2007-10-07

"鴎外随筆集" 森鴎外 著

10月はいつもよりハッスルする月である。それもアル中ハイマーの誕生日という大イベントがあるからだ。それにしても不思議である。通常誕生日というものは祝ってもらうものではないのか?なぜか出費が多い月でもある。金の切れ目が縁の切れ目ということか?アル中ハイマーは悲しい男の性と奮闘する運命にある。
夜の社交場へ行く時は、いつも「鴎外通り」を通る。お気に入りの隠れ家がこの辺りに集中しているからだ。昨夜飲み歩いていてふと思う。森鴎外を記事にしないのは失礼な話ではないか。記事にする方が迷惑だと知りつつも無理やりこじつける。というのも読書の秋はやはり文学作品に浸りたい。せっかく秋らしくなってきたのだ。全く文学センスのないアル中ハイマーは、こうした動機でもないと文学作品など読もうはずもない。中でも明治の文豪となると旧文章体にイライラさせられるのでまず読むことがない。それでも「舞姫」は学生時代に読んでいる。明治の文豪に手を出すのはそれ以来だろう。20年以上?そう思うと力んで純米酒のピッチも上がる。

本書には、随筆18作品が収められている。
その中で1899年, 1900年に書かれたものが4つほどあるが、古い文章体で読むのが辛い。これぞ芸術の域というものなのだろう。他の作品は、1910年前後のもので現代風の口語体に近く普通に読める。これにはいささか驚かされる。口語調が急速に庶民化した時代ということだろう。そこには社会風刺や論評が綴られるが、現在にそのまま置き換えられる主張がなされることに感動してしまう。言わんとすることに余分な飾り付けをしない明瞭な文章であることが息の長いものにしているのだろう。鴎外流は写実主義と言う評価がなされているが、そう簡単には片付けられない。アプローチは語学的、哲学的、社会的、心理的などあらゆる方面から知的で、ひとことで言ってかっこええ!明治の文豪がこんなにおもしろく読めるとは思ってもみなかった。もしかしたら、アル中ハイマーの中に文学センスが育ちつつあるのかも?と錯覚してしまう。一冊読んだだけで、酔っ払いの勢い恐るべし!今宵の純米酒は一味違う。

1. 近代化する礼儀
近代化の中で礼儀に対する形式と意義の乖離を嘆いている。葬礼を例にあげて、神葬もあり、仏葬もあり、キリスト教の葬式もある。それはそれで自由信仰だから良いのだが、人それぞれの信仰ではなく事に応じて選択されている様を嘆いている。
「人生のあらゆる形式は、その初め生じた時に意義がある。礼をして荘重ならしむるものはその意義である。」
日本人のおもしろいのは、普段信仰心すらないのに葬式になると突然信仰心が現れる。重病に喘いでいる人に、インフォームド・コンセントなんて言っても、日本人には理解が難しい。命が最も重要!死んだらお終い!と強調されれば、自分の命が最も重要で他人の命は二の次、三の次となる。そのようなエゴから不治の病を告知すれば、される側とする側で互いに惨さを助長する。また、子供の教育にお寺さんが説教すれば、きっと良い話を語ってくれるだろう。こういう役割を医療機関や教育機関が担うだけでなく、お寺さんにも加わってもらえばきっと癒してくれるような言葉をかけてくれるはずだ。お寺さんが、なまもの(生きた人)は扱いません!では、もはや火葬仏教、葬式仏教である。
どんな世界でも、伝統を重んじると称して形式にこだわる風習を良く見かける。喪服一つにしても大正時代は旅立ちの衣装として白装束を着ていたではないか。伝統とは、受け継がれた道徳観や倫理観を表現するものであり、意味もわからず従う形式ではないと、アル中ハイマーが発言したところで酔っ払いの戯言でしかない。

2. 東洋と西洋の調和
ある学者が、日本人はアーリア人種であると論断したものがある。こんな軽率な事を言っていいのかと呆れているくだりはおもしろい。ちょうど東洋文化と西洋文化が衝突して渦巻いた時代がうかがえる。著者自身がドイツ留学の経験からか、作品にもドイツ色が見え隠れする。東洋と西洋それぞれの文化に長けた学者は多いが、二つを調和した学者が必要であると力説している。
「東洋学者に従えば保守になりすぎる。西洋学者に従えば急激になる。」
二次大戦前からドイツ一色に突き進んだ時代があった。今では親米色が濃い。一つの国一色に突き進む傾向は危険な香りがする。グローバル化とは一つ国に肩入れして突き進む政策ではないだろう。

3. 嘲を帯びた義憤
ある国民にはある言葉が欠けている。それはある感情が欠けているためであるという。その例は感動ものである。アル中ハイマーは「当流比較言語学」と題したこの随筆が一番のお気に入りだ。
ドイツ人は「Sittliche Entrustung」という言葉を使うらしい。訳すと道徳的(Sittliche)憤怒(Entrustung)となるのだが、嘲を帯びた意味で使うという。これを鴎外流では「義憤」という言葉にあてている。例えば、ある議員に不祥事沙汰があると、必ず「けしからん」と捲くしたてる連中がいる。この「けしからん」が「義憤」である。日本人はよく義憤で世間を賑わす。しかし、人の事言えるほど道徳心がおありか?言えないのに言っているとしたら嘲笑されるだけである。こうした意味の言葉をドイツ人は持っているが、日本人には欠けている。日本人はそんな感情は当り前に持っており、道徳上の裁判官になる資格を持っているのだろうと皮肉っている。当時は、新聞の社説や雑報に「けしからん」という文字が乱れ飛んだ光景を絶妙に表現している。
国民には欠けた感情の言葉が存在しないという話では、ある映画のシーンを思い出す。映画「誇り高き戦場」で、アメリカ人捕虜がドイツ人将校に向かって、ドイツ人は相手に苦痛を与えることによって性的快感を味わうと皮肉る。その将校は、サディズムの語源はフランスでありドイツ語にはないと反論する。日本語では加虐性愛とか訳すようだが、いまいち表現しきれていないような気がする。ちなみに、おいらはMである。

4. 芸術主義
鴎外自身、芸術に主義というものは本来ない。芸術そのものが一つの大なる主義であると述べている。その中に、思うがままに書いてきた様子がうかがえる。言うならば自然主義ということなのだろう。この時代には新しい風潮が流れ始めている様子も伝わる。個人主義への論説では、芸術そのものは個人的であって、個人主義が家族や社会を破壊するものではない。利己主義は倫理上排斥しなければならないが、個人主義という広い名の下に排斥するのは乱暴であると主張している。あらゆる概念を破壊して、自我ばかり残すものを個人主義と名づけるという社会風潮を批判している。
「学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄えるはずがない。」
いつの時代でもこのような風潮はある。いろいろと枝分かれする思想を一つの言葉で一緒くたにする手法は、世論を扇動する側にとって処理が簡単である。

本書のような、自然体で説得力を感じる文章を読むとある映画のシーンを思い出す。映画「小説家を見つけたら」で文章の書き方を伝授する場面がある。
「とにかく書くんだ。考えるな!考えるのは後だ!ハートで書く。単調なタイプのリズムでページからページへと。自分の言葉が浮かび始めたらタイプする。」
という台詞を吐きながらショーンコネリーがタイプライタをリズミカルに叩く。アル中ハイマーはこの前後5分ぐらいのシーンが好きである。

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