著者ダニエル・タメット氏は、映画「レインマン」の主人公と同じサヴァン症候群であることを告白する。彼は、知的障害者の中でもごく稀な才能に恵まれ、数字を色相などに結びつける共感覚を持ち合わせる。そして、円周率22,000桁以上を暗唱しギネス記録を塗り替えた。彼には数字列が風景に見え、累積演算のような複雑な計算を瞬時に行うことができる。しかし、これまた知的障害者に見られるアスペルガー症候群でもあり、幼い頃から人とのコミュニケーションにハンディを持っていたという。天才と障害は紙一重なのかもしれない。普通の人とは違う障害が、超人的な方向へ向かうか、社会生活すら困難な方向へ向かうかは様々である。その境遇によっては、障害ととらえるか恩恵ととらえるかも見方が変わるであろう。
おいらは、この種の本を避けてきたところがある。第三者はこうした物語を、ドラマティックに仕立て上げ奇妙な感情移入を企てるが、落ち込むだけで感動などしないからである。著者もTV番組「ブレインマン」の製作で矛盾を感じると証言している。本書を手に取ってみる気になったのは、障害者本人が記したものだからである。驚くことは、とても本人が書いているとは思えないほど、第三者的な分析が綴られることである。数字に対するイメージの仕方や、人の気持ちが理解できず他人を怒らせてしまう様子などを、自らの脳構造を解明するかのように。孤独や将来への不安といった心境も語られるが、あまりに淡々としているために悲観的には映らず、友人や恋人ができる様子なども交えて、むしろ和める。それが逆に家族とともに苦悩してきたことが伝わるのであるが。著者は以下のように語っている。
「いまでも、積極的に自分をさらけだして人とつきあうのが難しいと感じるときがあるが、無理にでもそうすべきだという思いが強くある。以前もそういう思いはあったかもしれないが、それを理解するのに時間がかかった。」
こうした告白本は障害者を持った家族を励ますことであろう。著者の勇気には敬意を表したい。もう一つ驚くことは、文面が非常に読みやすいことである。これは翻訳の成果でもあろう。原文にはおそらく難しいニュアンスの表現が多いに違いない。それを翻訳の中で無理やり表現しては、逆に説得力を失う可能性がある。中途半端な印象を与えるぐらいなら、その感覚を読者に任せた方が良い。後書きからは翻訳者のそうした苦労もうかがえ、著者の純粋な心を伝えようとする努力が伝わる。本書の醸し出す情景には、なんとなく子供の頃の何か忘れてしまった懐かしいものを想起させるものがある。実は、おいらの弟は言葉の喋れない重度の知的障害者である。この本を記事にするのは少々悩んだが、ほんの少しだけ自らの精神を解放してみることにした。この記事を落ち込んでいる或る知人に捧げる。
社会には、ある低い確率において普通には生きられない人々がいる。ある確率で必ず障害を持った人間が生まれる。障害者は意外と周りに多い。同級生の家族に障害者がいると聞かされるのは、たいてい卒業後で、しかも第三者からだ。社会人になってからも、そうした境遇で生きている人は意外と周りに多い。彼らは仕事で時間的な制約を受ける場合もある。おいらはプロジェクトリーダをする機会が多いが、こうしたケース以外にも様々な境遇にある可能性を踏まえて、区別無く全員に仕事の時間を自由にさせることを優先する。たまに、自由を与えられるということは自己管理の厳しさを与えられるということに気づかない人もいるが。特殊な環境にある人の雰囲気はなぜかなんとなく掴める。彼らは自ら打ち明けないことも知っている。だから、先に告白するのだ。家族に障害者を持つ人は自ら悲観的に喋る人も多い。なぜ自分にだけ不幸が降りかかるのかを嘆くかのように。まるでお荷物とでも言っているかのように。それは、せっかく生を受けた人間に対して失礼である。たまに、宗教に駆け込むといった光景も目にするが、お布施をぼったくられて誰が不幸の根源なのかも分からない。遺伝子に恵まれた人間がいる一方で、恵まれない人間がいる。だからといって悲観することはない。単に、自然界は遺伝子コピーの不完全性を示しているに過ぎないのだ。親戚ですら遺伝子のせいにして勝手に「不幸な家族」のレッテルを貼る輩もいる。だが、遺産をめぐって骨肉の争いを繰り広げる方がよほど悍ましい。社会には環境に恵まれて成功する者もいれば失敗する者もいる。その要因は運や偶然性に微妙に左右される。幸運に出会うということは、一方で不運に見舞われる人がいるということだ。
ところで、障害者が生まれてくる可能性が無くなれば、人間社会に差別は無くなるだろうか?普通という言葉にどれだけの意味があるのか?本書はそうしたことに疑問を投げかけているように思える。
本書を読んでいると、障害者への接し方で反省させられるところが多い。できれば、もっと早く出会いたかった本である。著者の行動様式が、おいらの弟とかなり重なる。どんなに周りが気持ちを落ち着かせようとしても、人とは隔たりのある世界に居ることを、どこかで感じている。子供の頃は意地悪もされるだろう。そして、自閉症や鬱病などの複合的な症状も現れる。精神障害はもちろん肉体的な障害が現れるのも珍しくない。弟が何か行動を起こす時には、いつも決まったパターンがある。それは儀式でもあるかのように、首を振りながら決まった場所にしばらく立ちすくんで、心の中で呪文を唱えているかのように何かを数える。その途中で口を挟んだり、急がせたりすると、リセットされたかのように最初からやり直す。そのパターンへのこだわりには執念を感じる。著者も、数を数えると精神的に落ち着くという。しかも、服の枚数を数えてからでないと外出できないと語る。弟は行付けのスーパーへ連れて行くと落ち着く。幼少の頃から母親と行動を共にしているからだ。買う物も決まっていて、いつも同じお菓子を買う。食べることよりも買うことが重要なのだ。仕方なく一緒に食べる。そして、おいらの好きなお菓子に誘導しようとするとパニックを起す。数字には様々な執念を見せる。家計簿をチェックするのは日課である。また、時計とカレンダーが大好きだ。食事の時間はいつも決まっている。いつも時計ばかり気にしている。著者も、毎日同じ時間にお茶を飲まないと気がすまないと語っている。カレンダーは、毎日めくるタイプのものを置いている。それを毎朝一枚ずつ破るのが日課である。無理に優しくしたり、理解しようとしたり、世話をしようとすると、逆にパニックを起こす。弱者を見ると、つい助けたくなるのが人情というものだが、本人にとっては鬱陶しいようだ。適当に放っておくのが良い。その方がこちらも気が休まる。以前、ワンパターンの行動に我慢できず、矯正しようと努力した時期もあった。あまりにも型にはまり過ぎるのが良くないと思ったからだ。幼い頃は言うことをよく聞く時期もあったが、やがて反抗的になっていく。パニックを起こした時は手が付けられない。深夜に踊り出したりする。専門家からは、無理に矯正することは人格を否定することになると指摘されたことがある。大きな赤ん坊と考えていたが、歳とともに人格も認めてやらなければならない。昔から理解しているつもりだったが、全然理解していなかった。今でも理解できていないに違いない。知的障害者の接し方は様々である。弟の扱いに慣れていても、他の知的障害者に同じ接し方は通用しない。それは知的障害者が集う行事に参加してみると分かる。不思議なことに一人一人が微妙に違う症状を持っている。世話をする人達が、全てのパターンを把握した上で対処しているのには頭が下がる。親同士のネットワークによって親たちはお互いの子供の接し方にも慣れていく。こうした世界に接することは、人間模様を観察する上でも教えられることが多い。要するに、人間は何を拠り所にして生きていくか?という問題に帰着するような気がする。昔、どんなにやけになっても最後の一線で踏みとどまれたのは弟の存在が大きい。これはありがたいことである。
1. サヴァン症候群とアスペルガー症候群
サヴァン症候群は、知的障害者の中でも、特定分野で特別な能力を持った人である。サヴァンは、フランス語で「学がある」という意味があるらしい。アスペルガーは、「自閉症精神病質」の概念を提唱した小児科医アスペルガーの名からきている。アスペルガー症候群は、言語能力には問題なく普通の生活を営むことができる。平均以上のIQを持つ人が多く、論理的思考や視覚的思考を得意とする。また男性の割合が高く90%だという。こだわりがその決定的な特徴で、行動様式の中に法則性とパターンを見出そうとする強い欲求があるという。記憶力や数学的能力に秀でているのも一般的な特徴なのだそうだ。ただ、自閉症の子供は、言語の発達に障害があり2歳か3歳に見つかる可能性が高いが、アスペルガー症候群は、言語発達の遅れが見られないことから、幼少時に見逃されることも珍しくないという。人の気持ちがわからないので対人関係がうまくいかない。一つのことに強くこだわり、新しいことや環境の変化がなかなか受け入れられないといった点では自閉症とよく似ている。聴覚や触覚の刺激に非常に敏感だったり、かんしゃくやパニックを起こしやすいといった共通点もある。
2. 自閉症スペクトラム
本書は、「自閉症スペクトラム」という言葉がよく登場する。精神科医の山登敬之氏によると、障害であることに大して違いはなく、程度の差なのだから区別することもないだろうという意味で使われる言葉なのだそうだ。一つの言葉によって、多少オタックっぽい人から、アスペルガー症候群、高機能自閉症、知的障害をともなう重度の自閉症にいたるまで、境界線を無くす意識を強調する。こうした区別しない考えは、臨床的に有用であるばかりか、社会福祉的にも意味があるのだという。障害を抱える人の苦痛の一つに区別されることがあるからである。ちなみに、「自閉症スペクトラム障害」という言葉は、イギリスでは浸透しているが、日本では、「広汎性発達障害」と呼ぶのが一般的だという。
3. 癲癇
著者は幼少の頃に癲癇を患わしたと語る。癲癇は、脳の中で一瞬電気的な不具合を起こすために、痙攣発作に見舞われる病気である。癲癇にかかる確率は普通の人よりも自閉症スペクトラムの人の方が高いという。それは側頭葉に起因している。専門家によると、サヴァン症候群の能力は左脳が障害を受けて、右脳がその埋め合わせをしようとして高められると説明している。数字や計算能力などサヴァン症候群で一般的に見られる能力は、すべて右脳に関わっているからである。ただ、著者の場合、癲癇が左脳の損傷の直接の原因なのかは分からないらしい。祖父も癲癇だったというから、遺伝なのかもしれない。著者は、生まれた頃、大泣きする赤ん坊で、それも一年間続いたという。過剰な大泣きは将来行動上の問題を起こすサインかもしれないと指摘する専門家もいる。ちなみに、おいらはよく泣く赤ん坊だったという話だ。初対面の人はもちろん、久しぶりに親戚に会ったりすると大泣きして手がかかったらしい。逆に、弟はほとんど泣かず、ほとんど手がかからないので良い子とされた。振り返ってみると、おとなし過ぎるのが、既に障害を持っていたのかもしれない。
著者は、癲癇の発作が人格形成に大きな影響を与えたのではないかと自ら分析している。そして、癲癇を持っていたドストエフスキーの言葉を紹介している。
「ほんの一瞬のあいだ、普通の状態では決して味わえない幸福感に包まれる。自分にもこの世界にも完全に調和しているという感覚。それがあまりにも強烈で甘やかなので、その至福をほんの少し味わうためなら人生の十年間を、いやその一生を差し出しても構わないとさえ思うほどだ。」
「不思議の国のアリス」の著者ルイス・キャロルも側頭葉癲癇を患っていたと言われる。その作品に登場する表現にも発作の経験から生まれた節があるらしい。癲癇と創作活動には関連性があると考える研究者もいるようだ。画家のゴッホもかなり重度な発作を起こして鬱病となったが、多くの水彩画や油絵を生み出している。そういえば、シーザーも癲癇だったという話がある。映画でも痙攣するシーンがある。他の本でも、患者自身が完全に意識を失う分、苦しみよりも永遠に時間が止まるような崇高な気分が味わえるようなことが記される。患者は自ら発作を求めるかのようだと感想を述べる専門家もいる。癲癇は古来「聖なる病」と呼ばれてる一方で、悪魔の呪いと解釈する学者もいる。
4. 共感覚
数字を見ると、色や形や感情が浮かび上がるのが共感覚である。複数の感覚が連動する珍しい現象で、たいてい文字や数字に色が伴って見える。ところが、著者の場合は、もうちょっと複雑で、数字に形や色、質感、動きなどが伴っているという。
「1という数字は、明るく輝く白で、懐中電灯で目を照らされたような感じ。5は、雷鳴、あるいは岩に当たって砕ける波の音。37は、ポリッジのようなぼつぼつしているし、89は舞い落ちる雪に見える。」
自閉症で共感覚が持てる確率は極めて低く、一万人に一人だとか言われているらしい。著者は、9973までの素数は一つ残らず、浜辺の小石そっくりの滑らかで丸い形をしているので、すぐに分かると言っている。素数は美しく特別な形で浮かびあがるのだという。著者にとって数字は友達である。どこへ行こうと何をしようと頭から数字が離れることはない。著者は累乗計算が好きだという。特に二乗数はシンメトリーの形に見えて美しいというが、この感覚はコンピュータ設計などに携わる人間にはなんとなく分かるような気がする。累乗計算の答えは独特な形をしていて、答えの数が大きくなるにつれて、形と色も複雑になるという。掛け算をする時は二つの形から変化して第三の形が現れ、頭を使わずに計算している感じなのだそうだ。
「37の5乗は、小さな円がたくさん集まって大きな円になり、それが上から時計回りに落ちてくる感じだ。...ある数を別の数で割ると、回りながら次第に大きな輪になって落ちていく螺旋が見える。」
50桁の数字を3分間じっと見つめただけで完璧に記憶し、しかも何年経っても忘れることがないといった現象は、サヴァン症候群の人達にはよく見られるのだという。専門家によると、共感覚の神経基盤と、詩人や作家の言語創造にはつながりがあるという。ある統計情報では、創造活動に携わる人で共感覚を持つ人の割合は一般人の七倍もあるそうだ。シェークスピアは隠喩をよく使うが、その多くは共感覚によるものだという。
5. 円周率の暗唱
著者は、国立癲癇協会の寄付金集めのためのイベントで、円周率を暗唱しギネス記録を樹立した。そのインタビューでは円周率πが好きなことが語られるが、司会者が「私もパイ(おっぱい)は好きですよ」と言った台詞を紹介し、さらりとジョークを交えるあたりは和める。長い数字列を記憶する一般的な方法は、文章や詩をつくって語呂合わせすることであろう。例えば、単語の文字数に当てはめることが考えられるが、ゼロの存在が問題となる。著者は、数字の羅列をいくつかの塊にまとめ、それぞれの風景が流れるように見えるという。円周率の数字列には有名な「ファインマン・ポイント」がある。小数点以下762桁から767桁までの、...999999...である。同じような数字のつながりが、小数点以下19437桁から19453桁に現れるのだそうだ。4つの連続した9があり、しばらくすると、また5つの連続した9が現れ、またすぐに二つ連続する。17個の中で9が11個もある。著者はこれが22,500個の数字の中で一番気に入っていると語る。
6. キム・ピークに会う
レインマンのモデルとなったサヴァン症候群のキム・ピークに会う場面には感動する。キムの父は、医者から息子を施設に入れて息子のことは忘れなさいと言われたという。ロボトミーの手術を受ければ、施設に収容しやすくなると言った脳外科医さえいたという。ちなみに、軽い痴呆症の人間を老人施設に入れるために、注射で意識を朦朧とさせるような話を時々耳にするが。
肥大したキムの頭には水が溜まっていて左脳に障害を受けていた。後に調べたら、左脳と右脳をつなぐ部分である脳梁がないという。しかし、キムは1歳半で字が読めるようになり、14歳で高等学校のカリキュラムを修了した。本を開いて2ページを同時に読むことができ、片目で1ページずつほぼ完璧に記憶するという。これまで9千冊以上の本を読んできたが、そのすべてを記憶しているという。複雑なカレンダー計算もできる。著者は、同じサヴァン症候群の人と会って話しをするには初めてだったという。キムとダニエルが二人っきりで手をつないで図書館を歩き回る。歴史の話、電話帳には数字が多いからおもしろいなど、その光景には心が和む。そして、著者は同じ障害でありながら自立できている自分が幸せであると語る。
7. ブレインマン
ドキュメンタリー番組「ブレインマン」は、映画「レインマン」をもじって名付けられた。著者は人間の脳を解明するため、番組制作に意欲的に取り組む。ラスベガスでレインマンのようにカードゲームに勝つそっくりの場面を撮ろうとした時、こうした意図的な撮影に矛盾を感じると語る。
「ぼくがもっともしたくなかったのは、自分の能力を貶めて陳腐なものにしたり、自閉症の人々みながみなレインマンのようだという錯覚を広めたりすることだった。」
番組ではゼロから新しい言語を覚えていくという企画がある。その題材にアイスランド語が選ばれる。アイスランド語は世界中で最も難しく習得しにくい言語と言われているらしい。著者は10カ国語を操る天才で、言語も数字と同じく視覚化できるという。ただ、なかなか分析できない文章構造もある。例えば二重否定で結果的に肯定するような構造である。限られた教材の中で、CDを聴く場面では集中力が持続することが難しいという。それは、人間相手ならば緊張感を持続しないと会話が成り立たないが、CDが相手だと必死に努力する必要がないからだろうと分析している。そして、大量の文章を読んで、文法への直感的理解を深めていく。その成果を発表するために、生番組でアイスランド語でインタビューを受ける。なんと、アイスランド語をたった一週間で話した様子が語られる。著者は不思議に思っている。能力は変わっていないのに、子供の頃は疎まれ孤立していたが、大人になると、その能力のお陰で人とのつながりや、新しい友人ができたことを。
2009-03-08
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