2007-08-05

"新しい金融論" Joseph E. Stiglitz & Bruce Greenwald 著

今日は二日酔いで朝から気持ちが良い。財布の中身はすっからかん。何軒はしごしたかは記憶がない。ただクラブ活動が楽しかったことは、なんとなく覚えている。恋愛論を闘わせたような気がする。男と女の関係は信用の駆け引きということらしい。いや、金の切れ目が縁の切れ目である。
本書は、金の世界に信用をブレンドしたようなネタである。

金融論と言えば、金利や為替レート、支払準備率など貨幣量をめぐった議論が多い。ここ数年、経済学の書物を見ていると「信用」というキーワードを目にするようになった。経済の活性化とは流通量で決まる。その中で行われる取引は信用無しでは成り立たない。ド素人のアル中ハイマーにはごく自然のように思えるのだが、これが新しいパラダイムなのだそうだ。こうしていくつかの本を放浪しているうちに本書にたどり着いた。

本書を取り上げた理由は、信用の役割を取り入れた理論をネタに、著者の一人 J.E.スティグリッツが2001年にノーベル賞をとっていることである。つまり、この著者が言い出しっぺだと思ったからである。
アル中ハイマーにはノーベル賞の経済学部門というのは胡散臭いイメージがある。これもLTCMの影響だろう。その場の状況を一定の原理に無理やり当てはめるかのように、効用関数やら生産関数やらを持ち出して、いかにも立派そうに見えるからである。これでは、たかだが酔っ払いごときがノーベルさんに対して失礼である。本書によって少し頭をほぐしてくれることを期待するのである。

それにしても2001年とは歴史が浅い。停滞していた経済学がようやく進化し始めた時代なのだろうか?本書は、一般的なエコノミストの主張や経済政策に対して批判する立場をとっている。こうした態度は、アル中ハイマーのような天の邪鬼にはストレス解消におもしろく読めるのである。
四半世紀前にマクロ経済で訓練を受けたエコノミスト達は、信用という変数に注意を怠ってきたという。恐ろしいことに現在の経済界を牛耳っている世代である。今日でも、多くのマクロ経済学の教科書で「倒産」という用語が登場しないと指摘している。笑えると共に、ド素人でも勉強するにはいい時代に生きているかもしれない。

本書は、金融政策の効果について疑問を呈している。
そもそも金融政策とは、直接銀行に働きかけ経済全体への波及効果を期待するものである。財務省短期証券の金利や貸出制約の調整により起こるメカニズムである。本書は、そのような効果を全面否定するものではない。むしろ、従来の経済学が指摘する効果は、経済が正常な時は効果を生むと言っている。しかし、金融政策を必要とする場面は、経済危機や激しいインフレに直面している時である。
金融理論の伝統的考え方には、経済の誘導はひとえにマネーサプライの操作であり、マネーサプライと名目所得との間には単純な関係がある。つまり、マネーサプライを増減にGDPも比例するというものである。
アル中ハイマーも一般教養で、特定の金利である財務省短期証券金利や公定歩合の調整は金融政策として有効であると習ったものだ。
本書は、経済の異常時には、マネーサプライと信用との関係、あるいは財務省短期証券金利と貸出金利の関係は弱くなると指摘している。そして、貨幣量を調整するような金融政策の有効性は著しく低下することを警告している。本書を読んでいると、規制政策と規制緩和政策のバランスが必要に思えてくる。
多くのエコノミストは金融の量的緩和政策を強化することがデフレ脱却の有効政策であると主張する。酔っ払いは、マスコミが主張する「規制緩和」や「自由化」という言葉になんとなく踊らされてしまう。

アル中ハイマーは金融庁の存在に疑問を抱いている。
日銀があるのになぜ独立した金融庁という機関が存在するのだろう?マクロ経済を担うのが日銀だとすれば、金融機関を監視する役割が金融庁と認識している。しかし、本書は、マクロ経済に対する金融政策は、銀行業システムに与える影響とその振る舞を一緒に考慮しなければならないと主張している。
ということは、マクロ経済と銀行業の監視が独立した機関で管理されている日本のシステムはヤバイ?本書の指摘が鋭いと感じるのは、ノーベル賞の重みかもしれない。

ここで、アル中ハイマーは単純な疑問にもぶつかる。
なぜ銀行は破綻するのだろう?
世界中で、政府は経済の他のセクターにもまして金融機関を規制している。銀行システムの破綻は社会不安や経済の混乱を起こすからである。よって、必然的に政府の費用により銀行救済がなされる。本書は、こうした状況は、不適切な貸出慣行が根源であるという。まったく簡単な答である。世間は過度なリスク負担をもたらし、詐欺的行動へと発展もするだろう。最終的に国民を犠牲にした銀行による略奪となる。
では、なぜ銀行は過度に危険な貸出を行うのだろうか?
ハイテク業界のベンチャー系への出資額など信じられないことを時々見かける。はたして事業内容を明確に審査しているのだろうか?この疑問への回答も、本書はあっさりと片付ける。銀行が被る私的費用が、社会的費用よりも小さいというのが、その答えである。これは、税金で生きている官僚全てにあてはまることである。銀行は官僚なのか?銀行が破綻すると国が破綻するぞ!と脅迫しているようなものである。銀行の純資産が臨界水準を下回ると、銀行はリスク回避型からリスク愛好型に変貌するのだそうだ。自己資本比率規制は、リスク回避姿勢を保つために多少は役立つのだろうが、実際には、社会的リスクが私的リスクを上回るようなことを完全に防ぐことはできないという。このような市民をアル中にさせる経済システムを考えた連中はある意味天才である。

本書は過去の金融政策についても考察している。
特に、東アジア危機に対する考察はおもしろい。
1970年代から1980年代の東アジア各国は急激な経済成長を果たしたが1990年代に破綻する。これは、発展時には外国からの資金が洪水のように流入し、その反動で突然巨額の流出が起こった結果による経済失速である。これが金融危機へと向かう。
その時の米国財務省やIMF、また多くの外部アドバイザーの東アジアにおける助言には驚かされる。自己資本の乏しい銀行を速やかに閉鎖するように誘導し、インドネシアでは16の銀行閉鎖と、その後の銀行閉鎖の予定を公表し、更に預金者の保護もなされないと発表したという。言うまでもなく取付騒ぎが起こる。こうした助言をタイも忠実に受け入れた。一方、韓国とマレーシアは無視した。当然だろう!
IMFは半導体産業が抱える過剰設備などの資産を売却すべきであると主張したが、韓国はこれを無視し景気回復の原動力にしている。
日本についても少し触れている。
本書の著者達は、企業再生に公的資金を使うべきではないと論じたという。しかし、米国財務省の高官には日本政府に供与されるファンド(宮沢イニシアティブ)の相当部分を再生資金のファイナンスのために確保すべきだと強く主張する人たちがいた。皮肉にも、ごの議論が再生を遅らせることになった。その原因は、外部資金に期待して、債権者、特に外国からの債権者による対応の遅れを助長したという。高官たちは、なぜ外国の貸し手による救済策が広範に実行されないかの理由を考えられないと断言している。ただ、アル中ハイマーには高官らを誘導している世界的な陰謀説が頭をよぎる。ただの推理小説の読み過ぎである。
ここで、おもろい昔の格言をメモっておこう。
「銀行家とは、資金を必要としない人たちに貸したがる連中のことを言う。」
どこかの中央官庁主導で行われる公共事業や第三セクタの類である。ちなみに某元市長は引退して次の選挙に出馬せず中央官庁へ行ってしまった。これを「天上り」というのだろうか?

本書は最後に「本書の論じてきた理論は完璧とは程遠い。」と謙遜して締めくくる。新しいシステムを生み出すよりも、維持し続けようとするシステムを改革する方がはるかに難しい。官僚機構の改革が進まないのは、既存のシステムで満足できる立場の人々がいるからである。経済学理論が停滞するのは従来の経済学を否定されては困る人々がいるからであろう。本書は、従来理論に刺激を与えたという意味で価値あるものなのだろう。
いつもシングルモルトを飲みつけていても、たまにはブレンデットを飲みたくなる。
それでも全く違和感がなく気持ちええ。これが熟成された世界というものである。

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