2026-09-06

"ロートレアモン 越境と創造" 石井洋二郎 著

ロートレアモンとは、どんな人物か。フランスの詩人でアルチュール・ランボーと並び称されるそうな。どんな人間にも、その生き様には生きた時代と生きた土地が刻印される。芸術家ならば尚更。但し、その名声が死後に訪れることはよくあること。今、「ロートレアモン全集」へ向かう衝動は抑えられそうにない。著者石井洋二郎氏の郎訳で...

本名イジドール・デュカス。彼は、フランス人の移民を両親に持ち、南米の都市モンテビデオに生まれたという。13歳で大西洋を渡り、両親の故郷フランス南西部のタルブとボーで学び、南米への一時帰国を経て、21歳でパリへ上京。大都会の地に立って「マルドロールの歌」を匿名で発表したとか。
そして、その完全版をロートレアモン伯爵の名で出版しようとするも、24歳の若さで謎の死を遂げる。彼の人生は、国家の越境に留まらず、言語的にも文化的にも越境に彩られたものだったという。
越境に創造を掻き立てるものがあるのか。思えば、人生とは、何かを乗り越えることの連続。本書に「越境 = 創造」という図式を見て取る...

デュカスの代表作に、「マルドロールの歌」と「ポエジー」の二つが挙げられるらしい。前者はロートレアモン伯爵の名で、後者は実名で発表されたという。
「マルドロールの歌」には、標準的なフランス語から逸脱した奇妙な言い回しや変則的な破格構文が散見されるとか。フランス語とスペイン語の混在とするのが合理的な見方だが、バイリンガルだからこそ、どちらも完璧な言語になりえない。そもそも完璧な言語なんてありえるのか。あまり完璧な言い回しを求めると、芸術性そのものが損なわれる。
作風では、皮肉を超越した悪魔じみたものがあるらしい。わざとらしい善行、幼稚な思い上がり、滑稽な風潮を攻撃し、憂鬱、悲嘆、苦悩、絶望、沈痛なうめきを歌い上げる。ダンテが天国への道を、地獄や煉獄から導いたように。斯くして、残虐な暴力が炸裂する悪夢さながらの光景とは。デュカスは、不可解主義哲学者と称号されとか。そして、こう書簡したという...

「私はミツキェヴィチ、バイロン、ミルトン、サウジー、A・ド・ミュッセ、ボードレール、等々がしたの同じく、悪を歌いました。もちろん、いささか調子を誇張しましたが、それというのも、もっぱら読者を打ちのめしてその治療薬として善を欲するよう仕向けるために絶望を歌いあげる、あの崇高な文学の方向性に沿って、新たなものを生み出そうとしてのことでした...」

人間ってやつは、自分を誤魔化しながら、自己完結的に生きているところがある。真理だけでは心もとない。詭弁や欺瞞にも頼らなければ、現実を生きてゆくのは難しい。経験を積み、歳を重ねるほど...

「私は置き換える、憂鬱を勇気に、疑惑を確信に、絶望を希望に、悪意を善に、不平を義務に、懐疑を信仰に、もろもろの詭弁を平静な冷徹さに、そして傲慢さを謙虚さに...」

一連の二項対立は、官能ロマン主義の遺産か。悪を善にすり替えられるなら、なんでも正当化できる。いや、いつも悪は善を装い、いつも両者は結びついてきたではないか。もはや真理は存在しないのか。いや、永遠に到達できないからこそ崇高となる。二項対立間での越境は危険だ!対立すべく意識が同化していくと、自己存在すら曖昧になっていき、自己同一性が危機へ招き入れる。まさに、現代病そのものだ!

ところで、「ロートレアモン伯爵」という名は、どこからくるのだろう...
一般的な説によると、大衆小説家ウジェーヌ・シューの小説『ラトレオモン』に由来するそうな。ラトレオモンは架空の人物ではなく、17世紀に実在した騎士だとか。黒馬にまたがる大男で、野性的なイメージ。
ただ、伯爵の称号は持っていない。ラトレオモン伯爵を名乗るつもりが、表紙の誤植でロートレアモン伯爵になってしまったという説もあるとか。デュカスも伯爵の称号を持っていない。貴族という身分への越境か。尤も、人間には変身願望なるものがある。自分の生きる世界とは違う人間になりすまそうと、別人への越境を目論んだのか。そうでないと詩人になるのも難しいのか...