2009-09-06

"ユリイカ" Edgar Allan Poe 著

本書を知ったのは、ポール・ヴァレリーの短編「ポーのユリイカについて」を読んだからである。そこには、自然科学を情熱的に語ったものだと絶賛していた。ヴァレリーの論評した作品は是非読んでみたい。
ところで、エドガー・アラン・ポーというと、推理小説のイメージしかない。だから、江戸川乱歩も名前をもじったのだろう。本書は、科学書という意外性が余計に興味をそそる。訳者八木敏雄氏によると、ポーは旅先でこんな手紙を残したという。
「...私は死なねばならないのです。ユリイカをなしおえてしまったので、もう生きていく意欲がありません。...」
そして、ボルチモアで客死する。享年40歳、路上で倒れているところを病院に運ばれ、そのまま死んだという。なんとなくガウディの死を思わせる。その死因は酒の飲み過ぎかどうかは分からない。この残された言葉には、「ユリイカ」に自らの生き様を託した情熱が伝わる。

ポーは、宇宙論を徹底して直観のみで語ろうとする。ここで注目すべき概念は「一貫性」である。彼は、真理を発見する唯一の方法は一貫性に頼るのみと主張する。科学の世界には、プラトン時代から継承される哲学がある。それは、どんな複雑な現象も、背後には単純な自然法則が潜んでいるに違いないと信じる執念である。エンジニアの世界にも「Simple is the best.」を信仰している人は多い。しかし、現在、人間は複雑系と対峙する。もはや、人間の手に負える知的領域に留まっているのは、ユークリッド幾何学のみに思える。現代の物理法則は、世界を支配できなくなり、精神の弱点と似たものになりつつある。数学では、いつも割り切れない少数が残り、人間は不安と不徹底感に苛む。こうした光景を眺めていると、ポーの愚痴が聞こえてきそうだ。
ポーは言う。数学者たちがいかに主張しようとも、公理の証明などありえないと。それは、単に真理が存在するだけで、それを証明できるのは神だけだと言っているかのように。おまけに、宇宙を包括的に概観した論考の存在を知らないと、科学者を挑発する。
「論点の多様性は、必然的に細部の累積と概念の錯綜をもたらし、印象の全体性の把握をさまたげる。」
ポーは、科学が精神的な気質の持ち主による考察がなされないことを嘆いている。そして、宇宙を不可分な全体として如実に実感できるような宇宙の観察法を提示する。山頂で荘厳なパノラマを旋回しながら全体を眺望するような、そうした宇宙の眺め方とでも言おうか。あらゆる真理が自明であれば、公理から論理的結論が容易に導かれ、悩みも単純になるはず。真理が自明ではないから、哲学的あるいは精神的考察が繰り返され、悩みの根源も見えない。人類は永遠の試行錯誤の中を生きるように運命づけられるようだ。
更に、ポーは続ける。ただ直観に従うことによってのみ真理へ近づくことができると。ガウディも似たようなことを語っていた。自然法則を見つけるためには絶対に直観に忠実であるべきだと。
ところで、直観は限りなく主観の領域にある。芸術は主観性の領域にあり、科学は客観性の領域にあるというのが一般的な見解であろう。古くから哲学的な論争に、理性と芸術の衝突がある。科学者の中には、芸術的主観や直観的方法を蔑む人も少なくない。彼らはもっぱら客観的論考のみを推奨し、主観的思考を排除しようとする。だが、科学は天才たちの直観によって発展してきた歴史がある。客観性を主張する科学者ですら、人間のご都合主義に嵌ってしまった例は多い。説明ができないからといって、真理から遠ざかった他の方法で仮説を匂わせ、エーテルの存在をも示唆してしまった。主観と客観は人間の持つ本質であって、真理を探究するにはどちらからも逃れられない。
アル中ハイマー曰く、「主観と客観の双方を凌駕してこそ、人間の持つ合理性に近づくことができると信じている。」

なんといっても、本書の迫力は、科学を徹底的に直観で言い尽くすところにある。直観的憶測法とでも言おうか。まるで科学的思考を否定しているかのように。これは科学への挑戦か?そして、アリストテレス的な演繹的方法論と、フランシス・ベーコン的な帰納法的方法論の双方を皮肉る。だが、直観で語るとは、どんな方法論を用いたところで、人間が認識できる閉じられた領域で議論されているに過ぎない。人間の認識できる宇宙は、特異点という限られた世界でもがき続ける。はたして、限定宇宙の中で、哲学的論考だけで真理に近づくことができるのだろうか?アリストテレスにしてもベーコンにしても、彼らが自負しているほど深遠な論考ではないのかもしれない。
本書に展開される宇宙論は厳密な科学論文などではない。既に確立された真理への方法論に対する揶揄に過ぎない。そこには、科学への愚痴っぽい話を詩的な表現で綴られる。だからと言って、本書が科学の領域から飛び出しているとも考えにくい。物質的宇宙論に対する詩的宇宙論とでも言おうか。詩的思考が真理を導く可能性がないとも言えないだろう。本書はむしろ芸術の領域に近いが、それでも科学の領域に違和感なく存在し続けるような不思議な世界がある。もちろん、神学の世界でもない。なぜか?こうした科学の精神的な考察には癒されるものがある。それだけ歳をとったということか?いや!それはありえない。アル中ハイマーの年齢はモジュロ計算とともに常に生まれ変わるのだから。サイクリック宇宙論のように。そして、周りの人々はどんどん追い越していく。あれ?宇宙は、膨張と収縮を繰り返しながらエントロピーを蓄積してるんじゃなかったけか?なるほど、歳を重ねるとは、エントロピーの蓄積を意味するようだ。
本書は、物質の基本要素を「引力」と「斥力」の二つのみと断定し、宇宙構造をこの二つの要素のみで語る。そして、二つの基本要素を「神の心臓の鼓動」と表している。
ところで、物事の本質を探求することは、よりプリミティブな方向へと向かうのだろうか?科学は宇宙を解明するために原始粒子を探求する。芸術は美を解明するために自然を探求する。哲学は人間精神を解明するために実存と対峙する。そして、人間は最高位の価値観である幸福のために「笑い」の感情を求める。プリミティブな「笑い」には、箸が転がるだけで笑える感覚にこそ本質がある。したがって、アル中ハイマーは女子高生に弟子入りしようと、逆援助交際を目論むのであった。

1. 無限の概念
人間の認識は、無限の概念をあっさりと受け入れる。人間はなぜ?このやっかいな概念を受け入れられるのだろうか?微分という数学の道具を使って「無限」に近づこうとする。だが、永遠に近づこうとするということは、永遠に到達できないことを意味する。逆に、「有限」の概念を考察すれば、それだけでは語れる世界が狭いことに気づかされる。「無限」の概念は、単に「有限」との対比として存在するだけなのかもしれない。単に、「無限」の概念を受け入れながら、精神の安住を求めているだけのことかもしれない。
ところで、本当に限界に達してしまうから有限なのか?有限と無限の境界には、いったい何があるのか?「俺は酔ってないぜ!」と永遠に酔っ払っていることを否定し、どこまで飲めるか限界を試す。だが、記憶を辿れないから永遠に飲める量が解明できない。つまり、有限も無限もその境界線は永遠に解明できないというわけだ。そこで、アル中ハイマーはある結論に達する。表面的には酔い潰れてその場に寝込んでいる状態が有限の概念であり、精神だけが「ああ気持ちええ!」と幽体離脱した状態が無限の概念であると。人間は、無限という実体があるのかも分からない言葉に惹かれる。人間の精神には、幻影を追いかけ続ける性質があるのだろうか?得体の知れない観念を熱烈に求めるのは、人間の持つ本質なのかもしれない。だから、実りもしない愛を求めるのだろう。愛は実を結んだ途端に興ざめするものである。

2. 引力と斥力
すべての物体は原子粒子から構成される。宇宙も原始粒子から成り立つ。では、原始粒子はどこまで極小なのだろうか?引力によって、原子相互作用の中で物質の構成が維持されるが、双方の原子が無限に接近しても接合することはない。そこに斥力が存在するからである。斥力は絶対に極小粒子の融合を許さない。引力はニュートンの重力法則によって説明される。では、斥力の正体は?時には熱、時には磁力、時には電気であって、二つの物体の異質性の原理に基づく。これは、二人の男女がどんなに愛し合って合体しようが、決して心が一つになることはありえないことを教えてくれる。人を強制しようとすると必ず反発力が発生する。
本書は、引力と斥力の基本原理を、物質的なものと精神的なものを融合しながら語る。引力を肉体とするならば、斥力は魂という形で表現しながら、前者は物質の本質を暴こうとし、後者は精神の宇宙原理について考察する。そして、宇宙は引力と斥力によってのみに支配され、物質の正体は引力と斥力の要素のみで説明できると主張している。これは、人間の死で、肉体が亡びると魂も亡びると言っているのか?これは、どこぞの宗教を否定しているのか?酔っ払いの解釈はますます拡がる。

3. 拡散宇宙
本書は、拡散の均等性から真理へ迫ろうとする。そこにはビッグバン説とも言える世界がある。ポーが生きた時代からするとビッグバン説はずっと後に登場するが、観測的な知識があったのだろう。それとも、宇宙創造説という宗教的思想からの派生か?ここでは想像するしかない。星が宇宙空間に無限に拡散している状態を説明するには、放射の観念を必要とする。その出発点を絶対的な点とするならば、現存する宇宙はこの点からの放射の結果ということになる。本書は、これを光の現象で説明する。つまり、光は発光地点を中心に放射される。放射が距離の二乗に比例して拡散すると仮定するならば、逆に物理現象である集中は距離の二乗に反比例して収縮することになる。そして、放射された物質が復帰する仮定には、重力の増大という直観的結論に達する。まるで拡散宇宙にブラックホールを対比するかのように。
ところで、拡散の均等性には真理があるのだろうか?天文学では、ビッグバン説を補完するためにインフレーション理論が登場した。つまり、宇宙の平坦性を説明するために、瞬間的な膨張期間があるという仮説である。だが、本書の思想からすると、こうした特異期間を持ち出す発想そのものを嘲笑している。現在ではサイクリック宇宙論の登場で、拡散と収縮を繰り返しながら徐々に宇宙が巨大化したという説が有力である。そうした時代の流れを、本書は先取りして直観的に示唆していたのだろうか?
「反作用とは現状の、そして不当な状態から、原初的既往の、それゆえに正当な状態に復帰せんとする傾向のことである。... そして、その反作用の絶対的強度は、もしその原初の事態の実体、真実性、絶対性、を測定しうるとするならば、それらと常に正比例するにちがいないのである。」
この言葉は、拡散宇宙が、いずれ収縮に向かうことを示唆しているかのかもしれない。
ところで、爆発的な人口増加や、複雑化する人間社会は、エントロピー増大の法則に従っているのだろうか?いずれ反作用によって、人口増加は減少に転じるのかもしれない。ただ、宇宙の規模に比べれば、人口増加など些細な現象である。人類が一瞬のうちに滅亡しても、些細な特異点として片付けられるだろう。人間の存在は、宇宙法則の中に紛れた気まぐれな特異現象の一つに過ぎないのかもしれない。

4. 生命の進化
「地球の生命力の進化の度合いは地球の収縮の度合いと一致するという命題に到達する。」
動物の系譜をたどると、地球の収縮が進行するにつれて、より優れた種類の動物が出現したという。地球上の変革が起こるたびに、それにともなった生命体の進化があったと。ここでは、地球に及ぼす太陽の影響力が変化するたびに、生命体に影響がもたらされるという仮説を立てている。
そういえば、子供の頃、太陽系を眺めた時、直観的に太陽を原子核、惑星を電子と重ねたものだ。そして、どんな小さな空間にも、極小の宇宙が無数に存在するのではないかと想像したものだ。自然法則が引力と斥力のみで支配されるならば、太陽系はすばらしい原子モデルである。それも、学校帰りのラーメン屋でいつも考えていた。スープの中にも宇宙があって、極小の生命体が存在するかもしれないと。麺を浸すと、スープの波が発生して突然の宇宙変革が起こるなどと。また、生命体の大きさは、そこに住む天体の質量によって相対的に最適化されるに違いないと考えたりもした。時間の概念も、生命体の住む天体の質量に応じて、長さの感覚が得られるのではないかと。同じレベルで考えるならば、人類の住む宇宙はグラスの中に注がれたアルコールの中に存在するのかもしれない。そして、太陽系はアルコール原子だと考えれば、俗世間に酔っ払いが溢れるのも説明ができる。酔っ払いは同じ言葉を同じ調子で口走る。これがステレオタイプというわけだ。時代が経てば、アルコールの熟成度も上がって、強烈な酒へと変貌していく。そして、人間社会の泥酔度も増していくのだろう。
ところで、科学の進歩に限界があるのだろうか?と考えることがある。科学の進歩は、宇宙の誕生から消滅までの仮定に同期しているのではないかと。つまり、現在は宇宙の青年期で、科学の進歩には無限に広がる可能性を感じる。いずれ膨張が停止すると、科学の進化も壮年期に入り、過去の知識に立ち返り、立ち止まる運命を背負う。そして、宇宙が収縮し始めると、科学は結末の覚悟を決める。この時に、人間は絶対的な価値観を会得できるかもしれない。ただし、宇宙消滅まで人類が存続できればの話だが。

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