2017-04-16

"物象化論の構図" 廣松渉 著

「物象化論の構図」と題して、ここではマルクスの物象化論を主眼に置いている。というのも、「物象化」という用語が、マルクスの唱えた「疎外」に対置する形で現れたという経緯がある。プラトンやアリストテレスの時代から「形象」や「形相」という語が用いられてきた。精神という得体の知れないものを、どうやって具象化するか?どうやって具体的な主体として説明できるか?魂と物体の関係をめぐる論争は、幽体離脱か?はたまた、霊魂融合か?いまだ決着を見ない。精神ってやつは、自己の内で確実に認識できる。にもかかわらず、客観的に説明できない実体が存在すれば、真理を探求する自然哲学にとって由々しき問題だ。
プラトンは、観念を独立した実存と捉え、精神の完全な原型である「イデア」なるものを唱えた。だが、実体からの派生は、もはや原型の面影を微塵も残さず、不完全極まりない。
対して、アリストテレスは、観念を物質と分離不能なモナド的内在として「エイドス」なるものを唱えた。だが、脳や心臓の構造までは説明できても、魂の構造までは説明できず、不死を唱えて慰めるが精一杯。
プラトン対アリストテレスの論争は、後世、偉大な哲学者たちによって微妙に言葉を変えながら引き継がれてきた。いや、プラトンとアリストテレスもまた、ソクラテス以前の哲学者たちの代理戦争を繰り返していたのやもしれん。つまり、人類は未だ己の正体すら知らないってことだ。

目に見えて分かる実体は心を落ち着かせる性質がある。一方、最も身近に得体の知れないものがあると、大きな不安に襲われる。大概の人は、精神が投影する自我ってやつを、無駄な存在とは考えたくないだろう。何か意味あるものだと信じたい。抽象的な存在はすべて、肩書、権力、金銭といった確実に目に見える形で具象化し、神という存在ですら偶像崇拝に縋る。そして、自己存在に「価値」という概念が結びついてきた。それは、精神の持ち主の性癖であろうか...
「存在が意識を決定する。存在が無意識をすら決定する。」

さて、物の形として価値を評価する典型に、経済循環というシステムがある。本来、価値とは、如何に社会にとって役立つか、如何に個人にとって心の拠り所となるか... さらに人間そのものに迫って、如何によく生きるか... といった問いに発し、そこにはソクラテス哲学が組み込まれている。
しかしながら、商品価値という概念が生まれると、交換価値が優勢となり、モノより交換手段に目が奪われる。政策立案では、なんでもいいから貨幣を循環させさえすればいいという思惑に憑かれ、命の価値までも貨幣換算される。
マルクスの物象化が、当時の資本主義を基調とした生産社会への批判から生まれたのは確かであろう。労働価値説が、マルクス以外にも様々な形で現れた時代である。大量生産の合理的なシステムが自己疎外を招き、人間とは何か?といった根本的な問い掛けへと回帰させ、自己実現への道を開こうとする。人間本性の自由を担保できなければ、どんな制度を持ち込んだところで官僚腐敗化するは必定。
廣松渉は、マルクスは既に疎外論から脱皮して物象化論の段階にあったと解き、これを「疎外論の止揚」と表現している。止揚とは、「アウフヘーベン」。そう、ヘーゲル哲学の基本概念だ。おいらはヘーゲル弁証法を哲学論というより、慣習的方法論と捉えている。ソクラテスは矛盾を克服すべき障害と捉えたが、ヘーゲルは矛盾と向き合うことによってのみ真理に近づけると考えた。批判哲学の原理は自己の哲学をも批判する立場をとるのであって、酔いどれ天の邪鬼流に言えば、健全な懐疑心と啓発された利己心が自立や自律をもたらす、とでもしておこうか...

1. 資本論と唯物史観
廣松渉は、「唯物史観こそがマルクス哲学の基軸である。」と表明する。もちろん完成した体系ではない。ただ、しばしばマルクス主義者が主張する頑固なドグマの体系でもなければ、イデオロギーやユートピアを唱えたものでもないようである。硬直化した解釈の下では宗教と同じことで、ならばマルクス教と呼べばいい。マルクスはこう書いているという。
「哲学の実践はそれ自身理論的である。個々の実存をその本質において、あれこれの特殊な現実を理念において量ること、これが批判である。」
ところで、マルクスの大作に「資本論」ってやつがある。いつかは読破してみたいと考え、もう二十年が過ぎた。お茶を濁そうと、序文に位置づけられる「経済学批判」を手にとってみると、カントの批判哲学を継承したようなイデオロギー色を感じないものであった。それどころか、経済活動の同質化による精神的弊害を指摘し、より高尚な自由主義を唱えているように映り、「資本論」に少しばかり近づけそうな予感がした。次に、マルクスとエンゲルスの共著「共産党宣言」を手にとってみると、理想像を具現化した途端に幻滅し、再び「資本論」を遠ざけることに。「共産党宣言」が1848年、「資本論」が1867年から1894年と時間の隔たりも大きく、考えも変わったのやもしれん。人生において、思想に一貫性を保つことは不可能なほど難しい。
本書は、元来マルクス哲学は近代イデオロギーの地平を超克し、ロシア・マルクス主義流の科学主義的マルクス主義や、西欧マルクス主義流の人間主義的マルクス主義を批判する立場にあるとしている。しかも、第二インターナショナルのカウツキーあたりからマルクス主義の教義体系が持ち込まれたと。
「人々が、もし、理論体系、叙述された文章内容を自存化させ、それが自己完結的に、その内部で、いわゆる "革命の必然性の論証" をおこなうことができ、一定の当為を論理必然的に論証・導出できると考えるとすれば、それは『著述』というものに対する一種の『物神崇拝』フェティシズムに陥っていることの一表白であります。」

2. 疎外論から物象化論へ
自己疎外から解放させてくれる一つの方法に、社会との関わり方がある。実体として捉えようとするから無理があるのであって、関係として捉えてみてはどうであろう。相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体にとって、絶対的な実体を認識することなどできはしない。だから、自己を見つめるために、他の人との相対的な関係から見つめる... などと鑑みると、マルクスの物象化は、実体主義から関係主義への転換という解釈も成り立ちそうである。マルクスの唯物史観は、物質と人間の関係、人間と人間の関係、さらには歴史と人間の関係から生じたようである。それもプロレタリアート側の意識から。彼のイデオロギー的な物言いは、著作「ルイ・ボナパルトとブリュメール18日」にも垣間見ることができる。
一般的に、社会的価値が個人的価値よりも優先される。アリストテレスは、人間はポリス的動物だとした。マルクスとエンゲルスは、資本主義の生産関係に代わるべく社会編成を提示し、物象化された実現条件を示した。そう、共産主義ってやつだ。何か新しいものを提示しようとすれば、新しい語をもって説得力を与えるのが常套手段。案の定、マルクス主義はイデオロギー色に染まった政治団体によって利用されてきた。マルクス主義を貶めてきたのは、マルクス主義者たち自身かもしれない。
マルクス・レーニン主義とも称されるが、マルクスとレーニンは本当に同じものを目指していたのか?マルクスは、本当に資本主義を否定したのか?あるいは、資本主義の改善を求めたのか?はたまた、真の共産主義は未だ物象化に至っておらず、マルクスをもってしても、その物象化に失敗したのか?
そうなると、「物象化」という用語もなかなか手強い。本書では、具体化や具現化というより、普遍性に近い意味で使われている。少なくとも「資本論」は、イデオロギーや経済システムを超越した難解な哲学書として君臨している。本書のおかげで、再び「資本論」へ近づけそうな気がする。いや、気のせいか?酔いどれ天の邪鬼ごときに読解できるとは到底思えないが、この大作に一度手をつければ、一ヶ月は集中することになりそう。そんな余裕が、今のおいらにあるのか?仕事が忙しいとは、権威をまとった、実にうまい言い訳である...

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