2007-08-26

"クラウゼヴィッツの戦略思考" ボストン・コンサルティング・グループ 訳

クラウゼヴィッツはプロイセン国の軍事学者でありナポレオン戦争を生きた人である。プロイセン国は戦争に負けるのだが、軍事論を古典的名著「戦争論」に記した。そういう意味では敗者から見た自己変革論である。こういう背景はアル中ハイマーの好むところである。
軍事論と言えば、東洋の孫子、西洋のクラウゼヴィッツと評される。アル中ハイマーは血気盛んな頃「孫子の兵法書」やら「戦争論」を読んだものである。
「戦争とは、他の手段をもってする政治の延長にほかならない。」
とは、有名な格言である。これは、「戦争論」が戦争を政治の道具と表したものと解釈されたため非難されてきた原因でもある。
本書は、よくありがちな戦争からビジネス論を学ぼうという主旨であるが、ハウツウものではない。「戦争論」は時代背景に照らし合わせて、まさしく現代と同じ激動の時代を生き抜くための意思決定論を磨くものであるとして、ボストン・コンサルティング・グループが独自に編集したものである。
しかし、アル中ハイマーにはそんなことはどうでもよい。単にクラウゼヴィッツの名前を見て懐かしさを覚え「戦争論」を読み返したかっただけなのである。ただ、「戦争論」はあまりにも重い。そこで手軽に本書を手にした。少々目的を異にするが、ついでに、マネジメントの勉強ができれば一石二鳥というものである。

おいらが「戦争論」を読んだのは、多分学生時代だから20年前のことである。当時は、ナポレオンの本も読んだことを記憶している。それもジョゼフィーヌへのラブレターばかりたっだような記憶しかない。困ったものである。
本書を読んで「戦争論」の印象が多少違っていた。本書の目的は、ビジネスとして活用できる部分を抜き出そうとしているところから、多少の印象が違っても不思議はない。そこには戦略に潜む不確定性をセットに考えなければならないことが語られる。戦争で起こる事象は、常に不確定であることは言うまでもない。自然現象を対象とした学問には理論の影響力は大きいが、人間の活動を対象とした理論には、しばしばいらいらさせられる。社会現象や経済現象がそれである。戦略を実行することは、人間を理解する必要があり、まさしく行動ファイナンスのようなことが記されている。

本書は、一般的に戦争からビジネス論を語られることを好まないと述べている。いきなり本書の主旨と矛盾から始まる。そもそもビジネスと戦争とは違う。企業間の競争を「戦い」と表現することがあるが、それはジャーナリスト特有の誇張であるという。確かに、ビジネスと戦争には共通する要素が多いが、それぞれの原動力は本質的に融和しえないものである。もたらす結果もまったく異なる。戦争の図式をビジネスにそのまま当てたいと思う人も多い。戦国武将をモデルにした指南書をよくみかけるのは、その証拠である。図式には必ず歪が生じる。それは互いに対応しない独自の要素が含まれるからである。
しかし、戦略というただ一点にのみに着目するのであるならば、戦争論の検討は意義深いと言い訳している。
そんなに長々と言い訳しなくても、アル中ハイマーならば、そこに哲学があるからと一言で片付けてしまう。手法や戦術は時代とともに廃れるが、哲学の時間軸は長い。時代の流行があっても人間の行動は、そんなに短い時間で傾向を変えるわけではない。もし急激な変革が起こっても、そこには物理法則のごとくエネルギーの蓄積がある。アル中ハイマーはのんびり屋なので哲学ぐらいゆっくりとした時間でないと悪酔いするのである。

戦略思考というからには、戦術と戦略の違いぐらいは触れておこう。
「戦争論」では、その違いをこのよう記している。戦術は、個々の戦闘を計画し指揮すること。戦略は、戦争を勝利するために戦闘を束ねること。戦術と戦略は区別しなければならないが、そこに一貫性がないと成り立たない。戦争を始める前には事前準備が欠かせない。とは当り前のように思われるかもしれない。しかし、戦争前に計画を練ることは大変危険であると主張する。戦場では、こちらからは制御できない敵の意思や偶然、過ちといった不確定性に支配されるからである。
ドイツの軍規にこのように記されているらしい。
「戦争指導は一種の芸術であり、科学的根拠を元に創造性を自由に発揮できる活動にほかならない。」
戦略は常に現場と共にあるのは言うまでもない。だからと言って、事前準備がいらないと言っているわけではない。戦略にはある程度融通が必要であると言っているのである。戦争では、戦略的意思決定の方が、戦術的意思決定よりも、はるかに強い意志を要する。戦術ではその瞬間の柔軟性が重要で、戦略では比較的ゆっくりと時間が流れる。よって、戦略では、疑念や反対意見をめぐらせたり、他者の意見に耳を傾けるゆとりがある。過去の失敗をふと思い出して後悔する時間すらある。そして、そのような想像や推測から自信も揺らぐ。こうした根拠のない恐怖にとらわれ、行動すべき時期を逸してしまう。
現在においても、不確定性を持った社会での戦略が失敗したからといって、その責任者を責めることができるだろうか?もちろん分析による原因究明は必要である。どんな成功者でも、失敗経験があるはずである。失敗経験がないと発言する者は、もともと不確定性の中に身を置いていないか、あるいは、失敗を自覚できないでいるかである。責任を逃れるために何もしないでいる者は一番の大罪人である。

おいらは、戦略論を議論する時、いつも疑問に思うことがある。
何のための戦略か?戦略の上の次元にある目的は何か?ビジネスであれば売上増加やシェア拡大は戦略目標である。収益性や株価上昇が高次の目的とは到底思えない。いったい何のためにビジネスをやっているのだろうか?何のために企業が存在するのか?
本書を読んでも、その答えが得られるものではない。その答えは一般的に得られるものではない。その場に応じて考えるものなので書物などに期待などしない。もし、そんな書物があるとしたら布教本であるに違いない。
疑問を高めていくと、人間は何のために存在するのか?などと宇宙に放り込まれる。
戦略論の高次の目的とは、一般に言われるビジョンということになるのだろう。社会貢献など、それらしいことを掲げる組織をよく見かける。しかし、そのビジョンはビジネス戦略の延長上にないと意味がない。本書では、戦争は何のために行うのかという高次の政治目的がなければならないと語る。「戦争論」では戦争は政治活動の手段であると語られるからである。
ビジネスにおける戦略で最も重要なのは継続だろう。高次の目的がはっきりしないと継続性も難しい。何事も継続するためには高次の目的が存在しないと難しいのである。

本書を読み終わって、どうも中途半端である。「戦争論」を理解したければ、地道に原書を読むべきである。それには相当な勇気が必要である。今、「戦争論」が目の前であざ笑うがごとく構えている。クラウゼヴィッツが、お前のような酔っ払いが読むには100年早いぜ!と言わんばかりに。
畜生!アル中ハイマーには焼酎を舐めながら傍観するしかない。

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