2010-12-22

"天文対話(上/下)" ガリレオ・ガリレイ 著

「天文対話」は、正しくは「二大世界体系についての対話」と呼ばれるそうな。二大体系とはプトレマイオスの天動説とコペルニクスの地動説で、いわば宇宙建築術の論争である。プトレマイオス説には、アリストテレスの弟子たち、すなわち逍遙学徒の伝統的思考が後押しをした。一方、コペルニクス説を支持したガリレオは異端審問にかけられた。しかし、地動説は真新しい世界観ではなかった。プラトンは、既に太陽を究極のイデアである善の象徴とし太陽中心説を唱えていた。太陽中心説を地動説とまったく同等に扱うことはできないが、反スコラ学思想として受け継がれるところがある。したがって、宇宙論の歴史を遡れば、アリストテレス対プラトンの代理戦争とすることができよう。
しかし考えてみれば、この世のあらゆる論争は、アリストテレスとプラトンの哲学的論争に帰着するような気がする。単純に抽象化すれば、主観対客観の構図に置き換えることもできよう。もっと言うならば、アリストテレスにしてもプラトンにしても記録として残されてきただけのことであって、ずーっと昔の記録媒体のない時代から続いている論争で、彼らもまた誰かの代理戦争をしていただけのことかもしれん。精神というやつは、数千年前から、数億年前から、ほどんど進化していないのかもしれん。
アリストテレスは、プラトンがあまりに幾何学を研究し過ぎると批判した。数学をやり過ぎると哲学できなくなると。だからこそ、プラトンの方が好きなんだけど...
とはいえ、スコラ学派を批判する気になれても、アリストテレスを批判する気にはなれない。弟子たちが師匠の名声をあまりに持ち上げようとして、かえって貶めることがある。その偉大さゆえに反論することにも臆病となる。だが、哲学者を崇めて反論しないのは哲学を蔑むことになる。ましてや、論理学の創始者とされるアリストテレスが、新事実に寛容さを見せないとは考えにくい。
ニーチェ曰く、「あのヘブライ人は、あまりに早く死んだ。彼がもっと長生きしていれば、おそらく彼自身の教えを撤回したであろう。撤回できるほど十分高貴な人物であった。」
偉大な思想は、その後の影響の仕方によって、言いがかりのような批判に曝されることがある。本書は、アリストテレス学説を鵜呑みにしてきた伝統的学派への批判と同時に、アリストテレスの偉大さを物語る。

ガリレオ・ガリレイとは、なんとも舌を噛みそうなネーミングであるが、長男の名に姓を重ねるというのがトスカーナ地方の古くからある風習だそうな。
ところで、ローマ教会の足元であるイタリア人が天動説に異論を唱えたのは運命のいたずらであろうか。ローマ教皇は、教義に反するとしてピタゴラス学派に沈黙を命じたり、1616年の異端審問で地動説を唱える者を譴責すると布告した。ガリレオは「真正の真理の証人」として黙ってはいられないと告白する。当時の科学論争は、イデオロギー色が濃く、科学をするにも命がけである。
本書は、地動説を完全に説明したわけではなく、どちらが収まりが良いかを示したに過ぎない。つまり、どちらが合理的に説明できるかという対話である。ここではスコラ学派の主張に疑問を抱かせるだけで十分であろう。だが、「天文対話」は発売禁止になり禁書目録に入れられたという。

さて、この対話をどこまで中立の立場で読むことができるだろうか?それを今宵のテーマとしたい。もし、今までの知識が何らかの方法で否定されたならば、今の自分の思考はどこへ向かうだろうか?知識とは実に脆いものである。そのほとんどが自分自身では実証できないのだから...ただ、哲学的で論理的な議論は、互いの意見に耳を傾けさせる効果があるように思う。論理的に組み立てられた意見は納得しやすい。そこに論理的な隙があれば、修正すればいいだけのこと。
本書にも論理的な隙があり、あのガリレオにして誤謬を犯すことになる。知識は歴史的に育まれてきた。前提説が否定されたからといって、最初に唱えた者を蔑む気にはなれない。だが、それを盲目的に崇めてきた有識者と呼ばれる人たちは蔑むに値するかもしれない。本書の主旨はこれではなかろうか。そして、中立の立場になることの難しさを思い知らされる。いや、精神が介入すれば、それは不可能なのかもしれない。偉大な人物ほど世間に振り回されずに、人生を有意義に過ごすことができるのだろう。羨ましい限りだ!

1. 三人の登場人物
プトレマイオス派のギリシャ哲学者シムプリキオスの名前は、イタリア風では「シムプリチオ」となる。彼は逍遙学徒で、スコラ学派や教会関係者の代表者を演じる。ちなみに、逍遙学徒とは、プラトンの学園アカデメイアに対抗してアリストテレスが創設した学園リュケイオンの学徒で、「逍遙しながら(散歩しながら)」議論するところからきている。
コペルニクス派の「サルヴィアチ」は、フィレンツェの紳士、パドヴァ大学でガリレオに学んだ人物で、ここではガリレオの代弁役を演じる。
中間派の「サグレド」は、ヴェネツィアの紳士、パドヴァ大学で学ぶガリレオの弟子。

2. 四日間に渡る論争
一日目は、世界の三次元性とそこから導かれる完全性について熱く語る。天空と地上の現象で統一的性質を示しながら、ガリレオ哲学が披露される。
二日目は、地上の現象について議論する。物体の運動における直線運動の一時性と円運動の永続性を示しながら、地上が永続的に存在しうるのは円運動のほかにはないとしている。この時代に「コリオリの力」という言葉が登場するはずもないが、自転の実証として弾道実験で見事に示される。ただ、地球が自転しているとしても、地球中心説からは脱皮できない。
三日目は、天空の現象について議論する。この時代には、太陽の黒点の形状の変化、月面の凸凹、内惑星と外惑星の軌道の相違、恒星の誕生や消滅などが観測される。太陽や月に不純物が存在することや、天体運動の秩序の乱れは、天空の完全性を唱える人々にとっては厄介である。それは、プラトンが太陽を理想イデアと崇めたことも否定されるのだが。天体観測の信頼はひとえに精度にかかっているので、果てしないスケールに対して感覚的に信じられないのも仕方がなかろう。天文器具の用い方ひとつで、容易に誤謬の入る余地を与えるのだから。ちなみに、プトレマイオスは、アルキメデスのつくった天文器具を信頼していなかったという。
さて、ここまでは天動説を否定するに至ってはおらず、地動説の可能性を示したに過ぎない。
注目すべきは、四日目である。潮汐現象が地動説の決定的証拠として結論付けているのだから。すなわち、地球の日周運動と年周運動の合成力によって、月周期で潮の満干現象が生じるとしている。万有引力の概念がまだ登場していない時代とはいえ、伝統的に重力なるものの存在は自明とされてきた。だからといって、地球と月、あるいはその他の天体との引力関係を考慮しなかったことが責められるものではない。ガリレオにして、頭のどこかで重力が地球固有のものであると仮定していたのかもしれない。それにしても、日周運動と年周運動の中間をとって月周期の現象を説明するとは、あまりにも安直である。現代科学の知識があるからそう思うだけのことかもしれないが。
あの天才にして誤謬を犯したというわけかぁ...そりゃ現代の有識者どもが平気で誤謬を犯し、しかもそれに気づかないのも仕方があるまい。

3. アリストテレスの世界観も捨てたもんじゃない!
万物は宇宙法則に従い、宇宙は単純で美しい構造をしているという根本的な思考は、プラトンもアリストテレスも同じで、現代科学にも伝統的に受け継がれる。
ただ、アリストテレスの天空と地上の関係は、不死なるものと死すべきものを完全に隔離し、純粋物と不純物を分離する。天空を完全なる存在とした時、地上のあらゆる不完全で可変的な現象は、地球を特異な存在としなければ説明できない。天は、まさしく神の住みかに相応しいというわけだ。死によって天に帰するとか、精神の安住の場が天にあるといった迷信的発想も、アリストテレス的思考に似ている。人間の直観は、生命の有限性に対して、天の無限性なるものに憧れを抱くものだ。宗教は、こういう心の隙間に巧みに入り込む術をよく心得ている。
また、アリストテレスは、世界の完全性を三次元においてのみ可能とし、宇宙空間を三次元空間であることを唱えたという。三つの次元を有したもののみが別の次元に移動することができ、それはピタゴラス学派の三つの数によって規定されるという。つまり、立体だけが、あらゆる方向に連続性があり、あらゆる方向に分割できるとしている。そして、物体の運動を、直線運動と円運動、その二つの混合運動で規定する。この考えは、人間の住む空間と非常に調和し、すべての運動は合成体として説明できる。故に、三次元空間は完璧というわけだ。
更に、直線運動をより不完全性、円運動をより完全性としている。天が不滅であるには、天界は円運動を必要とし、地上だけが静止したままでいずれ消滅するというわけだ。
だが、本書は、合成運動を定義するにしても速度の変化や力関係にふれていないと指摘している。速度の変化がなければ、地上は穏やかでいられる。つまり、ガリレオは慣性の法則を匂わせている。
無理やりアリストテレスの世界観を正当化するならば、太陽ですら、宇宙の天体ですら、天には到達していないということは言えるかもしれない。神は宇宙よりも天上にお住みになっているなどと言えば、宗教家も喜ぶだろう。なるほど、宗教の仮想化は、人間社会の仮想化よりも、はるかに先を行っているわけか...

4. 大地が静止しているというアリストテレスの根拠
アリストテレスは、地上の実体を地上の四元素の地、水、空気、火でできているとし、天界の実体を第五元素のエーテルでできているとした。そして、エーテルで充満しているからこそ、全天空が連動して運動することができると説明する。
地上のものはすべて大地の中心に向かって垂直に運動する。すべての恒星も、同じ場所から昇り、同じ場所に沈む。つまり、すべての運動は、大地の中心に向かう重力の影響を受けているように見える。潮汐現象や空気の移動を説明するにしても、地上には陸地もあれば海面もあり、陸地だけでも起伏があるからして、その凸凹から重力の不均衡が生じると説明しても、十分に信じられる範疇にあろう。また、大地が回転していれば、物体の落下運動は垂直ではなく回転方向の影響を受けると考え、大地が西から東に回転するならば、激しい東風にさらされるはずだと考えるのも不思議ではない。
なのに、大地の大気が穏やかなのはなぜか?その反駁では、運動が加速も減速もしなければ、表面上は穏やかであるとしている。これは、まさしく慣性の法則である。しかし、重い物体で形成される地球の表面自体は、中心から遠ざかりもしなければ近づきもしない特別な球面としている。地上の特異性という観点は、ガリレオにしてアリストテレスの世界観からは脱皮できていないようだ。それでも、現在の政治屋やエコノミストたちの論理よりは、はるかに説得力を感じるのだけど...

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