2022-10-02

"眩暈" Elias Canetti 著

原題 "Die Blendung..."
「眩暈」というより、「盲目」とする方がよさそうな...
とはいえ、細密な描写に執着する著述姿勢は、どこか異様で奇怪な人間模様を炙り出し、推理小説風の香気をも醸し出し、この常軌を逸した文面ときたら、めまいにも似た感動を禁じえない...

物語は、「世界なき頭脳」、「頭脳なき世界」、「頭脳の中の世界」の三部で構成される。タイトルも然ることながら、これほど中身と見出しの一致を試みながら読ませる書も珍しい。その珍味こそが推理小説風というわけだ。エリアス・カネッティという作家に、おいらはイチコロよ!
尚、池内紀訳版(法政大学出版局)を手に取る。

「世界は滅亡する!これが人間だ、悪党ばらが頭をもたげ、神様は眼をおつむりだ!」

主人公は、二万五千もの書巻を所蔵し、自前の図書室で研究することを生き甲斐とする孤高の学者。人間社会に息苦しさを感じ、書物の言葉を引く。孟子に、孔子に、ブッダに、プラトンに、アリストテレスに、カントに... 大人(たいじん)の風格と交わるうちに、小人(しょうじん)の知識欲が増していく。小人にだって自尊心ぐらいあるさ。
しかしながら、叡智は容赦しない。人間ってやつは、知らぬことはやらぬもの。それが盲目の原理であり、無知の原理。狂気した行動は漠然とし、矛盾ずくめ。それを語るに、同じ言葉を繰り返すことしか知らぬ。これを狂人というらしい。
ちなみに、正気とは、愚鈍の類いを言うらしい...

孟子曰く...
「かの者たちは行為しつつおのが行為の何たるかを知らぬ。習慣を続けながらその習慣を知らず、生涯、さまよいながらその道を知らぬ。しかるが故に群衆たるかれらは遂に群衆にとどまる。」

自らの狂気を認めるには、よほどの修行がいる。私が孤独だって?ならば、書物に囲まれた、この賑やかな空間はどうか?
そもそも、盲目に書物の意味はあるのか。いや、盲目だからこそ活字に飢える。高度な情報化社会では言葉が荒れ狂い、逆に言葉は貧素になる。皮肉なもんだ。貧素な言葉ばかりを目にすれば、心も貧素になる。皮肉なもんだ。これを盲人というらしい...

「盲目とは時間並びに空間に対する武器である... 宇宙の支配的な原則とは盲目にほかならない... 盲目があって初めて、もし互いに見交わすなら不可能なものが並び存在できる... 盲目を待ってようやく、元来なし得ないはずの時間切断の壮挙が可能になる... 自分は盲目を発明したわけではない。活用したまでだ。当然の権利だ。これにより見者(けんじゃ)は生きる...」

無言と沈黙は、まったくの別物。沈黙の意味を知るには、よほどの修行がいるらしい。因果応報の素朴な論理に立ち返るにも、よほどの修行がいるらしい。自己欺瞞を放棄するにも、よほどの修行がいるらしい。
孤独を生きる者にとって、人間関係ほど面倒なものはない。愛情と憎悪が、こんなにも近いものか。孤独への恐怖は、むしろ群衆の中にある。挙句、我が身を狂妄の焦土とする羽目に...

「気狂いとはおのれのことしか考えぬ者の謂である。して、狂気とは利己主義に下しおかれる刑罰だ。かくして精神病棟には国中の無頼の徒党が蝟集する。本来、これらを容れるに牢獄をもってすべきであるが、学問は研究素材として瘋癲院を必要とする。」

1. 世界なき頭脳
図書管理に雇った女性の丁重な書物の扱いぶりに惚れ、妻とするも、相続の権利を得るや、金の亡者に変貌する。蔵書は、総額でいくらになることやら。遺言書を書かされ、家からポイ!
蔵書をいくら溜め込んでも、知識をいくら溜め込んでも、活かされなければ宝の持ち腐れ。古本屋で売りさばく方が、よほど合理的であろう。下手に財産となるがために、乗っ取られようとは。図書室という聖域を侵され、生きる世界を失った孤高の学者の運命は...
「世界なき頭脳」というより「世界を失った頭脳」といったところか。いや、「世界を乗っ取られた頭脳」とでもしておこう...

2. 頭脳なき世界
家から追い出されると、今度は頭の中に図書室をこしらえ、理想郷を夢想する。せめて思い浮かべた蔵書一覧を満たすために書店を巡って買い漁ろうとすると、書籍商を名乗る人物に国営の質物取引所を紹介してもらう。しかも、その取引所は、「テレジアヌム」という奥ゆかしい名を掲げ、その名に惹かれて質入れされる書物を買い漁ることに生き甲斐を見い出す。すると、今度は偽客にカモられ、所持金を巻き上げられる始末。
ある日、書物を質入れに来た妻の姿を見つける。もみ合いになって守衛に引き立てられ、皮肉なことに、自宅?元自宅?の門番に引き取られようとは。頭脳までも失ってしまったか...

3. 頭脳の中の世界
門番に引き取られ、その住まいの覗き穴から人間観察という新たな生き甲斐を見い出す。そんな狂人ぶりを知った弟が、害となる兄の妻と門番を追い出し、かつての図書室を取り戻すも、今度は自ら聖域を焼き、蔵書もろとも燃え果てたとさ。
すべては頭の中で思い描いた世界、すべては妄想の世界、人生なんてものは、夢幻の如くなり...
「遂に炎が身体にとりついたとき、その生涯についぞなかったほどの大声で笑いころげた...」

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