。ちょいと飲みに行くぐらいの連中ならいる。悪友と呼べる奴らならいる。そして、我らは徒党である...

「現代の人間は、組織の中の個人と、独立した個人とに分れる。これは、現代の避け難き運命であるようだ。何らかの意志を行おうとすると、独立した個人では駄目である。組織の中の器械的なデクの棒、組織的個人でなければならない。その組織的個人が器械的に組織に盲従していると、その組織は、容易に徒党化し、少数の人々の支配下に、正を曲げても恥とせず、私利をはかっても当然と考えるようになる。現代民主主義の危険は、そのようなところにあるのではないか。」

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