2009-02-15

"経済学をめぐる巨匠たち" 小室直樹 著

本屋で立ち読みしていると、興味深いフレーズに出くわした。
「経済学は不思議な学問である。他の学問に比べ、対象となる範囲が酷く限られている。」
おいらが、経済学に触れた時に思った最初の印象そのものである。天動説が地動説によって駆逐されたように、多くの学問で新しい説が生まれると古い説は捨て去られる。だが、経済学に限っては何度も思想がゾンビのように蘇る。本書は、経済学者と称する偉い人は、経済学が何を対象とした学問かを理解していないと嘆いている。そして、経済学が扱う対象はズバリ「近代資本主義」であると指摘する。経済史は歴史学の範疇であり、経済学の中では研究がなされないのだそうだ。なんとも不思議な世界である。そもそも歴史を無視した学問なんてあるのか?更に、近代資本主義とは、まさしく社会主義経済の研究にほかならないというからおもしろい。本書をパラパラっと捲っていると、それに反するかのように資本主義の哲学的な考察と、歴史を紐解く展開がなされる。

ところで、経済大国とまで呼ばれる日本で、なぜノーベル経済学賞級の巨匠が生まれないのか?といった疑問がある。本書は、この理由を経済学の教育システムに求めている。そして、歴史的考察がないことと、数学を必須としていないことを指摘している。まったく同感である。
アル中ハイマー曰く、「経済学者と称する者で、社会学的観点のない者は単なる統計調査員である。おまけに、数学的観点のない者は単なる占い師である。」
経済学者は最近の出来事の予想が当たると思いっきり自慢する。だが、まったくと言っていいほど経済予測を継続的に当ててきた者はいない。教育システムといえば、大学の学部で経済学部と商学部が分離されていることに疑問を持ったことがある。経済学部は社会学部経済科ぐらいでええんでないかい、商学部は社会学部経済科の中にある一教科ぐらいでええんでないかい、などと思ったものだ。ちなみに、哲学部なんて聞いたことがない、文学部哲学科ぐらいだろう。電磁気学部なんてものも聞いたことがない、工学部電子工学科には一教科としてある。これも、エントロピー増大の法則にしたがって学問の専門化が進んでいるということだろうか?経済学は他の学問よりも形式だけは進化が早いようだ。

身近な経済学といえば、最近、会社に果たす資本の役割について疑問に思うことがある。資本が重要な要素であることは間違いない。ただ、やたらと外部資本を注入することが良いのか?よく見かけるエンジニア会社について言うならば、ベンチャーキャピタルに、日本の場合は銀行系であるが、安易に資本注入してもらって経営が安定したと喜んでいる経営者がいる。そして、資本家の口出しには逆らえなくなる。従業員の方を向いていた経営者は、徐々に資本家の方を向くようになる。資本家の中には、金勘定ばかりに長けていてエンジニアの体質を理解していない人も多い。そもそも、金融系とエンジニア系の神経ベクトルは真逆にある。エンジニア出身の社長は経済学の素人という引け目からか?金融系の意見を素直に受け入れるところがある。彼らは金のプロであってエンジニア会社の経営プロではないのだが。社長も経営責任がある以上、経済学を勉強するべきだが、面倒なことは事務方に任せる傾向がある。側近の中に信頼できる事務方のパートナーがいれば良いが。したがって、目先の売上に囚われるあまり、人材派遣のような仕事に追われるケースを見かける。そうなると、優秀な人材が逃げていき人材の入れ替わりの激しい会社へと変貌する。人材の質も低下する。また、株式を公開した途端におかしなことになる会社も見かける。そもそも売却目当ての経営者もいる。経営者はなぜ目先が曇るのだろうか?そもそも、なぜ会社を起こそうと考えたのだろうか?人間は金が絡むと変貌するようだ。ところで、将来変貌する未公開株があるんだけど、いつでも簿価でお譲りしますよ!時価で換算すると...あれ?減価償却されてるのか?

本書は、経済学のイデオロギーを整合しようとする。そして、古典派とケインズ派の弱点を議論し、現在では崩壊したとされるマルクス主義の誤解を解いている。かつて、社会主義は資本主義の枯渇によって始まったという意見があった。世界恐慌はその証であると。しかし、資本主義の行き詰まりで生じたならば、なぜ資本主義先進国であるイギリスやアメリカで起こらないのか?なぜ資本主義後進国のロシアで起こったのか?これは昔から持っている疑問である。本当の意味での社会主義は未だ出現していない可能性がある。こうした議論は、歴史に立ち返り、経済学の哲学的意義を考察する必要がある。本書は、驚くことに経済学でも名著と呼ばれるものが多くあることを教えてくれる。それにもまして驚くのは、絶版になっている本も多いことであるが。新しい経済学者の本を読むよりも、こうした名著を読みあさった方が、まともな解釈が得られそうだ。経済学の本を読む時は、いかにも論理的な考察がなされているようでも疑ってかかる癖がある。どこか条件が抜けていることが多い。どんな学者でも論理的な議論を好むのは理解できる。そうでなければ学問ではない。経済学者は数学的関数やチャートを用いて格好良く見せようとする傾向が強いように思える。しかし、こうした印象は本書のおかげで少しイメージが変わった。

本書で注目したいのは「私的所有の概念」である。最近、「会社は誰のものか?」という論争をよく見かける。それも、市場経済が本当に合理性に基づいているのか?と疑いの目が向けられている証でもあろう。本書は資本主義の根幹にある「私的所有」の概念を強調する。それは「所有」と「占有」という概念で分けられる。つまり、株主が「所有者」であり、従業員や管理者は「占有者」である。そもそも私的所有権は、処分や担保などのいかなる行為も許される権利が法律で定められている。つまり、形の上では株主が持っているものを、管理者や従業員が間借りして働いていることになる。いくら従業員や管理者が自分が所有者であると主張しても、彼らに会社を自由にさせてよいことにはならない。本書は「会社は資本家のものである」と断言している。そして、「私的所有の概念」が日本人には理解できていないと指摘している。なるほど、所有の概念はその通りであろう。論理的に反論するつもりはない。だが、アル中ハイマーの直感は何かひっかかると訴えている。そこで、「会社は誰によって成り立っているか?」と問い直すと、それは従業員であり管理者であろう。では、「会社は誰のために存在するのか?」と問い直すと、それは顧客であり社会的意義であろう。「経営責任を負うのは誰か?」と問えば、それは経営陣となる。従業員はいつでも辞められるし、顧客はいつでも他社に乗り換えられる。質問の角度を少し変えただけでも実に多くの要素が絡む。いずれにせよ会社を私物化できるものではない。社会への影響力が大きい企業ほどそうなる。果たして一方向からの問いかけを議論することに意味があるのか?経済学を胡散臭いと思う理由がここにある。永続的な企業を望めば、あらゆる要素がバランスした健全な状態を保つ必要がある。そして、「会社はなんのために存在するのか?」と問えば、アル中ハイマーは「少なくとも社会の害になるぐらいなら潰れた方がいい」と答えるのであった。所有の概念には人間のエゴイズムが潜む。愛というエゴは、相手を所有しているという錯覚から始まる。会社を誰が所有するかなど法律上の問題でしかない。法律とは、都合が悪くなった時の言い訳のために存在する。ところで、官僚の所有の概念は奇妙である。どうやら税金を所有していると思っているようだ。公務員の減給が議論されると、「私たちが何か悪いことした?」と反論する。財政赤字ということは、既に経営破綻に陥っていることを意味するのだが。そこには組織が潰れないという前提がある。やはり、官僚も潰さないといけないようだ。

1. 資本主義の精神
資本主義こそ宗教的影響を受け、キリスト教圏のみに発達する土壌があったと考察している。資本主義は宗教の関与がなく利潤主義が強いようにも見えるが、実は違うようだ。そこには、カトリックに逆らったプロテスタンティズムから受け継がれる「資本主義の精神」があるという。資本主義の原理では、技術の進歩、資金の蓄積、商業の発達といった条件が必要である。学校教育では、資本主義は産業革命時代から始まったと教える。しかし、歴史的に見ると条件が揃った時代が、ずっと以前からあると指摘している。古代エジプトや古代中国、大航海時代と大発見時代。いずれも資本主義には至っていないという。その原因は「資本主義の精神」が無かったからだと主張している。資本主義の精神とは、目的合理的精神、労働を救済と考えて尊重する精神、利子や利潤を倫理的正当化する精神であるという。その必要性はマックス・ヴェーバーが指摘している。中世ヨーロッパでは、利子を取って金を貸す事は犯罪とされていた。キリストの教えに反するからカトリック教会が禁止した。利子が存在しなければ返却の期限も定まらない。また、商売とは利潤の追求であり、そこに罪悪感があっては経済活動は成り立たない。ところが、カトリック教会は様々な抜け道を講じて財を蓄えた。そもそも宗教がなんで儲かるのか?ご都合主義は宗教の得意とするところである。そうした背景にプロテスタントが立ち上がる。中でも厳格なカルヴァン派の功績が大きいという。カルヴァン派は、宗教から合理性を見出し、利潤追求の正当性を認めたという。人々が本当に欲しがっているものを生産し、適正な価格で市場に供給する事によって得た利潤は、罪どころか隣人愛であると解釈される。ヴェーバーは、プロテスタントが宗教の呪術や魔術から解放し、合理化したところに着目しているらしい。なるほど、労働の精神を救済の精神と結びつけたのは画期的であろう。宗教改革が資本主義を加速させたことに異論を唱えるつもりもない。予定説が、神の御心に従って人間の精神を職業労働に励むことに向けたという議論は多く見られる。だが、資本主義がキリスト教だけの産物と考えるのは少々傲慢に思える。自制の精神から勤勉へと向かわせた土壌は、日本にも伝統的にある。職業労働が隣人愛を示すという考えは、「お客様は神様です」という考えにも通ずるものを感じる。人類には、本質を見極めようとしてきた歴史がある。人間で最も重要なのは「生き方」であろう。職の達人や匠の域に達しようとする願いには、人生の意義を求める精神がある。宗教は「生き方」を示す一つの手段に過ぎない。是非ヴェーバーを読んで自分の解釈を見つけてみたい。

2. 古典派と「セイの法則」
古典派の基本思想に「レッセ・フェール(自由放任)」というのがあるらしい。市場は完全に自由放任された時に最良な状態になるという思想である。アダム・スミスの概念「神の見えざる御手」は有名である。
「市場の自由に任せておけば、最大多数の最大幸福、パレート最適は自ずと達成される。」
スミスは重商主義を批判し市場原理を唱え、自由経済がもたらす効果を哲学的に表した。これを理論的に示したのがデヴィッド・リカードだという。「経済発展を求めるならば市場を開放せよ!」とは、現在でもそのまま使われる言葉である。だた、長期的に見ると、最後には企業の利潤はゼロになり労働者の賃金は最低レベルまで落ち込むと指摘している。シュンペーターは、資本主義が機能し発展し続けるためには、イノベーションが必要であると主張したという。資本主義には、破壊的創造という精神がある。破壊対象は、封建制の基礎となるイデオロギーや伝統主義である。古典派の主張に「セイの法則」がある。市場に供給されたモノは必ず売れるという傲慢な思想である。個々の市場では、売れ残りが生じるが、広範な国全体の市場を見渡せば、需要は必ず供給と等しくなると考える。おもしろいことに、この法則を多くの経済学者があっさりと前提としたために、あちこちで理論公害が見られる。これが今日まで及ぶ経済学の病原であろう。供給過剰は起こり得ない!失業などありえない!なんと心地よい世界であろう。人間は快楽には勝てない。経済人とはおもしろい人種である。この法則は世界恐慌によって完膚までに叩きのめされた。だが、マルクスやケインズから批判されながらも、些細な修正を加えながら今も生き続けている。

3. 比較優位説と絶対優位説
リカードの「比較優位説」は経済学における最大の発見だという。国内市場のみならず、国際貿易においても、自由主義を実現すれば、双方に利益となる事を理論的に証明したそうな。一方、アダム・スミスが説いたのは「絶対優位説」である。これは、自らの得意とする分野に特化して生産を拡大するメカニズムである。先進国の間では、あらゆる面で優位な産業を持ち、それぞれが相乗効果をもたらす。例えば、15世紀頃まで、ポルトガルはイギリスに対して葡萄酒も毛織物も生産コストを抑えることができた。ポルトガルはイギリスよりも先進国だったのである。こうなると、後進国は貿易をする材料がなくなって分業が成り立たない。対して比較優位では、絶対的な生産費ではなく、比率を比較し、双方が相対的に有利な財の生産に特化することによって、自由な貿易が双方に国益をもたらすと考える。サムエルソン博士はその著書「経済学」の中で「比較優位」の合理性を弁護士の例で説明しているという。それによると、弁護士として有能だがタイピストとしても有能な弁護士。はたして、この弁護士はタイピストを雇って分業するべきか?雇わずに自らタイピストの仕事もやった方が儲かるか?答えは雇うべき。敏腕弁護士の報酬はタイピストの給料よりもはるかに高いので、弁護士に専念した方がより多くの報酬を得ることができると説明している。

4. ケインズ理論
世界恐慌によって、ケインズ理論は必然的に生まれたと言っていいだろう。市場のメカニズムが機能不全に陥った場合、国家の経済介入も已む無しという風潮が生まれた。セイの法則を信奉する古典派が「供給」を主眼にしているのに対して、ケインズ理論では「需要」が主眼となる。つまり、需要がないところに供給しても商品が売れるはずがない。逆に言うと、無理やり需要を創出すれば、供給が増えるということである。これが有効需要の原理である。したがって、その主な政策は有効需要の創出となる。この理論で成功したのがヒトラーで、アウトバーンを造り軍事拡大を推し進め無理やり雇用を創出した。ケインズ理論では、ルーズベルトのニューディール政策を思い浮かべる人も多いだろう。この政策がどこまで機能したかは意見の分かれるところである。本書は、ニューディールを中途半端な政策で、むしろ第二次大戦が後押しした結果だと見ている。ちなみに、アル中ハイマーは第二次大戦に引き込んだのもニューディール政策の一環だと見ている。ここで注目すべきは、ケインズ自身が公共事業の中身はなんでも良いと述べたというのである。つまり、ピラミッドでもええのだ。ここにケインズ理論の弱点がある。ケインズ理論を最初に実践した政治家はピラミッド造りに励んだ古代エジプトの大王様ということか。ケインズ理論の落とし穴は、「クラウディング・アウト(締め出し)」であり、インフレであるという。貨幣価値は一定であると考えインフレを無視した結果、生産力不足だけでなく、資金不足も有効需要の原理が通用しない状況になる。人々が不景気で安定志向になると、貯蓄は証券に変えられず投資の効率性を失う。公共投資のために市場の資金を国が吸い上げると、民間企業への貸し出しが減る。公共投資にともなう資金需要増が利子率を上昇させ、民間の設備投資の意欲を削ぐ。そして、公共投資による民間締め出しが起こる。本書は、古典派は需要に対する研究が足らなかったが、ケインズ派は供給に対する分析が足りなかったと指摘している。政策で無理やり有効需要を創出しても、その規模が生産力を上回るインフレを引き起こすのであれば効果がない。ケインズ経済学は、完全雇用を達成する前に深刻なインフレに見舞われた。景気刺激策として国が有効需要を創出しても、それが元で価格上昇を招くのであれば、商品の国際競争力は失われる。そして、より安価な海外製品が市場に流入し輸入超過を招く。有効需要の増分は輸入増で相殺され国内生産は締め出しをくらう。そして古典派の勢力の復活を見る。いまだに、「自由放任主義」と「有効需要創出」の論争は決着を見ない。そもそも、対立しなければならないところに経済学の根深い病魔がるように見える。

5. 誤解されたマルクス主義
マルクスの「疎外」とは何か?資本主義は巨大な機械と化し、そこに組み込まれた人間は、無力感に絶望して「疎外」感を味わう。そこで、資本主義を批判するマルキストや左翼は「疎外」という言葉を連呼した。しかし、マルクスが指摘した「疎外」とは、社会現象には法則性がある事を主張しただけだという。
「経済、社会、歴史には、それを動かす一般法則が存在し、人間にはこの法則を操作する力などない。」
なるほど、経済原理の法則性には人間は無力ということか。資本主義を批判したところで、社会主義にも経済法則がある。市場では、価格も需要と供給によって自然に決定される。これがマルクスの本質だという。おいらは「マルクス = 社会主義」という印象を持っていたが、経済学における「疎外」とは、市場原理の本質を語っているようで、むしろ資本主義に近いように思える。ただ、マルクスがこれほどの発見をしたにもかかわらず、マルキスト達はそれに気づいていないと指摘している。その証拠に、ソ連こそ非マルクス政策を進めたという。ソ連は、経済法則を無視して計画性のない計画経済で国を滅ぼした。しかも、経済活動の生命線であるゼロ金利によって追い討ちをかけ、利子が発生しないから未払いが蔓延する。ものは作られず、仮に作られたとしても流通しない。在庫が残ったところで、利子が減るわけでもなく給料が減るわけでもない。こうして見ると、日本の官僚はマルキストと同じに思えてくる。ただ、日本の経済力も捨てたもんじゃない。崩壊せずになんとか耐えている。経済政策をも経済力が凌駕しているということか。ただし今のところは。日本の企業は政治を信用せずに自ら防衛策を実施している。企業戦略で重要な情報戦略でさえも、自前でやってきた伝統がある。

6.官僚制は腐朽する
ヴェーバーは官僚制について鋭い考察をしているようだ。本書は、もしヴェーバーが生きていて、日本の官僚制を目の当たりにしたら、こんなに凄いサンプルはないと随喜するに違いないと語る。学校教育では、日本の官僚制は明治時代に、西洋の官僚制をモデルにしたと教わった。そのモデルはドイツであるが、当時のドイツの官僚制は手本にできるほどの段階ではなかったという。むしろ、日本の官僚制の手本は中国の科挙であろう。科挙の制度は、高級官僚をペーパーテストで募集する仕組みである。奈良時代に一度輸入され、風土に合わず平安時代に廃止された。儒学を重用した徳川幕府でさえ、科挙には見向きもしていない。ところが、明治時代になって突如導入した。科挙の弊害というのは恐ろしく根深いものがある。中国で科挙が生まれたのが隋代で600年頃。そして、制度として完成したのは宋代で960年頃。気が遠くなるほど時をかけて築いたにもかかわらず、手の施しようもないまま腐敗し、ついに廃止されたのが1905年。その間、実に1300年もかかっている。それに引き換え日本では100年で見事に科挙を再現してしまった。科挙の求めるところは、身分に関係なく誰でも公平に官僚への道が開かれる仕組みである。ただ、公平性の美しさには罠が潜む。貴族制度が蔓延る社会で有用であっても、貴族が一掃された平民社会では逆に弊害となる。つまり、ペーパーテストでしか官僚を補充できない。アメリカでは、大統領が変われば一斉に高級官僚も総入れ替えとなる。そして、民間で叩き上げられ、功績が認められると登用もされる。日本では一度ペーパーテストに合格すれば生涯保証される。そして出世にしか興味のない集団と化し、志も良識もない官僚を大量生産してしまった。そう言えば、日本の高級官僚は宦官のようになってしまったと発言した某都知事がいた。決まったレールを走るように飼い馴らされた人間は、現実適応能力がなく危機に対処できない。絶対主義時代ヨーロッパにも家産官僚制があった。国家のものは王のもの、王のものは私のものと思っている家産官僚は、賄賂と給料の区別もつかない。日本の官僚は、国家の財産は納税者のものという意識すらない。本書は次のように語る。
「残念ながら、日本には、やれ「ケインズは死んだ」だの、「古典派は古い」だのと聞く耳を持たない輩が多い。実際、どちらの処方箋も日本では上手く作動しないが、その原因は「理論」にある訳ではない。両派が研究の対象としている資本主義と、その精神がないからである。」
役人が無能で汚職ばかりしている国ではケインズ政策は作用しない。ましてや、役人が勝手気ままに市場に干渉するようでは古典派の理論も作用しない。経済理論以前に、まず腐朽した官僚と家産官僚制を駆逐することであろう。官僚の仕事はただ一つ、不公平のない社会システムの構築である。しかし、人間がつくるものは自らを優遇する。日本で三権分立が機能していると信じている人は少ないだろう。官僚が唱える中立独立は自ら運営するシステムを言う。官僚が保護した産業ほど競争力を失い廃れていくとはどういうことか?人間は社会からの存在意義を失うことを恐れる。それ故に権威を誇示する。だが、権威の誇示は皮肉にも自らの存在意義を失う結果を招く。

7. 資本主義は何によって没落するか?
シュンペーターは、資本主義はその成功ゆえに没落すると述べたという。資本主義を維持するためには革新が必要である。しかし、小企業は大企業に吸収され、更に巨大企業となり、英雄的企業はいずれなくなるだろうと予測する論者も多い。やがて、巨大企業内でできる官僚的な経営者によって革新が止まる。巨大化した企業は、工場や従業員を把握することができなくなり、実体すらつかめなくなる。巨大企業の所有者も、何を所有しているのかを実感できなくなる。かつては、私有財産に愛着を持ち、企業や仕事に情熱を持って資本主義は発展してきた。巨大企業の下では、所有そのものに魅力がなくなり、私有財産も崩壊していくのだろうか?

1 コメント:

アル中ハイマー さんのコメント...

本書の中で、特に注目したい書籍をメモしておこう。

1. 日本で最もノーベル経済学賞に近い人物として、森嶋通夫教授が紹介される。
「思想としての近代経済学」森嶋通夫 著

2. 経済学に対するヴェーバーの貢献には興味がある。
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」マックス・ヴェーバー 著

3.「価値と資本」J.R. ヒックス 著

コメントを投稿