2025-11-23

"バナッハ - タルスキーのパラドックス" 砂田利一 著

こいつぁ、定理か?それとも逆説か?
バナッハ - タルスキーの定理には、二つのバージョンがあるという。拡大バージョンと複製バージョンとが...

「球体を適当に分割し、それらを適当な方法で寄せ集めると、大きさの違う球体を作ることができる。」
あるいは、
「球体を適当に有限個に分割して寄せ集めることにより、元の球体と同じ球体を二つ作ることができる。」

大きさの違う球体とは... 野球のボールのような小さな球体から、地球のような巨大な球体が作れるとでもいうのか。どうやらそうらしい。
同じ球体を二つとは... 同じ理屈でいくつでも球体を作ることができるというのか。どうやらそうらしい。
これは、存在の定義を問うているのか。実存からの解脱を意味しているのか。宗教家ともなると、言葉では語り得ぬ事柄については、逆説をもって語ってみせる...

「不合理なるが故に信ずる。」... 教父テルトゥリアヌス

数学史を紐解いてみると、それは矛盾との葛藤の歴史とも言えよう。ゼノンに始まるアキレスと亀の徒競走には、瞬間という微分的思考と積算という積分的思考が交錯し、無限の影をちらつかせる。瞬間という無限小の概念を通して眺めれば、飛んでいる矢だって止まっている状態を定義できる。時間の流れを瞬間の集まりと捉えるなら、ここに集合論が匂い立つ...

集合論では、二つの集合を比較する時、要素を一対一で対応させ、対応できない余った要素があれば、そちらの集合の方が大きいとする。実に当たり前な考え。
では、無限集合ではどうであろう。カントールは、無限集合を自身の真部分集合と一対一で対応できるものと見なした。対角線論法が、それだ。
しかも、無限集合の大きさに濃度、ℵ(アレフ)という概念を持ち込む。
例えば、自然数の集合と一対一で対応できる状況が作れれば、同等の無限集合ということに。そして、整数、奇数、偶数も可算集合として同じ濃度 ℵ0 ということに...
直観的に同じであるはずもないが、数学の証明においては、こういうことが起こる。同じ理屈で、二次元平面上に存在する有理数は一次元の直線上にマッピングできる。多次元でも同じこと。カントールは、無限を手懐けることで、うまいこと有理数に居場所を与えたものだ。
そして、無理数という不可算集合を考察すれば、実数は有理数よりも大きくなり、この手の集合を ℵ1 ということに。ある集合より大きな集合は、集合の集合の... 冪集合!さらに次元の高い無限集合!無限の無限!寿限無!寿限無!と呪文を唱える羽目に...

こうなると、無限なんてものが本当に実在するのかも疑わしい。それは数学でしか扱えない代物か。単なる証明技術に過ぎないのか。
仮に定義を単純化して、有限でなければ無限!とするなら、有限で不可能なことは無限ではすべて可能!と解することもできる。数学の本質がその自由さにあるとすれば、なんでもありか。宗教じみてもくる...

「無限には二種類ある。否定的無限と真無限である。否定的無限は果てしのない進行をいい、これは有限を越えて進むが、どこまで進んでも有限に止まる。これに対して、真無限とは他者のうちにおいて自己自身に止まるところの普遍者、有限なものを契機として止揚している精神・絶対者である。」
... ヘーゲル

似たような思考実験は、幾何学にも見られる。辺の長さや角度といった概念を取っ払えば、トポロジーの世界へ。バナッハ - タルスキーの定理は、この幾何学の領域にある。
鍵となるのは、「選択公理」というやつ。証明に至る計算は正しそうだ。論理的にも間違ってなさそうだ。
しかしながら、選択公理の適用においては狐につままれた気分。こいつぁ、数学の技術か。姿や形なんてものは、要素の選択の仕方でどうにでもなるというのか。まさに人生そのもの。人生もまた矛盾に満ち満ちてやがる...

「分割は存在するが、その構成法はない。」

矛盾に遭遇すれば憂鬱にもなるが、無批判に信じてきたものに疑念を抱かせ、反省を促すこともある。人類は、矛盾を手懐けるために、様々な思考技術を編み出してきた。
例えば、存在が証明できなければ、一旦存在を否定し、そこに矛盾を見い出して否定の否定を真とする。背理法がそれだ。
あるいは、系に内包される矛盾を論理的に乗り越え、自ら統一した見解を無理やり見い出そうとする。弁証法がそれだ。
こうした思考法が新たな境地を開いてきたのも事実だが、存在をめぐる論理は相も変わらず隙だらけ。自己の存在すら確かなものではないし、精神や魂の存在すら物理的に説明できずにいる。自己存在を確実に説明できなければ、自己言及によって矛盾に陥るは必定。人間の認識すべてが...
無限を相手取るには、存在の定義をたった一つで限定するより、多くの奇妙なことを容認しなければならないようだ。シュレーディンガーの猫のように...

「存在証明に適用される背理法は、具体的構成法には拘らない論理であるが、現代数学はさらに究極的とも言える論理上の約束事を使うことがある。それは『選択公理』という、集合論に現れる大前提である。...(略)... 選択公理は、選ぶという人間の行為を超越した、まさに『御神託』とも言える約束事なのである。」

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