2009-08-30

"反社会学講座" Paolo Mazzarino 著

さて、今日は国政選挙だ。とはいっても、いつも期日前投票で済ませる。今回は異様な盛り上がりを見せるが、政権交代したところで、巨大官僚体制に変化をもたらすことはできないだろう。ひょっとしたら、もっと酷いことになるかもしれない。だが、いつかは混乱期を迎えなければ、政治家も民衆も目が覚めないだろう。大物議員が落選すれば、派閥の性格も変わるかもしれない。日本社会は、その混乱期を経験することを、ずーっと先送りにしてきた。おかげで、行政をマネジメントできない政治家たちが蔓延り、ついに巨大官僚体制が完成してしまった。政治や行政の検証を怠ってきた付けがまわっているだけのことである。いずれにせよ、政局の安定までにはかなり時間がかかりそうだ。それまでは官僚支配が続く。さて、あと何年か?いや何十年か?民主主義への道はまだまだ長い。日本社会は、まだ政策論議の段階まで辿り着いていないのだろう。
ところで、選挙といえば、わけの分からない仕掛けが何十年も亡霊のように居座り続ける。その代表が、最高裁の国民審査であろう。投票用紙に×印を書かなければ、自動的に信任されるとは、これいかに?そもそも罷免された例があるのか?信任方向にバイアスがかかる仕組みが、民主主義のシステムだとは思えない。社会の反抗分子としては、全て×印を書いてきたが、最近はネット情報で判決状況が容易に分かるのがありがたい。インターネットというメディアが一般の報道機関を補完する役目を担っているのも事実である。また、選挙区の規模に目を向けると、国政選挙は小さな地方選挙の規模に過ぎない。だから、地元への癒着が強すぎて国政を疎かにする。知事選の方がはるかに多数から支持されるのだから、知事の方が権威があってもよさそうなものだが。国会議員の権威を持たせる意味でも、議員数を思いっきり減らすしかあるまい。更に、一票の格差にしても、民主主義のシステムとして妥当なのか?などと仕組みにかかわる疑問は多い。にもかかわらず、政党論争にかかわる情報は氾濫しても、選挙システムそのものの欠陥を指摘する情報があまりにも少ないのはなぜか?なるほど、民主主義のシステムを話題にしたところで、ワイドショーとしては成り立たんというわけか。

それはさておき、酔っ払った天の邪鬼は、あえて反社会学のネタを選ぶとしよう。どんな学問や思想にも、主流派と反主流派がある。アル中ハイマーは概して反主流派を好む。まさしく、本書は反主流派に属すもので、社会学をパロディーで綴り、社会学者を思いっきり皮肉る。そして、アンケートの調査や統計データだけで、あらゆる人間の心理状態までも結論付けてしまう学者たちのスーパーテクニックを披露してくれる。どんな現象も統計データで武装すれば見映えがいい。そして、前提条件を隠蔽しながら都合の良いデータばかりを強調すれば、見事な統計マジックの出来上がり!
本書は、社会学とは、社会学者の個人的な偏見を屁理屈で理論化したものだと指摘している。世間でいう「こじつけ」を社会学では「社会学的想像力」と呼ぶそうな。麻薬の実態調査では、アメリカにおける意外と低い数字を紹介しながら、本当に裕福な格好をした社会学者が、命がけでスラムに出向いて調査したのか?と疑問を呈する。そういえば、不思議な統計に性行為の時間というものを見かけたことがある。それも各国別に集計されるからおもしろい。そして、日本人は淡白と評価される。しかし、誰か見たんかい!見栄もあれば愚痴も吐く。性行為の手段もまちまちだろう。見詰め合う時間?手が触れ合う時間?それとも合体時間?まだしも、満足度や円満度で調査した方が良さそうなものだが。ちなみに、アル中ハイマーは前戯に目がない。
マスコミは性懲りもなくヤラセ報道を続ける。ナレーションもドラマチック!視聴率戦争とは恐ろしいものだ。だが、視聴率って本当に信頼できるのか?従来の民放を観るという人も思いっきり減ったような気がするが、たまたま酔っ払いの周辺だけか?
本書は、社会学者と心理学者が組んで、それにマスコミが加われば、世界征服も夢ではなくなると言わんばかりに捲くし立て、思わず!ニヤけてしまうような作品である。もちろん、アル中ハイマーはこれを正統派社会学と解釈している。

マッツァリーノ氏曰く、「問題は、自分をダメな学者だと自覚している学者は、一人もいないということだ。」
「社会学的な方法論とはなにか?それは、世の中が悪くなったのは、自分以外の誰かのせいだと証明することです。」

日本社会には実に多くのタブーが存在する。タブー化しながらエセものを寄生させる背後には、マスコミや権力者の影を感じる。だが、タブーを避けていては議論は空論化する。マスコミなどで露出される学者や識者たちが、本音を避けているのか、ほんまに鈍感なのかは知らん!ただ、マスコミに信頼を持てない人が、マスコミの誘いに乗って出演するのも奇妙な気がする。近年では、少子化タブーや環境タブーも登場する。本書はこうしたものにも突っ込みを入れてくれるので、ストレス解消によい。
ところで、著者パオロ・マッツァリーノ氏とは何者なのか?父親は寡黙な九州男児でマッツァリーノ家に婿養子、母親は花売り娘。父親の仕事は家族の間でも謎で、深夜に出かけることが多いことから、スパイかマクドナルドの清掃員ではないか?という。マッツァリーノ氏自身は、千葉県に住み、講師の他に立ち食いそば屋でバイトしているという。自称「戯作者!」戯作者とは、江戸時代、庶民向けに面白い本を書いた人たちで、明治時代に廃れたそうな。立川談志は落語家だが、初代談志は戯作者だったそうな。マッツァリーノ氏は、厚労省の会議にも出席した経験があるらしい。その会議の実態を暴露する場面では、参加人数が多すぎるために議論が平行線をたどる様子が描かれる。しかも、長嶋茂雄風な英語まじりで何を言っているのか分からない学者まで登場して混乱させる。なるほど、かなりの日本通で、この観察力からして代々スパイ一家なのかもしれん!

人口が増加すれば、様々な生活様式が現れるのも自然であろう。人間の多様性を否定しては、社会分析などできるはずもない。しかし、現実には一方向からの価値観しか持てない連中によって世論が煽られる。マスコミの論調から外れた人は、まるで社会の害虫のような扱いを受ける。フリーターやパラサイトシングルなどがその典型で、自立できない人間と蔑まれる。
しかし、だ!そもそも自立した人間などいるのか?彼らの中には自らのリスクを背負って生きている人も多い。定年まで安定した給料を当てにし、退職すると年金をたかり、一生を安穏とした立場で生きることが、はたして自立した人間と言えるのか?低賃金労働者のおかげで正社員の給料が安泰とは、これいかに?大企業に恨みつらみを持ちながら、にこやかにしている下請け業者も少なくない。健康診断にしても組織格差があり、胃や大腸で内視鏡検査を組織側で負担するところもあれば、形式的で終わるところもある。優遇された人間は、優遇されていることにも気づかないだろう。現役労働者を犠牲にしながら企業年金制度をいまだに固持している会社は、通常の年金受給を放棄すればいい。いずれ、正規雇用と非正規雇用の境界線も曖昧になるだろう。そして、会社が潰れた時に真っ先にうろたえるのは正社員であろう。現実に、定年を迎えて生き方が分からない人も少なくない。何のために仕事をしてきたのか?どうやって生きていくのか?それは定年のない主婦の方が理解しているように思える。キャリアウーマンでなければ能力がないなんて考えるのもナンセンスであろう。そういえば、政治家の発言に「女は子供を産む機械」というのがあった。「男はその機械にさす油でしかない」というわけか。ちなみに、おいらは主夫になりたい!そこのホットなお嬢さん、いかが!
議員定数を減らすとなると、最もうろたえる連中が騒ぎ出す。これが自立した人間の姿か?自立していると思い込むことで他人との差別化をはかり、精神の安住を求めているに過ぎない。有効求人倍率が低い中で、誰かが失業という犠牲を背負わなければならない。本当に、優秀な人材から職にありつけていると言えるのか?ちょっと視点を変えれば、他人に仕事を譲っていると解釈できなくはない。これはプータローのひがみか!少なくとも、世襲議員が「自立しなさい!」と説教できる立場にはないだろう。
世論が求める自立とは、核家族化を促進して、人口増加を煽る。これが、親の面倒を福祉施設に押し付け、社会保障費を拡大していると解釈することもできよう。一方で、親の年金を当てにしながら大家族化するということは、生活効率が上がることでゴミが減って環境的であり、社会保障費の効率を上げて社会貢献していると解釈することもできよう。パラサイトシングルだけでも、いろんな立場の人がいる。自由を謳歌する人もいれば、痴呆症や障害者を抱えて介護を強いられる人など、その多様性には限りがない。フリーターにしても、社会保障なしの低所得者の存在が製造コストに貢献している。機械の設備投資と低賃金労働者とで、コストの天秤にかけられる。機械コストの方が有利となれば、どっちにしろ低賃金労働者は失業する運命を背負う。企業は、機械に徹することを低賃金労働者に要求する。機械に徹するということは、力仕事が要求される。となれば、若年層へ目が向けられる。しかし、いずれ彼らも歳をとる。そうなってから職業訓練をしたところで効果は期待できない。つまり、最初から低賃金労働者としてレールが引かれた構造がある。だが、政治や行政は一方向の価値観しか持てない連中で議論される。そりゃ政策が的外れになるのも仕方があるまい。自立を叫べば他人を犠牲にし、自己責任を叫べば他人に責任を押し付ける。人間社会とは奇妙な世界である。
本書は、フリーターやパラサイトシングルが日本の社会制度を救うとまで語っている。「フリーターが200万人いる。パラサイトシングルが100万人いる。ひきこもりが100万人いる。このままでは日本はだめになる。」といった具合に煽るのは、「社会の寄生虫であるユダヤ人がいなくなれば良くなる」というヒトラー説と同列だという。ヒトラーは民族の多様性を否定した。本書の根底には、人生の多様性を否定する論調への批判があるように思える。

ところで、民俗学や文化人類学と社会学の違いには、言語学と国語学の違いに似た事情があるという。言葉の使い方が変化しつつある時、その変化をおもしろがるのが言語学者で、言葉の乱れを説教するのが国語学者といったところか。言語学的には、正しい日本語なるものは存在しないそうな。仕事の専門用語でも、会社や組織によって微妙に使い方が違うことがある。そして、一つの文化に染まっていることすら気づかない人から馬鹿にされる。逆に、好奇心旺盛な人は、そのニュアンスの違いを楽しんでいる。社会学者も正しい社会のあり方があると信じて、それを強要する人種だという。なるほど、社会学にもいろいろな立場があって、経済学的傾向と、人類学や比較文化的傾向といった違いだけでも学者の性格がまるっきり違うようだ。

1. スーペーさん!
社会学者は、言葉を定義せずに使う習慣があるという。なので、知らず知らずのうちに拡張した別の概念へと平気で飛び出していくのだそうな。哲学者の中に社会学を嫌う傾向があるという。なるほど、哲学は言葉の定義を明確にしたがる学問である。とはいっても、その定義もしばしば変化するが。
本書は、積極的な悲観主義者によって社会学が荒らされていると指摘している。悲観主義者は、なにかと問題を持ち出して、当たればそれみよ!とばかりに勢いずく。つまり、逃げ道をいつも確保しているズルい連中だというわけか。フリーターやパラサイトシングルやひきこもりを無責任と蔑むが、実は根拠もなしに悲観論を煽る連中が最も無責任であるという。まさしくマスコミの論調は正義感たっぷりに問題意識を煽るが、その根拠を証明しようとはしない。悲観論者でも消極的ならば、あまり社会に悪影響を与えないが、積極的な分やっかいというわけか。本書は、超悲観主義者をスーパーペシミスト、略して「スーペーさん」と呼んで思いっきり蔑む。その思考論法は、次の手順を踏むという。
(1) 社会は悪くなる一方だ!
(2) 自分は社会に迷惑をかけていない。いや!社会に貢献している。
(3) 自分の生き方は正しい。自分と違った生き方をしている奴らは間違っている。
(4) したがって、社会が悪くなったのはそいつらのせいだ!

なるほど、優れた理性の持ち主で自分の道徳観に絶対的に自信を持った人間でなければ、到達できない思考回路だ。超悲観主義者のくせして、自論を前向きに捉えるというのもおもしろい!社会学者の一般的な研究方法は、まず、新聞やテレビ報道で、気に食わない人間、こてんぱんにやっつけたい憎らしい人間を見つけるという。これは個人的感情論で。次に、その批判対象を落ち着いた雰囲気で分析して結論を出すそうな。これも感情論で。こうした思考を、理系では仮説と呼ぶが、社会学では仮説と結論が同義であるという。都合のよいデータだけを抽出したり、データを誤読することは、社会学上で重要なテクニックで、手頃なデータが入手できなければ海外に目を向けるという。欧米のデータならば、日本人の西洋コンプレックスを刺激できるというわけか。おフランスの芸術を浴びせ掛ければいちころだ!
「個人的な結論を一般的な社会問題にすりかえて、大袈裟に煽り立てよう!」
これが社会学の基本だという。

2. マッツァリーノの法則
「メラビアンの法則」というのを、時々見かける。この法則によると、伝達術で効果的なものに、次のような実験結果があるという。
「見た目、身だしなみ、表情などが、55%。声の質、大きさ、テンポなどが、38%。言葉の内容が、7%。」
一見、なるほどと思わせる。そして、この法則を信じて、やたらと表向きの指導をする企業が多いという。あらゆる社会学の法則には前提条件がある。言葉で7%しか伝わらないなんて、どうみてもおかしい。ならば、なぜ外国語の勉強に熱中するのか?確かに、見た目の印象は大切である。しかし、内容が伴って初めて成立する条件であろう。エンジニアには第一印象の悪い人が多い。だからといって、蔑んだりはしない。むしろ、お調子者の方が怖い。一度しか顔を合わさないなら、この法則も役立つだろう。なるほど、オレオレ詐欺で参考になるというわけか。お互いに心が通じるなんて恋愛ドラマのようなことを言ったところで、はっきりと言わないと揉めるのはどういうわけか?そこで、対抗して「マッツァリーノの法則」を紹介してくれる。
「研修屋が教えることの55%はウソで、38%はハッタリで、真実は7%だけです。」

3. マッチポンプ
社会に問題がなければ、社会学の存在価値もなくなる。したがって、平穏な社会では問題を捏造するしかない。無理やり話題性をでっちあげて、流行りもしない流行語をでっち上げて視聴率を煽るのと同じ理屈か。これを「マッチポンプ」と言うらしい。自らがマッチで火をつけておいて、自らポンプで火を消す。マッチポンプはセールスの古典的テクニックでもある。災害の恐怖を煽った直後に災害保険の勧誘があったり、人々が不安を抱えている状況につけこんでカウンセリングが流行ったりと。なるほど、SPAMやDOS攻撃を蔓延らせ、セキュリティ会社やウィルス対策部門の存在価値を高めるようなものか。人口が増えれば、無理やり仕事をつくらなければならない。となれば、悪行も必要というわけか。ところで、カウンセラーの家庭って円満なんだろうか?だとすると、悩みがないことにならないか?となれば、悩み相談に答えが出せるのか?

4. 読書の是非
作家の中には、強制的、権威主義的な読書に批判的な人が多いという。何事も知識を得るのに、興味を持たなければ効果は期待できない。読書をすると賢くなるという学者の話をよく耳にするが、そう単純でもなかろう。テロリストやカルト宗教に嵌る人ほど、よく読書していそうだ。煮詰まった時に思考をリセットしてみることも大切であるが、余計な知識のために、そのリセットの妨げになることもある。
本書は、学習成績と読書時間が比例するのは、一日2時間までという統計データを紹介している。毎日2時間以上読書すると、成績が伸び悩むのだそうな。まったく読まないのも問題であるが、読みすぎるのも良くないというわけか。要するに、読書であれ、テレビであれ、ゲームであれ、一日2時間を超えるほど熱中すると、本業の学習時間が必然的に減って、成績が落ちるということらしい。おいらの読書時間もだいたいこんなもんだろう。その半分は、立ち読み時間を含むというズルをしているが。ちなみに、酔っ払いは頭の切替えが鈍いので、ほとんど土曜日に集中して読書する。
本書は、OECDの調査では読む時間を調査するが、日本の読書調査報告は冊数ばかりを問題にすると指摘する。確かに、冊数をたくさん読むことを推奨する学者をよく見かける。おいらは、一冊を読むのに時間がかかるので、冊数で評価されたら落ち込むしかない。貧乏性だから、くだらない本でも熟読して元を取ろうとする。だから、ハズレないように立ち読み時間も長くなる。そもそも、難しい本ほど読む時間もかかる。本書は、ハリーポッター三冊読んじゃった!と、ハイデカーの「存在と時間」の上巻をまだ読み終わらない!とを比べるのは統計の暴力だ!と語る。
ところで、義務教育で盛んに行われるのに読書感想文がある。そもそも、感想というのがクセモノだ!感想とは自由なはずなのに、先生が正しいと思う思想を押し付ける。子供たちも教師の顔色をうかがいながら、優等生を装う。したがって、感想文を書くことで文章が嫌いになる子も多いはず。おいらはその典型。
一般的に学問を早期に始めることを煽る風潮がある。子供はあらゆる知識を容易に吸収するから、それも間違いではないだろう。ただ、本書は、幼児英才教育にしても短期的には意味があるが、長期的には効果も期待できないと指摘している。大学ぐらいになって自発的に学習しなければ、結局学力低下は防げないという。なるほど、学問はいつから始めるというよりも、続けることの方が重要だというわけか。この続けるという行為が、最も難しいのであるが。

5. 少子化問題
本書は、少子化論者は決まって「少子化は子供をだめにする!」と唱えると指摘している。そして、子供同士の交流が減って社会性が育まれないとか、キレやすいといった感情論が氾濫すると。ならば、子供が多い都会には健全な子供が多く、子供の少ない過疎化の進む地域では問題児が多いということか?と疑問を投げかける。そもそも、欧米に比べて劣悪な住宅事情の中で、人口を増やす政策が本当に健全なのか?少子化問題を、日本人滅亡論のように煽りたてるのは、いかがなものか?戦後8000万人ぐらいの人口が、いまや1億2千万以上に増殖した。女性の育児環境にしても、女性の社会進出を促す上で、昔からあった平等の問題であって、本来、少子化とは別もののはずだが。結局、自分の老後の年金を確保するために、少子化問題を叫んでいるだけか?あるいは、年金スキャンダルを少子化問題で揉み消そうとしているのか?なるほど、厚生官僚が叫ぶわけだ。もしかして、少子化問題って平均寿命が延びることへの警告か?健康ブームへの批判か?
ところで、社会保険庁をはじめ行政スキャンダルが明るみになれば、暴動が起こっても不思議ではない。外国人からは、日本では暴動や革命が起きないと揶揄される。それが悪い国民性とも言い切れないのだが。高齢化が進めば、温和な社会になりやすいのかもしれない。サミュエル・ハンチントンは、15歳から24歳までの若年人口が20%以上を占めると社会的に不安定になる傾向があると指摘した。だとすれば、一概に高齢化社会が悪いとも言い切れない。

6. 環境問題
「ムダを経済効果といい替えるのは、諸官庁や特殊法人の間では常識です。ムダな支出が五兆円と聞けば、誰もが腹を立てますが、経済効果が五兆円ならば、国民の賛同が得られます。」
そもそも、地球温暖化にしても、科学的な根拠が完璧に得られているわけではない。ところで、エコポイントってなんだ?環境破壊度数か?ブラウン管廃棄物はどこへ行くんだ?本当にリサイクル効率が高いと信じていいのか?まだまだ使える物を...物の有り難味を子供に説教したところで説得力はない。まさか!ゴミを外国へ輸出してんじゃねーだろうな?日本を綺麗にして海外を汚染しているんじゃ、大人の行動を子供が尊敬できるわけがない。新型インフルエンザにしても、ワクチンの国内生産が間に合わなければ、海外から輸入する予算があるから大丈夫という発想も...ワクチンが足らない状況は海外でも同じはずだが。それにしても、エコポイントの申請の面倒さの上に、その後の時間のかかること。もう1ヶ月を過ぎるが、いまだに物が届かない。「エコポイント事務局」ってなんだ?まさか特殊法人か?わざわざ中央官庁に申請するのも効率が悪い。いずれにせよ、経済に長けた人間が考えた仕組みとは思えない。
本書は、冷静に事実を語っても、学問的や論理的正しさ一辺倒では注目されず、ゴアさんのように熱弁する方が評価されると指摘している。ただし、環境意識が、企業をはじめ人々に少しずつでも浸透するのは悪いことではない、とも語っている。その通りであろう。人間がどんなに努力しても自然現象には敵わないが、意識を持つことは大切である。本当に環境問題を考えるならば、人類を滅亡させるのが手っ取り早いが、それを受け入れることはできない。となれば、せめて人口をこれ以上増やさないぐらいか。あれ?少子化問題って人口を増やすことを奨励してるんじゃなかったっけか?

7. 自立の鬼
欧米人から日本の若者が自立していないと指摘されても、心配はいらないという。また、そうした外国人の意見を取り上げて、日本の若者に劣等感を植え付けようとする識者も相手にしなくていいという。欧米では、返済義務のない奨学金といった社会保障が充実していて、しっかりと寄生している実態があるようだ。日本の大学は、新入生からふんだくる高額の入学金と授業料をあてにして経営されている。しかも、通常の学部の在籍年数は8年と限りがある。だが、欧米では在籍年数に限りがないという。したがって、少子化は日本の大学経営を苦しくさせることになる。無理にベルトコンベア式に卒業させることもなかろう。本書は、大学の在籍年数の期限を無くすことを提案している。どこの国でも、若者が自立することは珍しいようだ。ただ、アメリカ人の傾向として、自立していると勝手に信じ込んでいる人が多いという。なるほど、アメリカの学生はカード破産している。
また、日本人は、他人に何かを頼むという簡単なコミュニケーションすら避ける傾向があるのに、空気を読んで構ってもらおうという心理が旺盛だという。ある婦人の告白記事で、イギリスでは駅の階段でベビーカーを運んでくれるが、日本ではそれがない!と嘆く様子を紹介している。しかし、階段で助けを求めれば、大抵の日本人男性は助けてくれるだろうと語る。日本人は、自分から頼みもしないで、他人は助けてくれないとひがみ、世間の人は冷たいと決め付けることで、自立の鬼になっていくと指摘している。
ところで、仕事と家庭を両立させていると自慢する評論家のスーパーおばさんを見かけるが、ほんまかいな?本書は、完璧に両立できる人もいなければ、完璧なバイリンガルもいないという。帰国子女というと、外国語も日本語もペラペラというイメージがあるが、だいたいどちらも中途半端なことが多いのだそうな。帰国子女に通訳させると、意思疎通が微妙にずれて、スリリングな業務になるんだとか。現実には器用貧乏ってことか。なんでもできるってのは、なんにもできないってわけか。ずっと日本で暮らすアル中ハイマーは、日本語も中途半端で面目無い。そして、中途半端な人生でも楽しければええじゃん!と自らを慰めるのであった。

8. 銀行系シンクタンク
銀行系や証券会社系のシンクタンクにお勤めのスーペーさんは、少子化が進めば、景気が悪化すると煽る。人口が減れば、渋滞も緩和し、広い家に住み、ぎくしゃくした社会が少しは緩和されそうなものだが。子供一人当たりの教育の場も充実しそうなものだが。彼らの経済予想ほど恐ろしいものはない。バブル崩壊も予測できない、いや!バブルの仕掛人だ!しかも、公的資金は真っ先に搾取する。生活保護者やニートを蔑む前に、公的資金をたかる銀行の方がよっぽど自立できていない。そもそも、人口増加を前提とした経済システムなんて、いつかは破綻するだろう。エコノミストは、少子化により労働力不足となり景気が悪化すると捲くし立てるが、現実には若年層の失業問題が深刻である。好景気になったところで経営陣の給料が上がるだけで、コスト削減に喘ぎながら格差問題を助長する。将来の労働力人口にしても、適正値を予測することは不可能であろう。いずれ、気候難民や環境難民が増えるかもしれない。世界的に人口は溢れているのだから。銀行系シンクタンクの経済予測に乗るのも、信じる側の自己責任というわけか。

9. ネット社会
ネット社会がなにも特別に高度な社会というわけではない。人間社会の一形態であって、社会問題の性格は昔と大して変わらない。したがって、特に崇める必要もなければ、特に蔑む必要もなかろう。電子メールでは、真意が伝わらないと言う人もいるが、電話が登場した時も、顔を合わせないと真意が伝わらないと言われた。新技術に馴染めないおじさんが「心がない!」と難癖をつけるのも、人類の伝統であろうか。
本書は、ネットでググれば、なんでも分かるという発想は、危険であると指摘している。ネット社会が人類の知を深めるという議論も怪しい。情報が溢れれば、エセ情報も拡がりやすい。知識が真実を無視して多数決に支配されると悲劇である。現実にウィキペディア崇拝者も少なくない。知識を得ると、逆に知識の無さが見えてきて、物事がだんだん分からなくなるような気がする。自分の知識に自信を持てば、思考力や判断力も横暴になるかもしれない。
娯楽の流れも、書物からテレビやネットなど多様化が進む。今ではあまり従来の民放を観なくなったという話をよく聞く。おいらもその一人であるが、テレビの情報に飽きたのかもしれない。それほど有用な情報が得られるわけでもないし、ニュースもほとんどダブる。ネット社会も情報が溢れているわりには、有用な情報を得るのが難しい。お薦め度数には、売り手の思惑が見え隠れする。すべての情報を相手にできるほど人生は長くない。そこで、いかに情報を捨てるかが鍵となる。雑音を気にしていては、前へ進むのが難しい。情報化社会では、情報を収集する能力よりも、捨てる能力の方が強く求められるであろう。何事をなすにしても、頑固さも否定できない。世間への反抗心が前へ進むパワーを与えてくれる。したがって、前へ進む力とは、情報を捨てる能力、あるいは忘れる能力であり、無視する力である。これが、悲観的思考から逃れる手段ともなろう。

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