2008-09-21

"ツァラトゥストラはこう言った(上/下)" ニーチェ 著

学生時代、新潮文庫版の「ツァラトストラかく語りき」を読んだ。もう20年以上前かあ。本屋を散歩していると、なんとなく岩波文庫版が目に留まる。そういえば、学生時代、独裁者の心理に興味を持っていた時期があった。その時、ニーチェに影響された独裁者につられて読んだのである。もしかしたら、アル中ハイマーのニヒリズムの原点は、この本にあるかもしれない。本書は間違いなく名著だ。だが、薦めはしない。今、酒樽の中から神託が下った。「汝は再び、これを買うであろう!」

そこには、国家は敵、親友は最大の敵、道徳や宗教を否定し、学者は嘘つき、詩人は口先だけ、聖職者は誹謗者、人間は生まれながらに死を運命づけられた死刑囚、といった御託が並べられる。「神は死んだ!」この言葉で象徴されるように、読み方を間違えると危険な思想に嵌りそうな香りがしたのを思い出す。純情なアル中ハイマーは、ニーチェのおかげで哲学恐怖症と宗教拒否症を患ったものである。それでも、人間の深層心理を鋭く抉る感覚には魅了された。それが今読むと不思議なことに癒される。それだけ邪悪な社会を見てきたということか?いや!単に精神が泥酔しているに過ぎない。どんなものであれ、出会った時の精神状態によって解釈が違うことがよくある。気づかなかった日常の幸福にも、やがて見落としていたことに気づく日がくるかもしれない。ただ、こういう本は、酔っ払いのお喋りが「かっぱえびせん」状態になるから困ったものだ。しかも、鏡の向こうの住人が、赤い顔をして「ああ気持ちええ!」と呟きながら延々と話しかけてくる。

アル中ハイマーの住む業界では精神病や脳卒中といった病を患う人が多いようだ。それが当人だけでなく、奥さんや家族に伝染するのは偶然だろうか?ちなみに、おいら自身が5年ほど前に脳梗塞と診断されたことがある。即日入院させられたが、厳密には一歩手前であろう。酔っ払っているお陰でまったく自覚症状がない。医者は騒ぎおるわい!ただ、看護婦さんに会える口実を与えてくれたことを喜んでいる。
哲学という一見高度に見える思考は、生きる上であまり役には立たない。哲学は苦悩する具体的な問題に何一つ答えてくれない。論理的な解明を深めると鬱病にさえなる。だからといって、それ以外に何ができるだろうか?できるだけ抽象的に語り、様々な解釈を思わせる可能性を示せば、そこには、崇高な地位へと押し上げる何かがある。これが哲学の極意というものだ。 絶望という名の希望は、生きる上で時々立ち止まり、そして、時々振り返ることの大切さを教えてくれる。本書には、絶望の末に到達したニヒリズムがある。

宇宙の存在意義とは、自らの精神を意識できる瞬間でしか意味がないのだろうか?魂が死んだらどうなるのか?人類が宗教を発明した理由の一つは、人生がこの世で終わるのでは、たまらない!と人々が願うからであろう。無神論者であっても、「あの世」とか、「天の声」といった言葉を使うものだ。ご都合主義の人間が、来世を信じるのも分からなくはない。いずれ、地球は死滅し、人類が死滅する日がくるだろう。そうなると、自分の生きた証どころか、人類の歴史が全て失われる。宇宙の歴史からすれば、人間など「うじ虫ども」の地位にしかない。偉大な生物の歴史では、一匹のプランクトンよりも役立った人間などいないのかもしれない。

本書は、この手の文献にしては珍しく注釈がない。文章も翻訳にしては分かりやすく、仏教的な用語に置き換えていると思われる部分もある。だいたい、この手の本が読み易いわけがない。直訳するとへんてこな日本語になるはずだ。訳者氷上英廣氏の意向が感じられる。こうした意図は、学術的な立場からすると許されないだろうが、酔っ払った凡庸な読者にはありがたい。
「ツァラトゥストラ」とは、古代ペルシャのゾロアスター教の開祖の名前である。ニーチェは、主人公にツァラトゥストラを登場させ自らの哲学を代弁させる。これは、矛盾した宗教への挑戦か?善悪を語る道徳への皮肉か?キリスト教をパロッた場面もちりばめられる。そこには、「人間は人間を克服しなければならない」と語り、「超人」と「永遠回帰」という二つの概念が語られる。凡人は生まれて死ぬものであり、無情な時間の中でもがく。だが、「超人」は、この時間をも克服してしまう。それは、自己目的で完結してはならず、時代のかけ橋となることを意味する。そのために自らの没落を勧める。没落とは自己犠牲とも微妙に違う。人間の最も恐れるものは退化である。それは、自らの意志を次の世代に受け継ぐことの意義を教えている。だが、精神や道徳は、何度試みては失敗し誤ったことか。人間とは単なる試みなのか?昔から受け継がれた理性によって、今もなお精神は錯乱する。「永遠回帰」は自己克服と成熟を求めるが、人類は物事の真理を探求しながら、未だに答えを見つけられない。人類は未だ恒常不変の善悪を知らない。そもそも、善悪は存在するのだろうか?人間を克服するとは、善悪の創造者になることである。そのために思考し続けるが、精神は迷い続け、永遠に矛盾と対峙する運命にあるようだ。

人生には悩みが付きまとう。生き甲斐なんてものは、思い上がりなのだろうか?謙遜という意志ほど難しいものはない。人間はなぜ生きようとするのか?そこには限りない欲望が渦巻く。幸福は、苦痛を忘れた瞬間に訪れる。その瞬間を作ってくれる芸術や音楽には、癒しの力がある。逃避的で消極的な幸福は、癒しの空間を与えてくれる。だが、ニーチェは、更に生きる苦痛を正面から受け止めよ!「勇気こそ人生の先史学」と訴える。消極的な幸福よりも、積極的に覚悟を決めることによって癒される何かがあるというのか?永遠に苦悩する勇気によって、次の瞬間に何かが悟れるとでもいうのか?それが「永遠回帰」ということか?本書は、人間を蔑み、人生を散々否定的に語っておきながら、それを直視し真理を探究し続けることにこそ、自己克服があると語る。自由な精神を獲得するには、究極まで思考し続けるしかない。だが、どうせ答えなど見つからない。真理には不思議な性質があって、近づこうとすれば逆に遠ざかる。まるでホットな女性のように。

さて、次の20年後に読み返すと、どんな解釈が得られるだろうか?その頃は何歳だ?今、16進数で20代だから...そのうち16進演算も怖くなりそうだ。次はモジュロ計算で生まれ変わるとしよう。
それでは、大作の中からストレス解消になりそうな愚痴っぽいところを、ほんの少し摘んで要約しておこう。なぜかって、そこに辛さの効いたカラムーチョがあるから。この辛さはビールのピッチをあげる。

1. 人間
ツァラトゥストラが愛する人間は、没落を願う人間、破滅に向かう人間である。ツァラトゥストラは病人には寛大だ。神を渇望する人々には、実に多くに病的な輩がいる。暗黒な時代では、信仰は妄想であり、理性は狂乱となり、冷静な懐疑は罪とされる。世界の背後には、救済と称した信仰が蔓延り血が流される。そして、戦争や闘争といった悪は必然となる。人間は、徳どうしの妬みや不信と誹謗からは逃れられない。人間は徳によって滅びようとする。かつて精神は神であった。やがてそれは人間となった。今では賤民にまでなり下がる。

2. 国家
国家は冷めた怪物である。国家は民族であると嘘をつく。民族には、善悪を表す言葉に風習と掟がある。国家があらゆる言葉を駆使して善悪を語っても、それは全て盗み取ったものだ。国家にひれ伏し拝むならば、この新しい偶像は人々に餌をばらまき、人々から美徳と誇りを買い取る。国家は余計な人間を生みだし、庶民の財産を盗み取る。この窃盗を教養と呼ぶ。中には人々を感情で逆なでする者もいる。これを新聞と呼ぶ。彼らは互いに貪りあう。この余計な人々は、富を手に入れ権力を欲する。だが、ますます貧しくなることに気づかず、王座を欲する。まるで王座に幸福があるかのように。だが、王座は泥に過ぎない。国家という新しい偶像を崇拝する者どもは、ことごとく悪臭を放つ。

3. 民族
地上において善悪ほど大きな力を持ったものはない。まず、民族が生きていくには、善悪の評価が必要である。どんな民族も隣国どうしで理解し合ったものはない。民族にとって手に入れることの難しいものが善である。民族を支配と勝利と栄光に導き、隣国にとって恐怖と嫉妬の的にされることが、高貴なものとなる。ギリシァ人は、他者よりも秀でることを美徳とした。ペルシァ人は、真実を語ること、弓矢に練達することが困難であると知りつつも好んだ。ユダヤ人は、父母を敬い、父母の意志に従うことを不滅とした。ドイツ人は、忠誠を尽くし、たとえ悪いことでも名誉と血を賭けることを教えとし、自らを強制した。民族にとって善悪の価値は自己を維持するために必要だった。だが、人類はいまだに共通の目標を見つけることができない。人類に目標がないのなら、人類そのものもまだ成り立っていないということではないか。

4. 自由な死
「ふさわしい時に死ね!」。これがツァラトゥストラの教えである。だが、ふさわしい時に生きたことがない者が、どうしてふさわしい時に死ねようか。ツァラトゥストラは言う。「余計な人々は、そもそも生まれてこなければよかった。」余計な人々は死をもったいぶる。全ての者が死を重大視する。だが、死はいまだに祝祭とまではならない。多くの人は、自らの真理をつかむ頃には、あまりにも歳をとり過ぎる。栄光を欲する者は、良い潮時に名誉に分かれを告げ、良い時に逝くという難しい術を習得しなければならない。あのヘブライ人イエスは、あまりに早く死んだ。彼がもっと長生きしていれば、おそらく彼自身の教えを撤回したであろう。撤回できるほど十分高貴な人間だったが、未熟なうちに死んだ。

5. 聖職者
生きるということは羞恥の連続である。他人を同情することで自らの幸福を確認する。自己を喜ばせようとすれば、他人を悲しませ困難や迷惑を与える。小さな悪行を楽しめば、大きな悪行をしなくて済む。裁判で裁かれれば、罪を償ったと勘違いして自らの罪を忘れる。聖職者たちは、あまりにも苦悩してきた。そのため彼らは他の者にも苦悩を与える。彼らの謙遜ほど復讐心に満ちたものはない。救済は、偽りの価値と虚妄の言葉を浴びせかける。彼らの神の愛し方は、人間を十字架にかけることしかできなかった。彼らは屍として生きようとした。自らの屍を黒衣で覆い、その説教からも死体置場の嫌な臭いがする。彼らの同情によって神は死んだ。教会は神の墓場である。

6. 有徳者
有徳者たちは、なぜ徳に対する報酬を受けるのか?徳はそれ自体が報酬ではないのか?徳には、報いと罪という嘘っぱちが持ち込まれる。有徳者は、自らを高めるために、他人を低める。徳は必要だと叫ぶより、警察は必要だと叫んだ方が説得力がある。名高い賢者たちは、大衆に奉仕し、迷信に奉仕してきたのであって、真理に奉仕してきたのではない。だから、大衆に尊敬される。彼らは大衆の代弁者として誇りを持つ。まるで神の代弁者かのように。

7. 詩人
詩人は嘘をつき過ぎる。弟子がなぜか?と質問する。ツァラトゥストラは「なぜ?」と尋ねられると困る人間だと白状する。だが、ツァラトゥストラも詩人なのだ。詩人は、知識に乏しく学ぼうとはしない。だから嘘をつかざるをえない。詩人は、淋しい丘に寝ころび耳を澄ませると、天地がささやいてくれると、得意げにふれまわる。詩人は、天上と言って神々を比喩するが、それは表面に過ぎず自らを深く見せかけようとしているだけ。詩人の精神は見物人を欲する。自虐的な「精神の苦行僧」は、詩人から生まれた。

8. 善人
あらゆる人間は、いたわられ同情されたがっている。善人と自称する者は、無邪気に嘘をつく。善人たちは、同情という嘘をつくように教える。隣人愛という言葉ほど嘘と偽善のために役立ったものはない。かつて人々は予言者と占い師を信じた。運命という言葉を信じた。やがて人々は、予言者と占い師を疑うようになった。そして、一切は自由であり、自由意志を信じるようになった。しかし、それは妄想であって、本当は何も分かってはいない。かつて、略奪はいけない、殺してはいけない、ということが神聖とされた。だが、生きること自体が略奪と殺害を含んでいる。善人は、古い価値を壊す者を犯罪者と呼ぶ。そして、創造する者を憎む。なぜならば、善人たちが創造できないからである。善人たちは、新しい価値を掲げる者を十字架にかける。善人たちは常に終わりの始まりである。

9. 先史学
昔々紀元の始まった頃、ローマは堕落し娼婦になり下がった。ローマ皇帝は家畜になり下がり、神様もユダヤ人になった。ツァラトゥストラは言う。「私以上に神をなすものがあろうか。神は死んだ!」そして、人々を無神論に改宗させる。神は死ぬしかなかった。神は、人間の奥底に隠された汚辱と醜悪を見た。神の同情は少しも羞恥を知らなかった。人間はそのような目撃者がいることにに堪えられない。人間とは、なんと醜く、苦しげに喘ぎ、無駄な羞恥に満ちていることか。にも関わらず、人間は自分自身を愛する。自らを散々軽蔑しながら自らを愛す。人間の自己愛はよほど広大なものに違いない。人間には古くからの恐怖心がある。それが洗練され、知性化され、今では学問と呼ばれるに至った。そして、勇気こそが先史学である。人間はあらゆる動物の勇気を妬み奪い取った。

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