人間の思考は、物事を象徴的に捉えるところがある。それは、どこに発するのであろう。最も顕著なものに、言語現象がある。それは音声に発し、記述の仕方を経て概念と化し、記号論や構文論に至る。言語は、人間が思考する上で極めて重要な役割を担う。それはコミュニケーション手段だけでなく、自己意識や存在認識などにも寄与し、おかげで、より多くの知識を得、学ぶ意欲を高める。その反面、欺瞞に惑わされ、感情が煽られることもしばしば...
こうした意識過程をより抽象的に捉えると、シンボルという概念が浮かび上がる。美術や音楽も、祭典や儀式も、人間は認識できるものすべてをシンボル的に捉えているところがある。
S. K. ランガー女史は、言語の論理的機能と感情的特性、聖礼や神話の発生源、音楽や芸術の意義といったものを、シンボル化という根源的な意識に照らしながら論じて魅せる。
尚、矢野万里、池上保太、貴志謙二、近藤洋逸訳版(岩波書店)を手に取る。
「哲学史上、どの時代にもそれ独特の先入見が存在する。各時代の問題は、政治的理由とか、社会的理由などの一目でわかる実践的な理由のためではなく、知性の発達に伴なういっそう深遠な理由のために、各時代に特有なものとなっている。」
人間は、認識できるものすべてに意味を与えようとする。まずは、一個人が生きる意味とは何であろうか... と。自己を象徴的な存在とすれば、自我を肥大化させるばかりか、無意味なものには拒絶反応を示す。精神そのものが非合理的な存在でありながら、認識をとりまく存在となると、そのすべてに合理性を求めてやまない。これぞ人間の性癖か...
確かに、言語では表記できない領域がある。しかも、それは思いのほか広大ときた。無意識の領域がそうであるように。そんな領域にまで意味を与えようとする意識が、シンボル化の原動力になっているのだろう。実践的なヴィジョンは行動のための指針を与えるが、これもまた心の中でシンボル化される。ある種の依存症か。となれば、人間にとって物資の欠乏よりも、シンボルの欠乏の方がより深刻なのやもしれん...
シンボル化という抽象的な意識が具体的な言語で記述され、芸術やら科学やらに投影されると、明確な定義を与える前に何らかの解釈を施さずにはいられない。やがて、解釈という行為は義務と化し、学術的な権威をまとうことに。仮説の有用性とは、そうしたものであろうか...
芸術や音楽は、居心地の良さを提供してくれるばかりか、自己の居場所を与えてくれる。人間は意味のある場所が与えられると、心が落ち着く。それが幻想であろうと、幻想だと知りつつも...
人間の有意義説に縋る性癖は、抑えられそうにない。人間は生涯を通して、意味と解釈の狭間で無意味の充満する世界を有意味で充填させようともがく。ただそれだけのことやもしれん...
「自由の本質は目的の実現可能性なのである。人類は、自己の主要な目的の挫折のために、種としての人類の定義そのものに属しているような目的さえも挫折したために苦悩してきたのである。シンボル的過程のどんな失敗も、われわれの人間的自由を廃棄させるものである。」

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