2023-01-01

独り善がりな読書論... 速読術は速愛術のようにはいかんよ!

まずは、冒険家気取りで自問してみる。なぜ本を読むのか?そこに本があるから...

目的がないと生きてゆけないとすれば、人生はにがいものとなろう。読書を趣味にするとは、どういうことか。一旦、読書空間に入り込めば、自我から解放され、現実から解放され、まったくの別世界へ導かれる。不思議の国のアリスのように...
音楽を聴くのも、映画を観るのも、スポーツを観戦するのも、同じこと。そもそも趣味なんぞに、目的があるのか。そんな大層なことでは、趣味とは言えまい。趣味には、目的にも束縛されない自由が欲しい。これぞ、読書の目的だ!

「夏の夜の夢よ!私の歌は、空想のように目的がない。
 たしかに恋のように命のように、神と自然のように目的がない!
 わが愛する天馬(ペガサス)は、自由自在に地を走り天を飛び
 物語(ファーベル)の世界を駆けまわる。」
... ハインリヒ・ハイネ著「アッタ・トロル」より

読書スタイルは、十人十色。読書を論じれば、体験談のオンパレードとなり、独り善がりとなるは必定。本を読むことに愉悦を覚える人は、我流の読書論といったものが湧き上がるだろう。読書を論じるなんて、読書好きでもなければやるまい。
読書好きとは、じっくり読む人のことを言うと思いきや、そうでもないらしい。巷では、速読法なるものがもてはやされる。愛する人には、なるべく長く一緒にいたいと切望するのに、相手が本となると、なるべく早く通り過ぎたいとは、これいかに?
カントの三大批判書を速読できる才能は尊敬に値するが、羨ましいとは思わない。プラトンの「饗宴」なら速読できそうだが、そんなもったいないことを...

本の虫!という形容もあるが、どのくらいの量を読めば、その称号に相応しいのだろう。ある大学の先生は、月に四、五十冊も読むと聞く。確かに、だらだらと文字を追いかけるより、倍速で追いかける方が集中力も増す。
しかし、読書は一期一会!やはり多読より精読!いや、多愛も捨てがたい。いやいや、なんとしても多愛だ!とはいえ、速読術は速愛術のようにはいかんよ...

「よく、速読が良いか精読が良いかと訊ねられることがあるが、必要に応じて、どちらでもすぐやれなければ、どちらも役に立たない。... 精読も速読も、習慣の問題で、いずれも一種の才能である。精読しようにも、その習慣を持たない人は、読み方を知らないものである。」
... 福原麟太郎

読書好きと本好きとでは、微妙に違う。シリーズものではコレクションしておきたものがある。本棚の片隅で、読まれずに愚痴ってる奴らが。それで、もったいない病が疼けば、しゃあない!
読書には、読書体力もいる。読破した瞬間のクタクタ感がたまらん。M だし!
一冊を読めば、賢くなった気分にもなれる。昨日の自分より今日の自分の方が。すると、読書を重ねれば、どんどん賢くなっていきそうなものだが、ふと十年を振り返ると、あまり代わり映えのしない自分がいる。読書とは、なんと虚しい行為であろう。
難解な書に手を出せば、無力感に襲われるのは分かっている。それでも、ほんの一部分だけでも理解した気分になれれば、大きな達成感が得られ、その感情連鎖に癒やされる。まるで麻薬中毒!ソクラテスは無知を装って対話を仕掛け、読者に自省を促すが、おいらは苛つくばかり。おいらはベーコンの言葉が好きだが、いまだ懐疑的ときた...

「読書は満ちた人をつくる。」... フランシス・ベーコン

読書家とは、どういう人を言うのであろう。どこででも本が読めるというぐらいでないと、読書家とは言えまい。おいらは、電車の中でとか、休憩時間にとか、そういった読み方ができない。電車の中ではうとうとしたいし、休憩時間にはぼんやりしたい。
そして、読書の時間は、決まって書斎に籠もる。「明窓浄机」という言葉もあるが、あえて照明を落としてセピア色で彩り、ページには LED ライトでスポットを浴びせ、BGM で臨場感を高めながら、お香を炊いて気分をほぐし、ちびちびとヴィンテージ物で喉を潤す。読書空間とは、五感を総動員して愉悦する場!まったくの贅沢なひととき!やめられまへんなぁ...

読書なしの人生なんて想像だにできん。依存症だ!そう悟って衝動に身を委ねるものの、巷にはあまりに多くの本が溢れてやがる。読みたい本を片っ端から相手にすれば、それはそれで無駄な人生となろう。
しかし、無駄でない人生とは、どんな人生であろう。結局、自己満足に縋るほかはない。自己啓発によって自己陶酔に溺れ、自己実現によって自己泥酔のうちに死んでいく、それ以外にどんな道があるというのか...

書物は、それ自身の運命を持つという。名著ともなれば、著者の手を離れ、独り歩きを始める。読み手が本を選ぶなら、書き手だって読み手を選びたいであろうに。ここには暗黙の不平等契約が成立する。
いや、安直な読み手を追い払う手はある。しっかりとした文章で、しっかりとした構成で仕掛ければ、しっかりとした読み手が集まってくる。小説の文章が単純で分かりやすいのでは、味も素っ気もない。
読み手の本選びにも、流行を追うという本能めいた感覚がある。誰もが知っていることを知らないと、不安に駆られるものだ。情報の性質からして、誰もが知らないことを知っていることの方が希少価値が高いはずだけど...
クチコミやオススメの類いが流布し、それが瞬時に拡散する時代では、目を閉じることも難しい。情報の自由化は、偽情報の自由化でもある。
そこで、古典という選択肢がある。時代の篩にかけられ、それでもなお輝きを失わないのが古典である。
ただ、偉大な書き手たちが欠席裁判を強いられるのも気の毒ではある。本人が亡くなったから、批判しやすいというのもある。そりゃ、死んでも死にきれまい...

いずれにせよ、自分のモノの見方や考え方を把握しておかなければ、本を選ぶことも儘ならぬ。まずは、己を知ること。それは、何千年も前から唱えられてきたことだ。なんらかの興味があるから、その本を選ぶことができる。本選びとは、似た者同士の集いとも言えよう。
一方で、必読書百選!といった宣伝文句を見かける。なんとなく読まないと気まずいような。本選びのアウトソーシング!本を選ぶ労力を考えれば、実にありがたい!
しかし、だ。あえて逆を行くという手もある。いつの時代も、流行ってやつは、だいたい修正されていくもの。ならば、天邪鬼な人生も悪くない...

「大事なのは本を読むことではなく、考えること。まず考えれば、何を読めばいいかだってわかるんです。まとまった時間があったら本を読むなということです。本は原則として忙しいときに読むべきものです。まとまった時間があったらものを考えよう。」
... 丸谷才一

昨今、本は魔力を失ったと言われる。インターネットに圧倒され、SNS に圧倒され、知識を得るのに、本に頼るまでもない。ただ、たやすく手に入る知識は、たやすく人を流す。どこへ流すかは知らんが...
ちなみに、藁人形の赤い糸を解くと、地獄へ流してくれる... という呪術あがると聞く...
ある研究報告によると、スマホで読書すると読解力が落ちる!というのも見かける。視野が狭まって呼吸のリズムが狂うのか、あるいは、前頭前野が余計な活動を強いるのかは知らんが...
本を読むという行為は、1 ページずつ捲り、1 行ずつ活字を追うというだけに留まらない。行間を読むには修行がいる。分かりやすい文面ばかり追えば、言葉の深みは読めなくなるだろう。本には印刷の重みがあり、そこが電子メディアの弱点かもしれん...
分かりやすい文面では、却って本質がぼやける。なぁ~に、心配はいらない。本質とは、もともとぼやけたものだ。空気を読む前に、行間を読むことに集中するとしよう...

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