2007-10-14

"文章読本" 三島由紀夫 著

アル中ハイマーには文学センスが全くない。それも幼少の頃から諦めている。特に日本文学は、句読点すらつけない!妙なカタカタ表現!と難しいテクニックを披露してくれる。意地悪されているような気分にすらなる。海外ものばかり読むと翻訳語に毒されていく。もはや、なにが日本語かもわからない。アル中ハイマーとはそうした病である。それでも、読書の秋だ!たまには日本文学を嗜むぐらいのことをしてもいい。と思っていると、ある系譜を思い出す。

日本文学に「文章読本」という書物の系譜があることを知ったのは何年前だろう?偶然にも、中条省平氏の「文章読本」を読んで思い出した。
「文章読本」とは、著名な作家が自ら名文と評した文章を集めて解説をほどこしたものである。戦前の谷崎潤一郎に始まり、菊池寛、川端康成、伊藤整、三島由紀夫、中村真一郎、丸谷才一、井上ひさし、向井敏と名を連ねる。中条氏は、近代日本に口語体を提供できたのは、明治維新以後の小説家の貢献であると述べている。現代の口語文が、日本古来の文章体と輸入された西欧語の文脈とが互いに融合した結果であることは容易に想像がつく。日本語の伝統が蝕まれる時代に、文章とはいかにあるべきかという問題意識を持ちつづけた作家たちの苦悩がうかがえそうである。とは言っても、さすがにこの系譜を全部追っていく元気はない。気が向いた時にでも一つ一つ読んでいければそれでいい。谷崎潤一郎氏に始まるものは「いかに書くか」を説いているらしい。そこにはプロの真髄が凝縮していると想像している。対して、三島由紀夫氏は「いかに読むか」という視点に立っているらしい。素人に、なまじな文学の書き方など伝授するにはおよばないと考えたのだろう。アル中ハイマーが小説を書くことなどありえない。読者の立場から三島氏を読んでみることにしよう。

本書は、日本語文章史の概観を巡ってくれる。
日本文学の特質は女性的文学と言っていいようだ。平仮名で綴られた平安朝の文学は、ほとんどが女流であることからもうかがえる。平安朝時代には、漢字が男文字で、平仮名が女文字と言われていたようだ。
通念では、女性は感情と情念が豊かで、男性は論理と理知を重んじる傾向があると言われる。日本の歴史からして、論理と理知は外来思想に頼ることが多く、純粋な伝統文学という観点からは女性の文化であるという。日本人が論理的思考に弱いと言われるのは、こうした背景があるからかもしれない。政治や外交戦術で意義主張を叫ぶわりには決定的な論理の裏付けがない。数字を出せば証明できると勘違いしている人もいる。数字の信憑性は論理で武装しなければ説明できない。感情論に持ち込みやすい分、世論扇動しやすい国民性なのかもしれない。逆に、季節の移り変わりを情緒的に楽しんだり、五七調の韻律を楽しむ特質があると言える。言語の持つ特性はその民族の特性を表現する。
日本人は外国文学や外国文化の概念が一つ一つそのまま日本語に移管できるという幻想を抱いているという。日本ほど翻訳の盛んな国はないだろう。これも感性に自信がある表れかもしれない。いまや翻訳文の乱立で、どこまでが本来の日本語の文章かを区別することは難しい。アル中ハイマーは翻訳本を読むことが多い。日本文学が読み辛いと思うのは、既に翻訳調に毒されていると言える。ある小説はおもしろいという感想は持てても、この文章はすばらしいという感想を持つことはあまりない。文章を味わう習慣が無いということが認識できたことはありがたいが、ちょっと寂しい。

文章表現で難しいのはリアリティの追求ではないだろうか。
その技術として修飾語の使い方や、比喩などがあると思っている。これが技術論文や専門文献ならば、厳密性が要求されるので意識することはない。本書は、良い文章とはどんなものかを、森鴎外の知的文体と、泉鏡花の感覚的文体を対比して語る。
「明瞭な文体、論理的な文体、物事を指し示す修飾のない文体、ちょうど水のように見える文体にひそんでいる詩には、実は全体的な知覚がひそむ。」
現代風の修飾をベタベタと貼った文体は悪い文章であると言っている。では、その対極にある比喩や隠喩は否定されるべきものなのか?これも伝統的手法に思えるし、韻律の効果、文字の凸凹による視覚効果もまた文学的テクニックに思える。本書は、そうした文体を批判しているわけではない。
「物事を直接指し示すよりも、物事の漂わす情緒や、事物のまわりに漂う雰囲気を取り出して見えるのに秀でている。流れを持続し、その流れに読者を巻き込む性質がある。」
こうした技術は文学的伝統を感じるとも言っている。くどくど過ぎる文体も悪いのだが、うまく芸術の域に達するバランスもある。それぞれの立場は、文学者によって意見が分かれるところだろう。形容詞は最も古びやすいものと言われている。森鴎外の文章が古びないのは形容詞を節約している効果であろう。しかし、形容詞は文学の華でもあり、比喩的表現と親しい関係にある。こうした手法は文学的価値を高める効果もあるので一概には否定できないだろう。

ここで、文学を嗜むのも酒を嗜むのも似ていることに気づかされる。
限りなく水に近い純粋な原酒もあれば、分量が絶妙で混じりあったカクテルもある。文章に酔うにしても、いろいろな酔い方がある。熟成した香り、カストリの癖、スイートからドライまで、低級な悪酔いもあれば、高級過ぎて酔っているかもわからないものなど。また、人にはいろいろな酔い方がある。気持ち悪くなる者、笑い上戸、泣き上戸、説教も始まる。ちなみにアル中ハイマーは謝り上戸である。初対面の人にさえも。よほどの悪戯を働いているのだろう。酔っ払いの潜在意識を覗くことなどできない。
本書は、評論も立派な文学作品であると語る。気軽にブログを書いているアル中ハイマーには頭が痛い。古い格言に「文は人なり」というのがあるが、これは真理だと語られる。文章が人となりを表す。酔っ払って誤魔化す文章も人となりというものである。

0 コメント:

コメントを投稿