アンリ・フレデリック・アミエルとえいば、やはり「日記」であろうか。しかし、これは日記というより告白の書、いや、彷徨の書と言うべきか。かの小説家の如く、ぼんやりとした不安を漏らしつつも、空虚な盲目の鬼ごっこ... 意地悪な運命の隠れんぼ... でもやっているかのようで、箴言めいた文句を鏤める。
尚、河野與一訳版(岩波文庫)を手に取る。
「結論。日記は講義の準備でもなく構想の稽古でもない。それは話すことも書くことも筋道と方法を立てて考えることも教えない。それは心理的な寛ろぎ、休養、食道楽、無駄な活動、仕事の見せ掛けである。」
丸一日をバイロンに捧げては、ドン・ファンを読み、カインを読み、ゲーテに捧げてはファウストに耽り、なお陰湿な世界から逃れられず、ヘーゲルやショーペンハウアーを試みるも、一向に視界は開けず、挙げ句にダンテの煉獄に縋り、バルザックに、ディケンズに、ヴォルテールに身を委ねるも... 荒涼たる悲観論の中に自我を埋没させていく。キリストのドグマでさえ自己のエゴイズムに染まっていくとすれば、人間とは絶滅に値する存在か。エホバの従僕の叫びが聞こえてきそうな、いや、メフィストの囁きが...
アミエルは、いまだ真の献身、真の信仰ができずにいると自戒する。あらゆる成功に嫉妬し、社会に反抗心を抱き、人から受けた好意や人の名誉を認めようとしない自分がいる、と...
鎮めることのできない虚栄心、想像力を欠く利己心、これらを日記の題材にすることで、自己を救おうというのか。日記を芸術作品に仕立て上げ、自我を芸術の中に埋没させることで、自己を救おうというのか。
自我を非我の如く冷静に観察せよ!と自らを説き、幸福とは満足すること、真の謙遜は満足すること、心の平静は満足により... とするも、自分の記憶力と知力の限界を測り、自己の無力さを悟る。
それで、自己否定に満足を見るのも、自己肥大より、自己欺瞞よりましか。突き詰めれば、悲観論は楽観論に通ずるらしい...
精神を事物に屈服させ、人間から人格を奪うこと、これが現代社会の傾向だという。それは、デカルトの二元論に発する、と...
自由と平等、どちらが実現しやすいであろう。平等は、権威主義でも、共産主義でも、ある程度強いることができるし、宗教とて服従の下で成り立つ。対して、自由は、現実的に自由な個人のいない個人主義ということになるらしい。
それでも自由に帰依し、自発的な服従はできる。真の自由を得るには、何に服従すればいいのか。健全な懐疑心をともない... 啓発された利己心を少しばかりともない... やはり自由の実践は難しい。
せめてもの慰めに、格言めいた言葉をいくつか拾ってみる。その日の気分によって拾う言葉も違ってくるのだけど...
「虚世の途に於て習慣は格言にまさる。習慣は、生きた格言が本能となり肉となったものである。格言を改めるということは何にもならない。本の標題を変えただけのことである。新な習慣を採るということが肝腎である。それは生活の実体に立ち入ることになる。生活は習慣の織物に他ならない。」
「狂気とは何であるか。錯覚の自乗である。常識は、事物と人間と常識自身の間に規則的な関係、生き方を設定して、安定した真理、永遠な事実に触れているという錯覚を持つ。」
「人間が本当に人間であればある程、孤立して来る。明瞭と善意を増せば増す程、同類が少なくなる。もしも完全なものになるとすれば、唯一しかない実例になるだろう。その意味で、優秀な性質は人間の周りに空虚を作り、その人間をその環境、卑俗、多数から分離する。幸いにして慈愛はその人間に深淵を再び跨がせる。」
「教育は目的を変えないにしても方法を変える。努力による満足の次に、忍耐による満足が来る。いずれにしても満足していろ。平静にしていろ。それが一番強い力だ。」
「革命とは何か。自分の旗に記した或る主義の名に於て権力の把握に成功した、暴徒のことである。」
「自殺の本能は私にあっては保存の本能と同一なものになっている。」
「どっちが偉大か、モーツァルトかベートーヴェンか。無益な問である。一方は完成していて他方は巨大なのである。前者は完全な芸術の平和、美であり、後者は崇高、恐怖と憐憫、立奏して味わう美である。」
「愚人を相手にする態度ほど人柄を表わすものはない。」
「誠意は、今でも遍く守られている徳である。その結果、嘲弄するものに対しては立腹し、器用な人間に対しては不器用さを示し、狡猾な人間に対しては反感を抱き、上品な趣味に対しては素朴な感嘆を発し、且つ高雅な身振をぎこちなく誇張する。」
「老いることを心得るのは、叡智の傑作であり、偉大な生活術の最も困難な部門の一つである。」
