歴史の叙述というのは、アル中ハイマーが昔から好む分野である。岩波文庫の古代叙述はなるべく読みたいと思っているが、絶版などで入手の難しいものもある。中古品ではべら棒な値がついているものもある。酒と同じで熟成されると価値は上がるようだ。本書は、ゲルマン民族の大移動が現在のヨーロッパの原形を成したという意味で、昔から注目していた。ただ、古文風で読みづらい印象があるのでいまいち踏み込めないでいる。それも読書の秋にまかせて読んでみることにする。ところが、印象とは随分違って簡潔な表現で読みやすい。むしろ、本文よりも注釈の方がやや複雑で読み辛い。覚悟して挑んだが拍子抜けである。
タキトゥスは古代ローマの歴史家である。
本書には、ローマ側から観察した北方地方ゲルマーニアの報告書風の感がある。ゲルマン民族の野蛮性を暴くと同時に強力な敵として一目置いており、いずれローマの災いとなることを予感しているかのようである。素朴なゲルマーニアと対比して腐敗したローマを嘆いているようでもある。ローマの軍隊は厳しい軍律に基づくが、ゲルマーニアの軍隊は人格的世襲的な忠誠の原理を基盤としている。主従関係こそローマには見られない強固な団結力であると評している。帝政ローマが、繰り返しライン川を東へ渡り、ゲルマーニア侵攻を試みたのも、この地の平定が必要に迫られたいた様がうかがえる。
そして歴史は、ローマ帝国を滅ぼすことになるゲルマン民族の大移動を見ることになる。
ゲルマーニアというと単にドイツ系種族をイメージしてしまう。しかし、本書ではその限りではない。ここで叙述しているゲルマーニアの領域は厳密に規定されていない。その定義は、ゲルマン語を使用し、ゲルマン風の習俗を持ち、しかも自立的でローマの主権に従っていない民族である。その住地は、今のフランス地域に住んでいたケルト族から小アジアまでも含まれ、その解釈は幅広い。もともと移動性に富む彼らの住地を規定することはできないようだ。あまりに多い諸族の存在に地図を眺めるだけでもアル中ハイマーはベロンベロンに酔ってしまう。
1. 容姿
アル中ハイマーには、ゲルマン民族は勤勉で誇り高く容姿も整っているという印象がある。本書は、異民族との通婚による汚染を蒙らず、身体の外形が同じ純粋な種族と述べている。鋭い空色の眼、ブロンドの頭髪、堂々とした体格で、労働には忍耐がなく、渇きと暑熱には少しも堪えることができないという。勤勉なイメージとは異なるようだ。ただ、寒気と飢餓には、その気候と風土のためによく訓化されているという。ローマ人からみて容姿に憧れている様もうかがえる。
2. 経済
金銀に対してそれほど執着をもっていない。牛の数が唯一にして最も貴重とする財産であると分析している。それでも、ローマ帝国の近くに住んでいる人々は金銀の価値をわきまえているなど交易もあったことがうかがえる。
3. 統帥
王を立てるには門地をもってし、将領を選ぶには勇気をもってすると述べられる。王には無限の権力はなく、将領も権威よりは自ら模範となる人物でこそ人を率いることができるという。規律のある集団であることがうかがえる。そして高度な政治理念を有すると評している。勇気を重んじ、戦死を恐れるのは恥辱であり、戦列を退いて生を全うすることを恥辱と考える。よって、永い平和で英気を喪失している場合、進んで戦争を行うために部族を求めて出かける。アングロサクソン系もゲルマン人がグレートブリテン島に渡ったのが源流のようだ。このあたりはローマにとっての脅威を物語っている。強壮にして好戦的であるが、平和時には、生活を女性や老人に任せ自ら怠惰を求め無為に過ごすという。この性質を不思議な矛盾であるとも評している。
4. 住居
都市を作らない。住居が互いに密接することを好まない。泉、野、林がその心に適うままに、散り散りに分かれて住居を営むとある。ドイツの地名で泉 -born、川 -bach、野 -feld、林、森 -waldを末尾に持つものが多く残っているのは、この特徴からもうかがえると注釈されている。建造技術が発達していない点も指摘している。家屋のまわりに空地をめぐらすのは、敵襲による兵火の災害を小さくするためでもある。常に他部族の襲来を前提としており、密集型のローマとは反対の光景が語られる。
5. 女性の地位
女性の地位は意外と高い。また、貞操感は強く夫を一人と決めて未亡人でさえ再婚は珍しいという。人口の巨大さにも関わらず姦通は極めて少ない。その処罰もたちどころに執行され夫に一任される。一旦貞操を破ると、鞭を打って村中追いまわそうが、髪を切って裸にしようが、無惨な行為がなされる。
奴隷への扱いも、鞭打ったり、鎖でつながれるなどはごく稀であると語る。奴隷については、様々な能力から評価をランクされるなど合理的な様子もうかがえる。
アル中ハイマーが、こうした歴史叙述を好むのは、現在の情景に照らし合わせながら読めるところである。これは、人間の道徳観や価値観が古代から進歩していないからであると考えていた時期もあった。しかし、古代の残虐さや傲慢さがそのまま現在の価値観と比較できるはずもない。いくら女性の地位が高いとか自由な精神とか語られたとしても奴隷制の時代である。
しかし、文章だけ読むと現在においても違和感がないのはなぜだろう?
そもそも人間扱いされていない種族や奴隷は残虐に扱われるのが当たり前で記述すらされないだろう。人間は相手をどの位置付けにするかで態度も豹変する。相手を人間ではないと認めれば残虐な態度も平気でとることは歴史が示している。民族間紛争や宗教紛争も、自分の種族、自分の宗派が優れているという認識が根底にある。自分よりも見下したいとか、自分を持ち上げたいという意識は人間の本質なのだろうか?向上心や努力というものは、人を見下すための行為なのか?自分を人の風上に置きたいと思う意識とはなんだろう?
身分の上下関係にしても、時代によって相対的には大して変わっていないかもしれない。おいらが言う身分の上下関係とは、税を徴収する側とされる側である。そうとでも考えないと、現在においても、不平等な予算、不適切な資金流用、不透明な会計システムがまかり通ることへの説明がつかない。
人間の過剰なエリート意識とは、見下せる人間の存在を意識することなのだろうか?どんな立派な理念が語られた時代であっても、記述すらされない非道徳なタブーな世界が存在する。30世紀あたりには、人間の価値観は20世紀前後まで進歩しない時代であり、社会堕落と道徳観もない野蛮な時代として語られているかもしれない。
おっと!小さな哲学という酒には、自問自答上戸というわけのわからん酒癖を宿らせる呪術力がある。
2007-10-21
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