2026-09-27

"夢遊の人々" Hermann Broch 著

本書は、三部からなる長編小説。
1888年、1903年、1918年を時代背景に、ロマン主義、無政府主義、即物主義へと価値観が移り変わっていく様を物語る。ヘルマン・ブロッホ流の価値崩壊説に至る道筋といったところか。
いずれの物語も、現実と非現実を生きる二重人生。精神分裂症に、現実逃避癖に、集団依存症に、自己陶酔症に、自我肥大化妄想に... 夢遊病患者のオンパレード!
尚、菊盛英夫訳版(中央公論社)を手に取る。

「大衆とは個人の混迷状態の所産!」

価値観や世界観といったものは、それぞれの時代で育まれる。集団社会には絶対的な合理性にまで崇められたものまで現れ、これを正義などと呼び、これにそぐわない者は国賊呼ばわれ。過去の正義は秘密警察に喰われちまったとさ。
では、現在の正義はどうか。ソーシャルメディアの検閲官どもに喰われてりゃ、世話ない。そして、時代の流れが立場を逆転させていく...

絶対的で拘束的なものから解放を求めるのは、いわば自由精神の作用。なにも、価値の崩壊が悪とは言えまい。新たな時代認識が求められれば、過去の知識や経験が邪魔をする。時代の合理性は次の時代では非合理性となり、新たな創造は既存の破壊によってもたらされる。
そして、昔は良かった!今どきの若者ときたら... などと嘆くのも、人間の性(さが)。過去の栄光に縋り、昔の武勇伝を誇張するのも、その類い。価値観が崩壊するとともに、老害癖を増幅させていく...

さて、物語を追ってみよう...

第一部は、青年将校の軍服ロマン物語。
因襲的な結婚を尻目に情事に走っちまうのは、まさにロマン。いや、夢遊!
聖母に焦がれるのも、娼婦に焦がれるのも同じこと。小悪魔に未練たらしいのは、男の甲斐性よ...

第二部は、帳簿にミスがあるとケチをつけられ、クビになった会計係の物語。
こちらから辞表を叩きつければいいものを、組織に従属する立場は辛い。大袈裟に言えば、会計職は資本主義経済を根底から支えている立場で、国家主義や官僚主義の象徴的存在とも言える。
組織から解放されれば、気兼ねなく批判できる立場となり、自由思想家の仲間入り。存続するものをことごとく批判にかかれば、無秩序な世界を求め、アナーキーな性格を覚醒させていく...

第三部では、伝統的な価値をロマン主義で堕落させ、無政府主義で崩壊させれば、観念的な価値を見失い、物質的な損得勘定や利害関係しか見えなくなる。そして即物主義へ邁進!
自由は、夢想的な自由から完全な無秩序へと肥大化し、ついに主体的な意志までも失わせる。かくして、非現実を現実に引き戻し、会計帳簿は人生帳簿となるだろうか...

なるほど、人間は古くから仮想空間を生きてきた。いわば夢遊空間を。それは貨幣の発明に始まり、今や、すべての価値は貨幣換算される。人間関係も、人の能力も、人の命ですら。そして、貨幣そのものが電子化され、世界を夢遊していく。
客観的な価値をいくら磨こうが、人間の夢遊癖は如何ともしがたい。人間誰しも保守主義!自分の居場所を確保するのに必死ときた。夢遊人生万歳!夢遊世界万歳!

そこで、ブロッホは弁証法的な思考を要請していくる。哲学が夢遊癖を救済してくれるというのか。
人生哲学は、自問することで磨かれる。つまり孤独と相性がいい。孤独の克服となれば、人生のハードルはますます高くなる。目覚めている人ほど不安が大きいのではないか。いや、哲学することもまた夢遊癖の類いやもしれん...

「人間の行動の基準となるのは、つねにただ真理を予感し感知することだけ...」

直観主義的な観念論も、心理主義的な観念論も、「真理感情」なるものを前提にするという。
しかしながら、この感情を証明する術はない。原子論を試みても、還元主義で考察しても答えは見つからず、ただ真理めいたものを感じるだけ。せいぜい弁証法的な思考で近づこうとすることぐらい。となれば、気分の問題か...

病める者ほど幸せやもしれん。少なくとも自分の殻に閉じ籠もることができる。健全に籠もるには、自分の世界を持っていなければ。独自に演繹的な思考を繰り返し、人の目を気にせず、自律的に振る舞うことができれば、集団に合わせる必要もあるまい。自己否定に陥ってもなお愉快でいられるなら、真理の力は偉大となろう。但し、よほどの修行を要するであろう...

「固定して動かぬことで独自の論理性を止揚して論理的無限性の限界に突きあたるのは、純粋な弁証法的かつ演繹的理性、自律的となった理性なのである -- この自律的となった理性は根底的に悪であり、それは体系の論理性を、したがってまた体系そのものを止揚してしまう。それは体系の崩壊とその決定的分裂を導入する。どんな価値体系にも、合理的なものと非合理的なものとが相互に浸透し合ってぎりぎりの極限に達する一道程が存在し、また双方の悪が働かなくなり、目につかなくなり、無害になるような飽和した一均衡状態が存在する -- 絶頂と完全な様式の諸時代がそうだ!」

2026-09-20

"群衆の心理" Hermann Broch 著

本書は、自伝の形をとっている。それは、生きた時代を実直に物語ったもの。
ヘルマン・ブロッホの生きた時代とは、ヒトラーに象徴されるファシズムが台頭していく時代、群衆が熱狂していく中で世界が崩壊していく時代、宗教はもとより、形而上学も、哲学も、無力感に襲われる時代。こうした社会状況を「うつけた薄明状態」と形容する。まさに、人間社会は夢まぼろしのごとくなり!
ブロッホは、群衆狂気論をぶちまけながら、民主主義とは何かを問い、その在り方を問い、そもそも存続すべきかを問う...
尚、入野田真右、小崎順、小岸昭訳版(叢書・ウニベルシタス)を手に取る。

主な政体には、君主制、貴族制、民主制の三つがあり、現在、民主制が最善で君主制が最悪とされる。だが、アリストテレスは、むしろ君主制が最善で民主制こそが最悪というようなことを、弟子たちに漏らした。弁論術で荒稼ぎするソフィストどもが横行すれば、都市国家アテナイの有り様を嘆かずにはいられなかったのか。ヒトラー政権もまた、当時、最も民主的とされたワイマール共和国から生まれ出た。
君主制はすぐさま僭主制と化し、貴族制は最優秀者たちの統治から固定された階級による支配へと移行し、民主制もまた衆愚政治と化す。単独支配、少数支配、多数支配のいずれの形を取ろうと、人間の本性は相も変わらず怠惰と見える。

そもそも民主主義とは、それほど高尚なものなのか。民主主義と兄弟のように扱われる自由主義にせよ、これらと手を組む資本主義にせよ、柔軟性においては少しばかり有利であろうか。民主主義の抱える問題と社会主義や共産主義が抱える問題とでは、どちらが深刻かと問えば、やはり比較的マシであろう。ただ、全体主義のように強制されるべきものなのか...

「民主主義国家とは、常に妥協の産物!」
それは、公民権を認めること、人権を保証することに始まるという。
おそらく、完全な民主主義なるものは存在しないだろう。それは民主主義に限らないが...
民主主義ってやつは、基本原理は同じでも、その在り方となると実に多様。ホッブズやロックが唱えた自然権や自然法に立ち返り、常に見直してゆかねば... やはり怠惰な人間には辛い。民主主義とは、人類には高尚すぎる代物なのか...

ブロッホはユダヤ人を両親に持ち、ゲシュタポに逮捕され、辛うじてアメリカに亡命し生き延びた。彼は小説家としても知られ、読者に働きかけることによって、文学が歴史の流れを変えられるかと問い掛ける。だからといって、小説家に人類を救え!などとふっかける気にはなれない。
大衆が狂気を克服するとなると、昔から政治や報道の領域とされてきた。だが、それを率先して扇動するのも両者。となれば、頼みは個人か。それこそ民主主義というもの。しかし現在、ソーシャルメディアの肥大化によって、個々が扇動の渦に飲み込まれていく...

「あらゆる真理は合理的表現を取ろうとする傾向をもつ。」
非合理的表現は、何らかの隠蔽を意図しているという。
あらゆる集団活動が、何かを教化しようとする。しかも、無意識的に。人間精神の根底には、サディスティックな享楽とマゾヒスティックな享楽が錯綜する。反ユダヤ主義の集団ですら、自らの狂気を感じ取っているだろう。群衆の狂気と個人の狂気は本質的に違う。集団の中にあれば、たとえ違和感を覚えても同調圧力に屈し、迫害を見て見ぬふり、 犯罪の黙認。しかも、正義を掲げ、過剰攻撃は過剰充足に埋もれ、犯罪意識までも消し飛ぶ。これこそ群衆心理というものか...

人間ってやつは、狂気する動物である。自称平和主義者のおいらだって、スポーツ観戦では贔屓目のチームに熱狂するし、まずいプレーにはブーイングしちまう。これが国家レベルになっても、けして戦争には熱狂しない!などという自信はない。それだけ何かに縋り、依存せずにはいられないってことだ。自立もできていないのだから。それは、イデオロギーに縋り、ファシズムにのめり込むのと何が違うのだろう...

人間の優越欲は、如何ともしがたい。相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体は、他との比較でしか自己を確認することができない。
となれば、人よりマシな立場を欲して止まない。民族優越主義、国家優越主義、イデオロギー優越主義など、すべてこの類い。
人間は自分の意見に承認欲求を抱き、同調意見によって強化する。人間は、同種で群れるのがお好き!その分、孤独を恐れる。孤独から逃れるために、陶酔感情と自我肥大といった幻覚作用を欲し、政治的な奴隷、経済的な奴隷、イデオロギー的な奴隷へと引きずり込まれる。質の高い目的意識がなければ、集団意識に簡単に飲み込まれちまう。
群衆に埋もれる方が楽か、孤立する方が楽か、どちらも大して変わらないような気もする。仮に孤独を克服できたとしても、それも一つのイデオロギーということになろう...

2026-09-13

"ロートレアモン全集" Isidore Lucien Ducasse 著

石井洋二郎氏のロートレアモン論(前記事)に触発され、彼の翻訳で「全集」を手に取る。
本書には、「マルドロールの歌(全六歌)」と「ポエジー(I, II)」が掲載される。前者が悪魔風なら、後者は誠実風。どちらも悪ふざけに見えるのは、読み手が天の邪鬼だからか...

悪の言葉にも有用なところがある。それを心得ていれば、戒めにもなろう。すべての欺瞞は善の言葉に始まり、悪用されればより厄介となる。イジドール・デュカスは、言葉の逆転現象を弄ぼうってか。
詩ともなれば、音調が整っているだけに真理めいたものを歌い上げる。そこに理屈はいらない。言葉は箴言となり、心の中にいつまでも響く。理屈を必要とする箴言は出来が悪い...

「箴言は証明されるのに真理を必要としない。推論は推論を要求する。箴言はもろもろの推論の全体を包括する法である。ある推論は箴言に近づくにつれて完璧になっていく。ひとたび箴言になると、その完璧さゆえに、それが変貌してきたことを示す数々の証拠は却下される。」

「マルドロールの歌」は、なるほど刊行を拒否されただけのことはある。
汚物にまみれ、精液をぶちまけるといった光景に、男根の奇形、膣のただれ、皮膚の腐食、梅毒みどろ... といった語のオンパレード。これで、狂信、熱狂、悪夢を歌い上げちまうグロテスクぶり。
「ロートレアモン伯爵」を名乗ったのも、変身願望の現れか。デュカスは伯爵の称号も持ち合わせていない。貴族階級への嫌味か...

「天に願わくは、どうか読者が蛮勇を奮い、ひとときは自分が読むものと同じく凶暴になって、方向を見失わず、これらの暗く毒に満ちたページの荒涼たる沼地を貫いてみずからの険しい未開の道を見出されんことを...」

一転して「ポエジー」は、希望、期待、平穏、幸福、義務を歌い上げる。
本名を名乗るのも、実は自分が誠実な人間とでも言いたいのか。「マルドロールの歌」の後では、こそばゆい!
人間を崇高で完全な存在として持ち上げ、宇宙を不完全な存在と蔑めば、詭弁のオンパレード。人間は悪を許容しない... 人間の魂に堕落はありえない... 人間の理性こそ宇宙で最も信頼に値する... などと、やはりこそばゆい!

「作者と読者のあいだには暗黙とは言えない約束事があって、それによって前者は病人と称し、後者を看病人として受け入れている。詩人のほうこそが人類を慰めるのだ!両者の役割は勝手に入れ替わっている。」

さらに、「ポエジーII」では、偉人たちの言葉を引用しながら、誠実風に書き換える。パスカル、ダンテ、ヴォーヴナルグ、シェイクスピア、ラ・ロシュフコーなど、彼らの言葉は皮肉ぶっているからこそ人間の本性を暴き、箴言や名言となる。
だが、この皮肉ぶりを誠実風に書き換えちまうと、すべてが色褪せ、言葉をのっぺらぼうにしちまう。いや、誠実ではなく誠実風であることが、逆に皮肉っぽくも、嫌味っぽくもなる。

例えば、パスカルが「人間は自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。だが、それは考える葦である。」としたのに対し、「人間は一本の樫である。自然にはこれ以上頑丈なものは見当たらない。」と人間を逞しい存在とし、「宇宙は何も知らない。それはせいぜい考える葦にすぎない。」と宇宙の存在を蔑む。パスカルのパロディ版か...

ラ・ロシュフコーが「正義への愛は、大半の人間にあっては不正に耐える恐れにすぎない。」としたのに対しては、「正義への愛は、大半の人間にあっては不正に耐える勇気」とし、人間の勇気、理性、正義といったものを持ち上げれば、やはりこそばゆい!

「詩についての判断は詩よりも価値が高い。それは詩の哲学である。このように把握された哲学は、詩を包含している。詩は哲学なしで済ませることはできまい。哲学は詩なしで済ませることができる。」

「マルドロールの歌」によれば、人間は悪魔の化身。「ポエジー」によれば、人間はいずれ神に昇華する存在。悪魔も神も似たりよったり、いずれも人間の創造物に過ぎない。誰しも、地獄より天国がお好き。その影で創造主の代弁者どもが、免罪符をちらつかせて盲信者を募り、ふんずりかえってやがる。
人間の尊厳なんぞクソくらえ!人間ってやつは、喰って排泄するだけの熱機関に過ぎない。希望も、絶望も、クソ喰らえ!

「絶望は、偏見をもっておのれの幻影を喰らいながら、物書きが神と社会の掟を大量に廃棄し、理論的にも実践的にも邪悪になるように、淡々と導いていく。ひとことでいえば、人間の尻を推論において最も優先させるのだ。おっと、こんな言葉遣いをお許しあれ!繰り返しておくが、人は邪悪になる。そして眼は死刑囚の色合いを帯びるのだ。」

2026-09-06

"ロートレアモン 越境と創造" 石井洋二郎 著

ロートレアモンとは、どんな人物か。フランスの詩人でアルチュール・ランボーと並び称されるそうな。どんな人間にも、その生き様には生きた時代と生きた土地が刻印される。芸術家ならば尚更。但し、その名声が死後に訪れることはよくあること。今、「ロートレアモン全集」へ向かう衝動は抑えられそうにない。著者石井洋二郎氏の翻訳で...

本名イジドール・デュカス。彼は、フランス人の移民を両親に持ち、南米の都市モンテビデオに生まれたという。13歳で大西洋を渡り、両親の故郷フランス南西部のタルブとボーで学び、南米への一時帰国を経て、21歳でパリへ上京。大都会の地に立って「マルドロールの歌」を匿名で発表したとか。
そして、その完全版をロートレアモン伯爵の名で出版しようとするも、24歳の若さで謎の死を遂げる。彼の人生は、国家の越境に留まらず、言語的にも文化的にも越境に彩られたものだったという。
越境に創造を掻き立てるものがあるのか。思えば、人生とは、何かを乗り越えることの連続。本書に「越境 = 創造」という図式を見て取る...

デュカスの代表作に、「マルドロールの歌」と「ポエジー」の二つが挙げられるらしい。前者はロートレアモン伯爵の名で、後者は実名で発表されたという。
「マルドロールの歌」には、標準的なフランス語から逸脱した奇妙な言い回しや変則的な破格構文が散見されるとか。フランス語とスペイン語の混在とするのが合理的な見方だが、バイリンガルだからこそ、どちらも完璧な言語になりえない。そもそも完璧な言語なんてありえるのか。あまり完璧な言い回しを求めると、芸術性そのものが損なわれる。
作風では、皮肉を超越した悪魔じみたものがあるらしい。わざとらしい善行、幼稚な思い上がり、滑稽な風潮を攻撃し、憂鬱、悲嘆、苦悩、絶望、沈痛なうめきを歌い上げる。ダンテが天国への道を、地獄や煉獄から導いたように。斯くして、残虐な暴力が炸裂する悪夢さながらの光景とは。デュカスは、不可解主義哲学者と称号されとか。そして、こう書簡したという...

「私はミツキェヴィチ、バイロン、ミルトン、サウジー、A・ド・ミュッセ、ボードレール、等々がしたのと同じく、悪を歌いました。もちろん、いささか調子を誇張しましたが、それというのも、もっぱら読者を打ちのめしてその治療薬として善を欲するよう仕向けるために絶望を歌いあげる、あの崇高な文学の方向性に沿って、新たなものを生み出そうとしてのことでした...」

人間ってやつは、自分を誤魔化しながら、自己完結的に生きているところがある。真理だけでは心もとない。詭弁や欺瞞にも頼らなければ、現実を生きてゆくのは難しい。経験を積み、歳を重ねるほど...

「私は置き換える、憂鬱を勇気に、疑惑を確信に、絶望を希望に、悪意を善に、不平を義務に、懐疑を信仰に、もろもろの詭弁を平静な冷徹さに、そして傲慢さを謙虚さに...」

一連の二項対立は、官能ロマン主義の遺産か。悪を善にすり替えられるなら、なんでも正当化できる。いや、いつも悪は善を装い、いつも両者は結びついてきたではないか。もはや真理は存在しないのか。いや、永遠に到達できないからこそ崇高となる。二項対立間での越境は危険だ!対立すべく意識が同化していくと、自己存在すら曖昧になっていき、自己同一性が危機にさらされる。まさに、現代病そのものだ!

ところで、「ロートレアモン伯爵」という名は、どこからくるのだろう...
一般的な説によると、大衆小説家ウジェーヌ・シューの小説『ラトレオモン』に由来するそうな。ラトレオモンは架空の人物ではなく、17世紀に実在した騎士だとか。黒馬にまたがる大男で、野性的なイメージ。
ただ、伯爵の称号は持っていない。ラトレオモン伯爵を名乗るつもりが、表紙の誤植でロートレアモン伯爵になってしまったという説もあるとか。デュカスも伯爵の称号を持っていない。貴族という身分への越境か。尤も、人間には変身願望なるものがある。自分の生きる世界とは違う人間になりすまそうと、別人への越境を目論んだのか。そうでないと詩人になるのも難しいのか...