2026-08-30

" 「シュレーディンガーの猫」のパラドックスが解けた!" 古澤明 著

これも、ブルーバックスの一冊。
前々記事「量子テレポーテーション」、前記事「量子もつれとは何か」、そして、本書の三部作で一つの物語を成す。それは、存在の本質をめぐる物語である...

「シュレーディンガーの猫」とは、波動方程式の解釈をめぐって提起されたパラドックス。
まず、密閉した箱の中に、一匹の猫と放射性元素を入れる。放射性元素は、崩壊すると放射線が放出されて有毒ガスの入った瓶がわれ、そのために猫が死ぬという仕掛け。崩壊しなければ、猫は生きている。その確率、50%!
おまけに、放射性元素がいつ崩壊するかは予測不能の上に、観測不可能ときた。

科学には観測の哲学がある。まずは観ること!この客観的な姿勢こそが科学に意義を与える。
しかしながら、量子力学には、観測哲学を覆す呪われた法則がある。不確定性原理は告げる。一つの量子の位置と運動量を同時に決定することは不可能である... と。量子の世界では、共役となる物理量を同時に正確に観測させてはくれないのである。
となれば、統計的に、確率的に捉えるしかないのか。そこで、重ね合わせという裏技である。

これがパラドックスとされる所以は、量子力学に支配される放射性元素の状態と、ニュートン力学で説明できる猫の状態を関連づけていることにある。量子力学では、量子の状態を重ね合わせで捉える。放射性元素を重ね合わせで捉えるならば、猫の生死も同じように重ね合わせで考えなければ...

|猫の状態⟩
= |放射性元素が崩壊しておらず猫が生きている⟩ + |放射性元素が崩壊し猫が死んでいる⟩
= |放射性元素が崩壊していない⟩|猫が生きている⟩ + |放射性元素が崩壊している⟩|猫が死んでいる⟩

また、量子には粒子と波動の二重性がある。粒子として捉えることができなければ、波動として捉える。ド・ブロイ波とも呼ばれる物質波を記述したのが、シュレーディンガー方程式である。
通常の波は重なり合うと位相で相殺され、例えば、sin 波と cos 波が重なると波は消滅する。
だが、量子の世界は違うらしい。それぞれの位相を保ちながら重なり合うというのだから。しかも、一つの量子で観測不可能であったものが、二つであれば、相対的にまたがった物理量とすることができるという。一つの量子についての位置と運動量が、二つの量子についての相対位置と運動量の和として。
そして、猫の生死は、プラス位相とマイナス位相の二つの状態と見ることができるってさ...

ここでは、量子の状態を電場のイメージで描写し、「スクイーズド状態」で物語ってくれる。「スクイーズ」とは、「絞った」といった意味で、相対的にペアとなる位相と変位の関係は、雑巾を絞ったような波形になるという。
量子力学では、位相のずれに関わるものとして、干渉の度合いを表す「コヒーレンス」という用語を見かけるが、位相が揃うと振幅は増幅され、位相のずれが大きいほど個々で位相を保ったまま共存できるというのか。猫の生死は、まさに正反対の状態で位相が 180 度ずれた状態というのか。
しかし、これは波動として見るからであって、粒子として見ればありえない。今、シュレーディンガーの猫が、アリス物語のチェシャ猫に見えてくる。いや、人間が認識できるすべての存在が、そうしたものやもしれん...

ところで、量子力学には、二つの大きな流れがある。波動力学と行列力学である。本書でも、シュレーディンガー描像とハイゼンベルク描像の違いに言及してくれる。シュレーディンガー描像は状態が主役で、ハイゼンベルク描像は物理量が主役である... と。
普通の波では「振幅の 2 乗 = エネルギー」となるが、波動関数では「波動関数の 2 乗 = 量子の存在確率」になるという。
とはいえ、確率分布にせよ、物理量にせよ、ばらつきがあることに変わりはない。量子の重ね合わせは、振幅のような物理量の重ね合わせや波の干渉とは本質的に違う。
結局、量子を集合体として捉え、平均値や期待値といった統計的な情報、あるいは確率論が頼りか。
かの物理学者は、神はサイコロを振らない!と言ったが、どうやら神はギャンブル好きらしい...

2026-08-23

"量子もつれとは何か" 古澤明 著

前記事「量子テレポーテーション」では、量子力学を理解するためのキーワードに「量子の重ね合わせ」,「波束の収縮」,「量子エンタングルメント(もつれ)」の三つを挙げてくれた。本書は、その補足版といった位置づけで、「量子もつれ」に絞って物語ってくれる。

量子の世界には、呪われた法則がある。不確定性原理ってヤツが...
一つの量子の位置と運動量を同時に決定することは不可能!つまり、共役となる物理量を同時に正確に測定することはできないというのである。物理学は、現象をモデル化し、理論式で記述し、それを実験で検証する学問。実験の場で正確に測定できないとすれば、もはやお手上げか...
いや、量子ってヤツは、一つを相手にすると厄介な存在だが、複数まとめて相手にすると、呪われた法則をかいくぐることができるらしい。「量子もつれ」という裏技で...

ヒントとなるのは、「EPR パラドックス」という思考実験。それは、アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンが、量子力学に突きつけた問題である。この思考実験には、二つの量子が登場する。二つの量子が絡むと、片方の量子の位置ともう片方の量子の運動量、もっと正確には、二つの量子の相対位置と運動量の和が決定できる場合があるというのだ。このような状態にある量子、あるいは量子系を「EPR ペア」と呼ぶそうな。

本書では、EPR ペアの生成実験が紹介され、光子が主役を演じる。量子力学の中で光を研究する立場に、量子光学という研究分野があり、量子の特性は粒子性と波動性を併せ持つとされる。ただ、電子や原子核といったものには質量があるが、光子には質量がない。実体がないのに、粒子性とはこれいかに!?
そこで助言をいただく。量子の世界で考察する時は波動性に着目し、粒子性はおまけ!ぐらいでいい... と。とはいえ、数式で表すと、粒子っぽい!だから、粒子ではなく、粒子性というわけだ。
ちなみに、二つの光ビーム(A, B)がエンタングルした状態の一例は、こんな感じ...

  1/(2√2) [(|0⟩A + |1⟩A)(|0⟩B + |1⟩B) 
   + (|0⟩A - |1⟩A)(|0⟩B - |1⟩B)]
   
波の現象は、振幅と周波数という二つの物理量で決定できる。そこで、AM 変調や FM 変調といった電気回路と対比させながら、光子のゆらきをイメージさせてくれる。違いは、電気回路で扱う周波数が百ギガヘルツ程度であるのに対し、光の周波数が数百テラヘルツと途轍もなく高いこと。これこそが大きな障壁なのだけど...

おまけに、光波は多くの光子が束になった状態で、個々の位相が特定できない。量子力学では、位相のずれに関わるものとして、干渉の度合いを表す「コヒーレンス」という用語を見かけるが、ここでは、位相をいかに揃えられるかという問題を突きつける。
ちなみに、位相が揃った状態を「位相整合」と呼ぶそうな。そして、干渉のしやすさから「スクイーズド光」というものを持ち出す。位相が揃うと振幅は増幅され、位相のずれが大きいほど個々で位相を保ったまま共存できるという特性があるらしい。通常の波は、位相がずれれば相殺されるが...
ちなみに、スクイーズドとは、ゆらぎを圧搾する、といった意味だとか。

また、ハーフビームスプリッターに光子を反射させる実験も、にわかに信じがたい!スプリッター面に対して、二つの光子をそれぞれ両面から同時に入射すると、それぞれの面で反射しそうなものだが、片側に両方の光子が出力され、もう片側には出力されないという。そればかりか、それぞれの面で生じる現象が重ね合わせの状態になるというのだ。二つの光子が互いに干渉しあって、片面に引き寄せられる現象は、波動性の特徴を表している。両面で生じる現象が重ね合わせの状態!?
これを受け入れられるなら、シュレーディンガーの猫が生と死で共存するようなことも、イメージできなくはない。いや、量子光学のトリックか...

「波束の収縮」という現象も気味が悪い!ばらばらに存在する重ね合わせの状態に、第三者が関与すると、ある状態に収縮しちまうというのだから...
しかも、遠隔操作のような作用も働くという。空間的に離れた二つの量子に対して、片方への観測の影響が、もう片方にも及ぶ、そのような量子ペアが存在するというのだ。かの物理学者が、不気味な遠隔作用とつぶやいたのも頷ける。

さらに、二つの量子エンタングルメントを拡張して、多量子間エンタングルメントや量子エラーコレクションにも言及される。
多量子間エンタングルメントでは、与えられた量子系の数が決められ、その構成図はそのまま量子コンピュータの実装イメージを与えてくれる。これにエラーコレクションが加われば、雑音源を加味したシャノンの通信モデルと重なる。どんな通信路にもノイズはつきものだが、量子の世界でのノイズとは、不確定性のことか...

「多量子間エンタングルメントこそが、量子コンピュータの本質であり、量子コンピュータが現在のコンピュータより高速になる拠り所である。」

そして、帰結は...
すべての元凶は、まったく不条理なもつれに発するのか。それは非局所的な相関関係で、一度でも関係を持っちまうと、離れていても付き纏われるというのか。
対象となる量子状態に、入力の量子状態をぶつけることで、出力の量子状態を炙り出す。これで、入力との関係が成立しちまう。関係を持ったからといって、相手が思い通りになるかは知らんが...
どうりで無数の量子で構成される人間が、いつまでも痴情のもつれに付き纏われるわけだ。量子の腐れ縁に、乾杯!

2026-08-16

"量子テレポーテーション" 古澤明 著

久しぶりにブルーバックスを一冊...
おいらが美少年だった時代、ブルーバックス教の信者であった。だが、脂ぎっちまった今、純真な好奇心の傾け方を思い出せずにいる。
このシリーズの魅力は、なんといっても分かった気にさせてくれること。分かった気になるということが、いかに幸せであるか。同時に、いかに危険であるか。
ある物理学者は言い放った。「量子力学がわかったと思ったら、それは量子力学を理解していない証拠である」と...

テレポーテーションといえば、SF で登場する瞬間移動のイメージ。時間を超える、光速を超えるといった...
しかしながら、量子テレポーテーションでは、そんな突飛な現象は登場しない。量子を相手取る時点で突飛ではあるのだけど。それは、電気が発見された時代と似た感覚であろうか。
ちなみに、ヴィクトリア女王時代、マイケル・ファラデーは首相から電気なるものに現実的な意義があるのかと尋ねられると、これに税金をかけることになるでしょう... と答えたと伝えられる。

量子の世界は、ニュートン力学では説明のつかない世界。その存在については、シュレーディンガーの猫や EPR(Einstein–Podolsky–Rosen)パラドックスといった思考実験で論じられる。だが、物理学はあくまでも実証学問!実証できなければ、単なる仮説に終わる。かのニュートン卿も、仮説嫌いで知られている...

不確定性原理は告げる。一つの量子の位置と運動量を同時に正確に測定することは不可能である... と。
測定するということは、対象とする物理現象とは別の物理現象、すなわち、観測過程が加わることになる。量子状態は、観測者という第三者が関与すると簡単に壊れてしまう。この法則こそ、量子力学を決定付けるエッセンスとなる。
状態が正確に把握できないものを、技術的にどう利用しようというのか。ましてや量子コンピュータなんぞ、夢のまた夢か!
なぁ~に、心配はいらない。完全に存在を定義できなくても、なんとなく存在するというだけで十分利用価値はある。量子の存在を定義づけるものは、スピンの状態などの量子情報や量子状態。ここで、存在感を示す物理量にエネルギーってやつがある。質量が定義できる世界では、あの有名な公式が幅を利かせる。

  E= mc2

では、質量が定義できない世界ではどうであろう。それは、プランク定数 h と光の周波数 ν で記述される。

  E = hν

量子状態を量子エネルギーの塊として捉えれば、それが不確定性原理を克服するエッセンスとなるだろうか。
今日、世界を席巻するデジタルシステムにしても、完全に制御できているわけではない。電流制御によって成り立っているものの、電子の個々を制御できているわけでもなく、統計的な制御に頼っている。それを支えているのが、エラーコレクション、すなわち誤り訂正機構である。どんな通信路にもノイズはつきもので、シャノンの通信モデルにも雑音源が考慮されている。
量子状態においても、量子の個々を相手取るのではなく、集合体として捉えれば、確率分布として扱うことはできそうか...

人間社会の統治でも、個々の人間を把握する必要はない。個人が持つ価値観、倫理観、世界観... などというものはあまりに多様性に富み、すべてを考慮することは不可能である。それでも、大衆の意志なるものを傾向として把握することは可能である。それは多数決的で、妥協点の模索でもある。
その意味で、量子力学は社会学的とも、統計学的とも言えそうか。少なくとも、無数の量子の塊で構成される人間よりも、個々の素朴な量子の方が扱いやすいし、集合論的な見方もできよう。集合論で扱えれば、数学が強力な武器となる。
そして、誤り訂正能力に持ち込めるほどの状態確率が担保できれば、量子コンピュータも夢ではなくなる...

ところで、人間の存在を定義づけるものとはなんであろう。肉体を感じ取る五感の存在か、精神の存在か、感情の存在か... などと並び立てたところで、そんなものが正確に把握できるわけではあるまい。そもそも、人間は本当の自分自身を知らずにいる。いや、知らぬが仏か!エネルギーを通して存在を感じているとすれば、霊感と何が違うのだろう...

本書は、量子テレポーテーションの理解のためのキーワードに、「量子の重ね合わせ」,「波束の収縮」,「量子エンタングルメント(もつれ)」の三つを挙げる。
多数の重ね合わせた状態を一つの運動量と見なすのはいいが、それでも個体群で捉えることが困難であることに変わりはない。そこで、量子には粒子性と波動性がある。粒子群で捉えられなくても、波束で捉えることは可能か。位相群にしてもエネルギー分布として捉えるならば、振幅で捉えることはできそうか。
数学的には、確率振幅というやつが有効だという。それを自乗すると存在確率になるというのだから。ここでは、光子の事例でその存在を物語ってくれる。光だって電磁波の一種に過ぎない。人間の目に見えるというだけで、とびっきりな存在とされるだけのこと...

「正しい量子力学の理解のために、あえて最も難しい例を挙げる。それは、時間的に長い波束、つまり、ほとんど波として振る舞う場合でも、光子を考えることができるという、我々の常識からは想像できない例である(これが真の量子力学である)。これが理解できれば(慣れてしまえば)、怖いものなし!光子というのはエネルギーが定まった状態であり、位相の情報を失った波の状態と考えるのが正しい。ここで、エネルギーとは波の振幅の自乗に相当する。」

2026-08-09

"人生について - 日記抄" Henri Frédéric Amiel 著

前記事にて、アンリ・フレデリック・アミエルの大作「日記」(全四巻)を味わった。その余韻に浸り、抄本版を手に取る。河野與一訳(岩波文庫)から土居寛之訳(白水社)へ、翻訳者が違うのも、なかなか乙。
哲学者とは、世界中が酔いしれる中で、ただ一人さめている人をいうらしい...

アミエルは自我を取り戻すために、苦悩、義務、意志が必要だと自分自身に言い聞かすように綴る。自我と非自我、汎神論と有神論、スピノザとライプニッツの狭間で動揺しつつ、精神のゆらぎを受け入れようともがく。人生とは、善と悪の糸が複雑に絡まった織り物。万能の神に創造できぬものはない。だから、悪魔をもつくるのか。ここに、諦めの哲学を見る。なすがままに... ありのままに... 死に方は選べない。アーメン!

「生きてゆくためには、習慣は格言以上の働きをするものである。習慣は本能となり肉となった生きた格言であるからだ。自分の格言を改めるだけでは何にもならない。それは本の表題を変えるようなものだ。新しい習慣をつけるということがすべてである。なぜならばそれではじめてほんとうの生活へと到達することになるからだ。人生は習慣の織り物にほかならない。」

生きる上で、不動の一点を見つけることは至難の業。アミエルは、自由こそが最も固執する情念としながら、自由そのものに確信が持てずにいる。人生とは、諦めてゆくことへの修行。希望、所有、能力の限界を知り、多くの自由が削られていくことに耐える場。そうした受容の場で、自ら意志が欠けていることを嘆き、心の落ち着きを絶望に求め、孤独に自己の居場所を定める。そして、義務が自我を肥大化させ、使命が自我を膨張させていく自分自身に、運命を甘受せよ!と説く。厭世家の遠吠えのごとく...

彼は、日記に孤独者の打ち明け相手を求め、慰め相手を求め、自我の肖像が変化していくのを感じ取る。変身願望がそうさせるのか。生きる覚悟は、死ぬ覚悟と同じこと。いや、死ぬことよりも、老いてゆくことの方が難しい。人に読まれるために書くのではない。自我の救済者は、なにも人間である必要はない。過去を回想して未来への道しるべとし、自らを極楽浄土へ導くために。そして、日記は人生の清算書となる...

「人間がほんとうに人間であればあるほど、人間は孤立する。物を見通す力と善意とを増せば増すほど、同類が少なくなってくる。もし人間が完全なものになれば、それはたった一つの見本になることだろう。そういうわけで、優秀な性質は人間を孤立させ、その環境や一般人や大衆から引き離す。」

健全な懐疑心を保ち、啓発した利己心を実践することは難しい。それを、哲学とやらが手助けしてくれる。不機嫌を克服するためには、まず謙虚な気持ちになることだという。自分の弱点を知っていて、それを指摘されたからといって、なにゆえ怒る必要あるか... と。次に反省すること。結局、人はあるがままの存在でしかない... と。

「哲学とは、精神の完全な自由である。したがって、宗教的、政治的ないしは社会的なあらゆる偏見から独立することである。哲学はその出発点においては、キリスト教的でも異教徒的でもなく、君主的でも民主的でもなく、社会主義的でも個人主義的でもない。哲学は批判的であり公平である。哲学は一つのことしか愛していない。それは真理である。」

批評は、一つの芸術だという。それは、天賦、機知、鑑識力、直感である...と。それは教えられるものでも、論証されるものでもない... と。それは、偽りや改竄を見抜く能力によって支えられる... と。人が生きていく上では、自己批評もまた教訓となる。その率直な意志を自然の風景と同化することができれば、おいらでも詩人になれるだろうか...

「芸術は、自然のはっきりしない思想を浮き彫りにすることにほかならない。それは多くの線の単純化であり、目に見えない群れを外に引き出してくることである。霊感の火は感応インキで書かれたデッサンを浮かび上がらせる。神秘なものが明瞭になり、雑然としたものが明らかになり、複雑なものが簡単になり、偶然のものが必然になる。要するに、芸術は自然の意図を翻訳し、その意志(理想)を言いあらわすことによって、自然の正体を明らかにする。」

2026-08-02

"アミエルの日記(全四冊)" Henri Frédéric Amiel 著

アンリ・フレデリック・アミエルとえいば、やはり「日記」であろうか。しかし、これは日記というより告白の書、いや、彷徨の書と言うべきか。かの小説家の如く、ぼんやりとした不安を漏らしつつも、空虚な盲目の鬼ごっこ... 意地悪な運命の隠れんぼ... でもやっているかのようで、箴言めいた文句を鏤める。
尚、河野與一訳版(岩波文庫)を手に取る。

「結論。日記は講義の準備でもなく構想の稽古でもない。それは話すことも書くことも筋道と方法を立てて考えることも教えない。それは心理的な寛ろぎ、休養、食道楽、無駄な活動、仕事の見せ掛けである。」

丸一日をバイロンに捧げては、ドン・ファンを読み、カインを読み、ゲーテに捧げてはファウストに耽り、なお陰湿な世界から逃れられず、ヘーゲルやショーペンハウアーを試みるも、一向に視界は開けず、挙げ句にダンテの煉獄に縋り、バルザックに、ディケンズに、ヴォルテールに身を委ねるも... 荒涼たる悲観論の中に自我を埋没させていく。キリストのドグマでさえ自己のエゴイズムに染まっていくとすれば、人間とは絶滅に値する存在か。エホバの従僕の叫びが聞こえてきそうな、いや、メフィストの囁きが...

アミエルは、いまだ真の献身、真の信仰ができずにいると自戒する。あらゆる成功に嫉妬し、社会に反抗心を抱き、人から受けた好意や人の名誉を認めようとしない自分がいる、と...
鎮めることのできない虚栄心、想像力を欠く利己心、これらを日記の題材にすることで、自己を救おうというのか。日記を芸術作品に仕立て上げ、自我を芸術の中に埋没させることで、自己を救おうというのか。
自我を非我の如く冷静に観察せよ!と自らを説き、幸福とは満足すること、真の謙遜は満足すること、心の平静は満足により... とするも、自分の記憶力と知力の限界を測り、自己の無力さを悟る。
それで、自己否定に満足を見るのも、自己肥大より、自己欺瞞よりましか。突き詰めれば、悲観論は楽観論に通ずるらしい...

精神を事物に屈服させ、人間から人格を奪うこと、これが現代社会の傾向だという。それは、デカルトの二元論に発する、と...
自由と平等、どちらが実現しやすいであろう。平等は、権威主義でも、共産主義でも、ある程度強いることができるし、宗教とて服従の下で成り立つ。対して、自由は、現実的に自由な個人のいない個人主義ということになるらしい。
それでも自由に帰依し、自発的な服従はできる。真の自由を得るには、何に服従すればいいのか。健全な懐疑心をともない... 啓発された利己心を少しばかりともない... やはり自由の実践は難しい。
せめてもの慰めに、格言めいた言葉をいくつか拾ってみる。その日の気分によって拾う言葉も違ってくるのだけど...

「虚世の途に於て習慣は格言にまさる。習慣は、生きた格言が本能となり肉となったものである。格言を改めるということは何にもならない。本の標題を変えただけのことである。新な習慣を採るということが肝腎である。それは生活の実体に立ち入ることになる。生活は習慣の織物に他ならない。」

「狂気とは何であるか。錯覚の自乗である。常識は、事物と人間と常識自身の間に規則的な関係、生き方を設定して、安定した真理、永遠な事実に触れているという錯覚を持つ。」

「人間が本当に人間であればある程、孤立して来る。明瞭と善意を増せば増す程、同類が少なくなる。もしも完全なものになるとすれば、唯一しかない実例になるだろう。その意味で、優秀な性質は人間の周りに空虚を作り、その人間をその環境、卑俗、多数から分離する。幸いにして慈愛はその人間に深淵を再び跨がせる。」

「教育は目的を変えないにしても方法を変える。努力による満足の次に、忍耐による満足が来る。いずれにしても満足していろ。平静にしていろ。それが一番強い力だ。」

「革命とは何か。自分の旗に記した或る主義の名に於て権力の把握に成功した、暴徒のことである。」

「自殺の本能は私にあっては保存の本能と同一なものになっている。」

「どっちが偉大か、モーツァルトかベートーヴェンか。無益な問である。一方は完成していて他方は巨大なのである。前者は完全な芸術の平和、美であり、後者は崇高、恐怖と憐憫、立奏して味わう美である。」

「愚人を相手にする態度ほど人柄を表わすものはない。」

「誠意は、今でも遍く守られている徳である。その結果、嘲弄するものに対しては立腹し、器用な人間に対しては不器用さを示し、狡猾な人間に対しては反感を抱き、上品な趣味に対しては素朴な感嘆を発し、且つ高雅な身振をぎこちなく誇張する。」

「老いることを心得るのは、叡智の傑作であり、偉大な生活術の最も困難な部門の一つである。」