2022-07-31

"奇想の系譜 - 又兵衛-国芳" 辻惟雄 著

意表を突く構図、強烈な色彩、グロテスクなフォルム...
江戸の時代、奇矯(エキセントリック)で幻想的(ファンタスティック)な表出を特徴とする絵師たちがいたそうな。近代絵画史で長らく傍系とされてきた達人たちに、岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳らの名が連なる。辻惟雄は、彼らを異端派とするのではなく、主流派の前衛として掘り下げてくれる。奇想キテレツ派とでもいおうか、その表現主義的な傾向は、むしろ現代感覚にマッチしそうな...

芸術の要素には遊び心が欲しい。アニミズムにも、美意識にも遊び心が欲しい。悪魔が皮肉をぶちまけ、これを神の微笑みで味付けすれば、主題がより際立つ。ユーモラスな悪戯ぶりは、型苦しい様式からの解放と庶民感覚に近づけた感がある。地獄をも、狂気をも、手玉に取れば、まさに近代芸術のアバンギャルド。今、八面モニタをバックグランドに、純米酒をやりながら美術館気分に浸る...




この系統では、まず、葛飾北斎の名が聞こえてきそうだが、ここでは、あえて軽く触れるに留めている。彼を扱うには、よほど腰を据えてかからねばならないようである。

「北斎の場合にしても、彼を単なる風景画の開拓者として扱うのはもとより一面的であって、動物、植物、人物から妖怪にいたる森羅万象ことごとく自己の画嚢に収めようとする描写の驚くべき多様さと、どの画題にも発揮されている斬新な機知とドラマティックな想像力、つまりは『奇想』に、彼の作画の本質的意義があることはいうまでもない...」

本書で紹介される絵師たちは、時代を先取りしすぎていたのかもしれない。表現性に馴染んだ現代人の眼には、それほど違和感はないだろうし、むしろド迫力な描写に魅了される。
例えば、「山中常盤物語絵巻」は、義経伝説を描写した御伽草子系の物語で、盗賊どもに小衣を剥がされる常盤と侍従に、常盤殺しに、その復讐劇で首を刎ねるなど、どぎつい場面で彩られている。
但し、作者の名が作品のどこにも記されていないそうな。岩佐又兵衛筆という伝称がついているだけだとか。そのため、岩佐又兵衛という人物の実在すら疑われたという。後に、その子孫の家から伝記資料や自筆の文書が発見され、おぼろげながら正体が浮かび上がってきているのが現状だとか。
この作品が世に出るいきさつでは、ドイツへ売られるところを、当時、第一書房の代表であった長谷川巳之吉が、国外へ持ち出されるのを防ごうと、家を抵当に入れ、他のコレクションを売り払って、手に入れたという。生々しい表現性の評価では西欧のコレクターの方が目が肥えているようで、辻惟雄はこう励ます...
「日本のコレクター諸氏よ、今からでも遅くはない、奮起して下さい!」

いつの時代も、社会への不満や政治への批判が風刺芸術として現れ、えげつなく描写すれば批判の的となる。その先陣を切るのが、自由を標榜する芸術家の役割というものか。当時、自由な表現は危険すぎるほど危険で、覚悟のいる仕事であったことだろう。寛政の歌麿が投獄された事例などが、それである。幕藩体制崩壊も目前に迫り、武家政治への不満が日増しに高まる中、庶民の代弁者という使命を買って出ることも。
例えば、歌川国芳の「源頼光公舘土蜘作妖怪図」は、権力の風刺画として威光を放つ。源頼光と四天王がくつろぐ中、闇から悍ましい土蜘蛛と無数の妖怪が押し寄せる。病床の頼光に、夢まくらで騒ぎ立てる化け物ども。表向きは土蜘蛛退治を描写しながら、酷政に苦しむ庶民の亡霊を描写したような、実にきわどい作品である。国芳は、捕らえられて詰問にあったが、そのような含みはないと言い張って罪を免れたという。自由精神の旺盛な人間が政治犯とされるのは、人間社会の宿命か...

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