本書は、自伝の形をとっている。それは、生きた時代を実直に物語ったもの。
ヘルマン・ブロッホの生きた時代とは、ヒトラーに象徴されるファシズムが台頭していく時代、群衆が熱狂していく中で世界が崩壊していく時代、宗教はもとより、形而上学も、哲学も、無力感に襲われる時代。こうした社会状況を「うつけた薄明状態」と形容する。まさに、人間社会は夢まぼろしのごとくなり!
ブロッホは、群衆狂気論をぶちまけながら、民主主義とは何かを問い、その在り方を問い、そもそも存続すべきかを問う...
尚、入野田真右、小崎順、小岸昭訳版(叢書・ウニベルシタス)を手に取る。
主な政体には、君主制、貴族制、民主制の三つがあり、現在、民主制が最善で君主制が最悪とされる。だが、アリストテレスは、むしろ君主制が最善で民主制こそが最悪というようなことを、弟子たちに漏らした。弁論術で荒稼ぎするソフィストどもが横行すれば、都市国家アテナイの有り様を嘆かずにはいられなかったのか。ヒトラー政権もまた、当時、最も民主的とされたワイマール共和国から生まれ出た。
君主制はすぐさま僭主制と化し、貴族制は最優秀者たちの統治から固定された階級による支配へと移行し、民主制もまた衆愚政治と化す。単独支配、少数支配、多数支配のいずれの形を取ろうと、人間の本性は相も変わらず怠惰と見える。
そもそも民主主義とは、それほど高尚なものなのか。民主主義と兄弟のように扱われる自由主義にせよ、これらと手を組む資本主義にせよ、柔軟性においては少しばかり有利であろうか。民主主義の抱える問題と社会主義や共産主義が抱える問題とでは、どちらが深刻かと問えば、やはり比較的マシであろう。ただ、全体主義のように強制されるべきものなのか...
「民主主義国家とは、常に妥協の産物!」
それは、公民権を認めること、人権を保証することに始まる... という。
おそらく、完全な民主主義なるものは存在しないだろう。それは民主主義に限らないが...
民主主義ってやつは、基本原理は同じでも、その在り方となると実に多様。ホッブズやロックが唱えた自然権や自然法に立ち返り、常に見直してゆかねば... やはり怠惰な人間には辛い。民主主義とは、人類には高尚すぎる代物なのか...
ブロッホはユダヤ人を両親に持ち、ゲシュタポに逮捕され、辛うじてアメリカに亡命し生き延びた。彼は小説家としても知られ、読者に働きかけることによって、文学が歴史の流れを変えられるかと問い掛ける。だからといって、小説家に人類を救え!などとふっかける気にはなれない。
大衆が狂気を克服するとなると、昔から政治や報道の領域とされてきた。だが、それを率先して扇動するのも両者。となれば、頼みは個人か。それこそ民主主義というもの。しかし現在、ソーシャルメディアの肥大化によって、個々が扇動の渦に飲み込まれていく...
「あらゆる真理は合理的表現を取ろうとする傾向をもつ。」
非合理的表現は、何らかの隠蔽を意図しているという。
あらゆる集団活動が、何かを教化しようとする。しかも、無意識的に。人間精神の根底には、サディスティックな享楽とマゾヒスティックな享楽が錯綜する。反ユダヤ主義の集団ですら、自らの狂気を感じ取っているだろう。群衆の狂気と個人の狂気は本質的に違う。集団の中にあれば、たとえ違和感を覚えても同調圧力に屈し、迫害を見て見ぬふり、 犯罪の黙認。しかも、正義を掲げ、過剰攻撃は過剰充足に埋もれ、犯罪意識までも消し飛ぶ。これこそ群衆心理というものか...
人間ってやつは、狂気する動物である。自称平和主義者のおいらだって、スポーツ観戦では贔屓目のチームに熱狂するし、まずいプレーにはブーイングしちまう。これが国家レベルになっても、けして戦争には熱狂しない!などという自信はない。それだけ何かに縋り、依存せずにはいられないってことだ。自立もできていないのだから。それは、イデオロギーに縋り、ファシズムにのめり込むのと何が違うのだろう...
人間の優越欲は、如何ともしがたい。相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体は、他との比較でしか自己を確認することができない。
となれば、人よりマシな立場を欲して止まない。民族優越主義、国家優越主義、イデオロギー優越主義など、すべてこの類い。
人間は自分の意見に承認欲求を抱き、同調意見によって強化する。人間は、同種で群れるのがお好き!その分、孤独を恐れる。孤独から逃れるために、陶酔感情と自我肥大といった幻覚作用を欲し、政治的な奴隷、経済的な奴隷、イデオロギー的な奴隷へと引きずり込まれる。質の高い目的意識がなければ、集団意識に簡単に飲み込まれちまう。
群衆に埋もれる方が楽か、孤立する方が楽か、どちらも大して変わらないような気もする。仮に孤独を克服できたとしても、それも一つのイデオロギーということになろう...

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