2022-10-09

"読書と或る人生" 福原麟太郎 著

本を読むことに愉悦を覚える人は、我流の読書論といったものが心の中に湧き上がるであろう。おいらが「本を読む」といえば、熟読を意味するが、そんな読み方はあまり合理的とは言えまい。人生は短いのだ!
ただ、貧乏性のせいか、買った本は隅々まで字を拾わないと気が済まない。そして、週に一、ニ冊のペースで読む。
本の虫!という形容もあるが、どのくらいの量を読めば、その称号に相応しいのであろう。或る大学の先生は、月に四、五十冊も読むと聞くが、よほどの奥義を会得していると見える。しかし、速読術は速愛術のようにはいかんよ...

読書に限ったことではないが、やはり習慣がモノを言うのでろう。一人の読書家を育てるにも、かなりの好奇心がいる。習慣さえ身につけば、最初の十ページでその本の読み方がだいたい掴めるようになるし、文章のリズムから斜め読みでも、読み飛ばしでも、要点を拾うことができるようになる。
それでも、おいらには速読は難しい。カントの批判書を速読できる才能は尊敬に値するが、羨ましいとは思わないし、プラトンの饗宴は速読できそうだが、そんなもったいないことを...

「よく、速読が良いか精読が良いかと訊ねられることがあるが、必要に応じて、どちらでもすぐやれなければ、どちらも役に立たない。... 精読も速読も、習慣の問題で、いずれも一種の才能である。精読しようにも、その習慣を持たない人は、読み方を知らないものである。」

読書には、まず、目的は何か?どの本を選ぶか?という問題がある。それは、百人百様。知識を得るため... 視野を拡げるため... 実利のため... 人生の糧として... など様々な動機があろう。丸谷才一は、こんな助言をしてくれた。「大事なのは本を読むことではなく、考えること。本は原則として忙しい時に読むべきもので、まとまった時間があったら考えよ。」と...
おいらの場合、なによりも好奇心の解放がある。そして、そこに本があるから... というのも付け加えておこう。要するに、目的なんてものは、あまり考えてないってことだ。娯楽を、そんな大層なものにしたくはないよ...
「明窓浄机」という言葉もあるが、あえて部屋を暗くし、LED ライトでページにスポットを浴びせ、さらに、BGM で気分を盛り上げ、酒で気分をほぐし、お香を炊いて心を癒す。こうした空間演出に自由ってやつを感じる。おいらにとっての読書のひとときは、五感を総動員する場であり、リラクゼーションの時間なのである。
それで、感動できる本に出会えれば、儲けもの。その一冊から引用や参考文献を辿れば、好奇心は指数関数的に増幅する。なので、おいらの ToDo リストの書籍欄は、いつも溢れてやがる。おかげで、退屈病を患うことはなさそうだ...

「無目的に読むなどいう言い方で読書家を定義づけるのは理屈である。本好きはそんなことを思ってはいない。銀行家でも看護婦さんでも誰でもいい。何も自分の職務上の参考にするというわけでなく、ただ、歴史の本だとか、小説だとか、詩集だとか、本を読むのが好きだから、あるいは、どんな本でも良い、本を読むのが、とにかく好きだからというので、かけ出しには及びもつかぬほど多量に本を読んでいられる、それが読書家といわれる人種なのだ。読書家は定義で始まるのではない。実践に始まる。」

本選びにも、流行を追うという本能めいた感覚がある。誰もが知っていることを知らないということは、不安に駆られるもの。情報の性質からして、誰もが知らないことを知っているということの方が希少価値が高いはずだけど。クチコミやオススメの類いが流布し、瞬時に拡散する時代に、こうしたものから目を閉じることは難しい。
情報の自由化は、偽情報の自由化でもある。必読書百選!といった類いの宣伝文句までも目につき、つい目移りしちまう。
そこで、古典という選択肢がある。時代の篩にかけられ、それでもなお輝きを失わないのが古典というもの。不思議の国のアリスだって、人生哲学を物語ってくれるし...
流行に惑わされず、自分の目で評価を見極められるようになるのも、やはり習慣ということになろうか。となると、「読書 = 習慣」という図式が出来上がる。「読書と或る人生」とは、或る習慣を身につける方法論を説いた書であったか...

「読書は満ちた人をつくる。」... フランシス・ベーコン

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