アルキメデスの求積法が、近代の積分法にどんな知識を準備し、どこが決定的に違っていたのか?これは、そうした視点からのアルキメデス入門書である。
物語は、推理小説の題材にもなりそうな発見から始まる。1906年、幻の著作「方法」の写本が発見された。表題は「エラトステネスに宛てた機械学的定理に関する方法」というそうな。一旦、第一次大戦後の混乱の中で行方不明となるが、再び出現。1988年、ニューヨークでクリスティーズのオークションに出品され、シリコンバレーで財を成した者が200万ドルで落札。その人物の名は公開されていないそうだが、有益な調査に惜しみない協力をしたという。写本に秘められる思考法には驚くべきものがある。ニュートンやライプニッツより二千年も先んじていたとは...
アルキメデスと言えば、その逸話から数学者というより技術者の印象が強い。それは、梃子の原理による投石器、浮力の原理と重心の理論による造船技術、船底に溜まった水を汲み出すスクリュー機... などの発明である。きっと理論と実践の両刀遣いに違いない。彼の思考には、ギリシア幾何学の知識が豊富に詰まっている。幾何学の基盤と言えば、やはり三角形であろう。そこで、ちょいと泥酔風に三角形の正体を暴いてみようと思う。なぁーに、中学生レベルの算数よ...
放物線とその切片である直線とで囲まれる面積を求める場合を考えてみる。まず、始点と終点を底辺とし、放物線上の点を頂点とする三角形を埋める。そして、その三角形の辺を底辺とし、放物線上の別の点を頂点とした三角形を埋める。こうして次々に三角形の辺を底辺としながら、放物線上の点を頂点とする断片的な三角形で埋め尽くせば、求める面積に近づく。放物線の描く軌跡を三角形の総和として眺めれば、三角形の面積の無限級数に対応するという寸法よ。
また、対象図形において、その区間を底辺とし、対象図形上を通る点を頂点とするように三角形を配置するということは、底辺から対象までの距離を測ることを意味する。三角形の高さは、頂点と底辺との垂線によって決定されるのだから。直角の性質は、近代数学では直交性で抽象化され、集合論、行列式、ベクトル理論、線形空間などで重要な概念とされてきた。同時に、二物の距離は二物の関係へ、平面上の垂線は多次元ベクトルへ、それぞれ抽象化されるわけである。解析学では、分析対象を直交関係にある二つの関数で分割するという基本的な思考がある。フーリエ変換が正弦関数と余弦関数を基底にするのも、互いの直交性を利用している。
面積や体積を求める時、基本図形を物差しにしながら分割し結合する方法は「取り尽くし法」として知られ、ユークリッド原論にも記される。本書は、これを「二重帰謬法」と呼んでいる。帰謬法とは背理法のことで、証明したい命題を否定してみると矛盾が生じる、というやり方で証明する論法である。二重帰謬法では、ある命題を直接証明するのではなく、より大きいか、より小さいかと仮定して矛盾を導き、その正体に近づいていく。この思考法は、積分法そのものの基本原理であり、三角形の幾何学と無限級数の代数学の融合によって組み立てられている。アルキメデスが古代ギリシア幾何学と古代バビロニア代数学の融合を夢見ていたかは知らんが...
こうした思考法が二千年以上も前から実践されてきたということは、人間の認識原理に、三角形の原理と微積分的思考の組み合わせのようなものがあるのだろうか?神を定義するために三位一体の概念を持ち出し、自己存在を確認するために第三者の意見を求める。人々が揉め事を好んで三角関係に安住を求めるのは、三体問題が解けないことを本能的に知っているからであろうか?人間は謎めいたものに惹かれる習性がある。だから、三角関係で微妙に距離を測りながら、小悪魔に憑かれるのよ。夜の社交場という耳慣れない場所では、縁(円)を求めて鋭角の視線を送ると、角張った性格を丸くしてくれる、と聞く。
また、相対的な認識能力しか持てない知的生命体が、物事を知ろうとすれば、何かと比較しながら恐る恐る近づこうとする。近代数学では、多くの微分方程式が解けないという事情から、大小関係から迫る方法が盛んに行われる。その最たるものがε-δ論法だ。このヘンテコな理論が大学の初等教育で扱われるのは、数学の偉大さに屈服させようという魂胆か?おかげで、使いもしない道具のために落ちこぼれる羽目に。ちなみに、微分学の美学には、永遠に近づこうとすることは、永遠に到達できないことを意味する!というのがある、と聞いた。いや、夜の社交学の美学だったか?定かではない。
ところで、ユークリッド原論でも見かけた「グノーモーン」が登場する。古代ギリシア人のお好きなやつで、日時計によって作られるようなL字型の図形である。なるほど、人は影を引きずって生きているというわけか。本質を解明するには、その影を追いかけよ!とでもいうのか?そうかもしれん。
1. アルキメデスの逸話
有名な逸話といえば、公衆浴場から裸で飛び出して叫んだ一言「Eureka!(分かったぞ!)」。シュラクサイのヒエロン王は、金の冠を作らせて神殿に奉納された。尚、この冠(ステパノス)は王冠ではなく、古代オリンピックの勝者に与えられた月桂冠のような形だったという。冠に銀が混ざっているとの告発があると、怒ったヒエロン王は真相を調べるように命じる。だが、金を溶かしてみるわけにもいかない。浴場でこの難問を考えていると、体が浸かった分だけ水が流れだすのを見て、冠の体積を測ればよいことに気づく。金と銀の比重の違いに目をつけたのだ。そして、冠を水をいっぱいにした甕に沈めて、あふれた水の体積を測った。
また、「支点を与えよ。そうすれば地球を動かしてみせる。」という言葉も有名。梃子の原理を使えば、小さな力で大きなものを動かせるという意味である。巨大船シュラコシア号の逸話では、ヒエロン王が建造中だった巨大な船を、アルキメデスはわずかな人手で進水させたという。滑車やウインチといった機械を利用して。換算すると4000トン以上にもなるとか。昔話には誇張があるもの。ここでは、長さ76.5メートル、幅15メートル、喫水3.9メートル、積載量1900トンという見積りをあげている。この船の底に溜まった水を汲み出すために、コクリアスというスクリュー型の汲み上げ機が使われたという。
ただ、コクリアスの発明をアルキメデスの功績にするのは、ちと怪しいようだ。古代人は、なんでも有名人の業績にしてしまう傾向があったという。第二次ポエニ戦争では、ローマ軍はアルキメデスの機械に散々手こずらされたという。投石器を使い、軍艦をクレーンで振り回し、太陽光で軍船を焼いたという話まであるそうな。この戦争でアルキメデスは死ぬことになるが、ローマの将軍マルケッルスは、彼を生かして連行するよう厳命したという。問題が解けるまで動こうとしなかったので、怒った兵士に殺されたという説もある。その時、「私の円を乱すな!」と言ったとか、言わなかったとか。我を忘れる集中力!これこそが天才の原動力なのかもしれん。
尚、彼の墓には、球の体積を発見したことに因んで、球と円柱が彫られていたそうな。紀元前1世紀、キケロが財務官としてシチリアに赴任した時に埋もれた墓を発見したという。だが、惜しいことに現存しないらしい。
2. C写本の経緯
アルキメデスの時代、文献はパピルスに記された。ただ保存性が悪く、現代に伝わるギリシア語の写本の大半は9世紀以降にビザンツ帝国(東ローマ帝国)のコンスタンティノープルで筆写されたものだという。東ローマ帝国の公用語はラテン語ではなくギリシア語であったので、しばしば「ギリシア人の帝国」と呼ばれたそうな。
アルキメデスの著作も、この例に漏れないようだ。C写本と呼ばれるからには、A写本とB写本がある。最も重要とされるのがA写本で、9世紀に作られ主要な著作の多くを網羅するという。ルネサンス期の人文主義者ジョルジョ・ヴァッラが所有していたが、彼の死後行方不明。残念ながら現存しないらしい。B写本は、13世紀に作られ、ヴァチカンの所蔵品でラテン語に翻訳されているという。これも行方不明だとか。
実は、ギリシアの学術文献の大半は、ラテン語訳される前にアラビア語に訳されるという経緯を辿ったそうな。イスラム教の創始者ムハンマドが7世紀前半に大帝国を築き、8世紀半ばにバグダッドに都を定めたアッバース朝では、ギリシア学術が熱心に研究され翻訳されたという。今では、アラビア語でしか残っていないギリシア文献も少なくないという。
さて、本テーマのC写本は、1906年にデンマークの学者ハイベアによって発見されたという。10世紀後半に作成され、12世紀に祈祷書が上書きされた「パリンプセスト」。中世の写本はたいてい羊皮紙に書かれたという。だが、羊皮紙は貴重であったため、表面を擦って文字を消し、別の著作を写すために再利用されたとか。このような写本をパリンプセストと言うそうな。ギリシア語で「再びこすったもの」という意味があるとか。ハイベアという名はユークリッド原論でも見かけたが、ギリシア数学文献の校訂版の大半を作成した人だそうで、他にはアポロニオスの「円推曲線論」、プトレマイオスの「アルマゲスト」などがあるという。
しかし、C写本は、第一次大戦後の混乱の中で、イスタンブールから姿を消し、パリで再発見される。売却されたのか?盗人の仕業か?不心得な聖職者が持ちだしたのか?...分からずじまい。なんと、パリの国立図書館はフランス文化に関係ないとして購入を断ったとか。1988年、結局オークションに出品されるが、状態は酷く、百年で千年分のダメージがあったという。そして、紫外線の力とコンピュータの威力で再現されることに...
3. 名声と民主政治
アルキメデスは生前から評価されていたわけではなく、正当な評価を受けない苛立ちと、孤独な数学者という姿も残されるという。古代ギリシアの一般的な行動様式は、他の学者を批判して自分の優秀さを強調することだとか。今と何が違うんだっけ?
ギリシアで論証数学が成立したのは、民主政治との関わりがあるのだろう。それは、ソフィストの出現に見られる。戦争をやるにしても、僭主の独断で始めるわけにはいかない。世論を説得できるほどの理屈がなければ、ボリスは動かない。論理的思考と民主政治は相性が良いのかもしれない。逆に言えば、感情論に委ねれば、民主政治は簡単に暴走するということか。
それはさておき、定理の功績について、C写本の序文にこう記されるという。
「エウドクソスが最初にその証明を見出した円錐と角錐についての定理、すなわち円錐は同高同底の円柱の3分の1であり、角錐は同高同底の角柱の3分の1であるという定理に関して、デモクリトスにも少なからぬ貢献を認めるべきでしょう。彼はこれらの図形に関する性質を証明なしで述べたのですから。」
デモクリトスは原子論を唱えたことでも知られるが、プラトンやアリストテレスに嫌われたこともあって、わずかな断片しか残っていないという。デモクリトスの歴史からの抹殺はかなり徹底しているそうな。プロクロスの「幾何学列伝」にもデモクリトスの名が見当たらないという。ギリシア数学は、紀元前6世紀タレスやピュタゴラスに始まり、プラトンのアカデメイアで発展したというのが通説であろう。いつの時代でも、巨匠から嫌われた人物は、歴史から抹殺される運命にある。そもそも、純粋な観念による真理の探求者は、名を挙げようなどとはしないだろう。ならば、名声などというものにどれだけの意味があるのだろうか。
2013-04-28
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