2009-09-27

"対称性から見た物質・素粒子・宇宙" 広瀬立成 著

ブルーバックス信者を返上したはずなのに、いつのまにか買っている。もはや泥酔した精神は、衝動には勝てないのか?本書を眺めていると、なんとなく「対称性」を語りたくなる。酔っ払いにとって、自我の対称性を映し出す小道具といえば鏡である。その証拠に、鏡の向こうの赤い顔をした住人が、延々と話しかけてくる。ちょっとうるさいが、その付き合いの良さには感服する。なにしろ、いつも一緒に酒を酌み交わし、いつも一緒に酔い潰れるのだから。

人間の住む宇宙には、実に多くの対称性を見出すことができる。天体の姿には球形といった点対称があり、人類の住む地球も丸い。自転しているのでわずかに遠心力によって外側に膨れてはいるが、軸対称性を保っている。地球にも太陽系にも銀河系にも中心がある。そうなると、宇宙にも中心がありそうな予感がする。量子論者は、物質の誕生には無理やり反物質を登場させてエネルギー保存則になんら矛盾することなく宇宙の起源を説明してしまう。ここにも、物質に対する反物質という対称性が現れる。古代、惑星の運動が円軌道を描くと想像したのも、そこに自然法則の美しさがあると信じたからであろう。
生物に目を向ければ、人体にも左右対称性がある。DNAの二重螺旋構造の美しさには神秘を感じざるを得ない。生と死という対称性を感じるのも、永遠に避けられない現実である。対称性とは、生命の進化の過程で安定性を保つために現れた性質なのだろうか?ポーは、著書「ユリイカ」で、物体の本質は引力と斥力の二つの対称性のみで成り立つと直観的に語った。
数式に現れる左辺と右辺の対称性にも、数学者を虜にする何かがある。実数と虚数、実空間と仮想空間、有限と無限など、対称性を語る用語には限りがない。
科学現象に対称性が現れると、普遍的原理が内包されている可能性を想像する。電荷にはプラスとマイナスがあり、電磁波は電場と磁場が直交する。あらゆる自然現象には、波動や振動が現れ、分解と統合を繰り返す。しかも、波には永遠に直進する性質がある。こうした対称性の美しさに人間の精神が反応するのは、そこに真理があるからかもしれない。
また、人工物の中にも建造物や芸術作品に局部対称性が現れる。芸術家の精神には、対称性の美を求める衝動があるのだろう。合理性と非合理性の葛藤、欲望と抑制の葛藤、感情と理性の葛藤などなど。人間の精神は、主観性には客観性で均衡を保とうとする衝動が働く。あらゆる論争やイデオロギーにも対称性が現れる。政治屋は自らの意見をそれらしく見せるために対抗意見を無理やりでっちあげ、報道屋はあらゆる関係を対立構図で煽る。人間の集団によって引き起こされる社会現象にも、振動を続ける対称性が現れる。保守性と革新性の対立や、自由と平等の綱引きは永遠に続く。哲学的論争も、実存するかしないか、意味があるかないか、いまだに答えが見つからない。
人間の精神は対称性に調和を求め、そこに精神の安住を求めているかのようだ。幸福と不幸の相殺、夫と妻、やはり対になると精神は安らぐということか?ちなみに、アル中ハイマーの精神は、一夫多妻、いやハーレムの方がはるかに安らぐ。

宇宙原理が、創造と破壊を永遠に繰り返すことだとすれば、対称性は安定する力と解釈できる。だとすると、安定を破壊する力も、これまた対称性で説明できるはず。そして、自己言及の罠に嵌り、矛盾の概念を避けることができなくなる。まさしく不完全性定理だ。
人間の住む宇宙には、これまた多くの非対称性を見出すことができる。人体が左右対称とはいえ内臓に目を向ければ、その配置は、機能を無理やり押し込んだようにも見える。心臓は真ん中にはない。右脳と左脳でも働きが違い、左利きや右利きといった現象がある。右脳と左脳の大きさにも違いがあると言われるが、他の動物に比べれば論理的思考が強いのだろう。あらゆる機能が生存競争の過程で合理的に形成される。生物の自己複製能力は、まさしく驚異である。だが、遺伝子システムは、ごく僅かな確率で遺伝子コピーに失敗して障害者を誕生させる。
宇宙は、もともと対称性の高い単純な姿をしていたに違いない。それが対称性を破りながら複雑系へと変化してきた。これがエントロピー増大の法則なのか?宇宙の真理の背後には、ランダム性が潜んでいるように映る。素粒子のように物質の基本をなすものが球形をしているのに、様々な物体はごつごつした岩のような複雑な形状をしている。だが、トポロジーの世界では、これらを同相で抽象化してしまう。もしかしたら、単に人間の目が複雑に見えているだけのことかもしれない。いや!人間の認識が複雑化しているだけで、実はすべての現象は単純のままなのかもしれない。
だが、人間は複雑系を確率論に持ち込んで説明しようとする。量子論では、エネルギー準位によって粒子の存在確率を議論する。コンピュータには、周辺の磁気装置や記憶素子の性質に合わせて誤り訂正機構が組み込まれる。コンピュータは完璧な装置ではなく、確率論に持ち込んで実用レベルに押し上げているに過ぎない。インターネットの検索でも、完璧な検索結果を時間をかけて得られるよりも、だいたい正しいだろうとする結果を高速で得られた方が有用性が高い。
人間社会も複雑系に支配され、その分析は人間の手に負えなくなった。社会で発生する犯罪や事故も確率で議論され、意思決定にも多数決原理が働く。ネット社会を「大衆の叡智」と崇めるウィキペディア崇拝者も少なくない。人間は、真理よりも多数決に身を委ねる方が、幸せなのかもしれない。宗教的精神とは、思考することを放棄して、信じることに身を委ねる。知らぬが仏というわけだ。だが、知った時の反動は、憎悪となって倍増するからおもしろい。
ところで、人間社会は本当に自然法則に従っているのだろうか?対称性が宇宙原理だとすれば、神の存在に対して悪魔を登場させなければならない。となると、人間が悪魔である可能性はないのか?自然法則に従って創造される生命体は、その進化が絶頂となった時に怪物になる可能性はないのか?それが集団化すれば、リヴァイアサンになっても不思議ではない。そして、創造と破滅を繰り返しながら悪魔へと進化した時、仕方なく神が姿を現すのかもしれない。

対称性の美は、非対称性の存在によって意義を持つ。全てが対称性に支配されれば、対称性そのものの議論はなくなるだろう。対称性と非対称性の存在を意識できるのは、その上位から眺めていることになる。すると、これまた上位の対称性に支配され、対称性の階層構造が永遠に見てとれそうだ。対称性を振動と捉えれば、その階層構造も永遠に続いても不思議ではない。対称性を保った美しい状態は対称性を破る方向へと向い、対称性が破れた複雑系の状態は対称性を取り戻そうとする。バネを引っ張れば、もとに戻ろうとするかのように。
ところで、対称性の美しさを本当に理解できるのは、その真中で冷静に眺められる立場にある人たちであろう。量子の世界では、プラスとマイナスを介在しない中性子の存在がある。実は反中性子なんてのもあるらしいが。人間社会には、男女の性の間に挟まった中性が存在する。中性が最も美的感覚に優れているのかもしれない。なるほど、偉大な芸術家にホモセクシュアルと噂される人が多いわけか。

1. 鏡
レオナルド・ダ・ビンチは「絵画論」で、「鏡を君の指導者となすべきである」と語ったという。ダ・ビンチには、鏡を使った光の反射という科学的な視点で絵画を観察する力があったようだ。鏡に映される姿は、真実であるのは間違いないだろう。だから、人は自らの姿を鏡で熱心に観察する。女性は自らの体型を誤魔化すことなく眺めることができる。ただし、平面鏡に限る。なるほど、デパートの試着コーナーに凹レンズを設置すれば、売れ行きも違うわけか。鏡の中にはナルシシズムが現れる。ギリシャ神話に、水鏡に映った自分の美しい姿に見入って水仙の花になったという話がある。自己陶酔に陥るナルキッソスの話だ。これがナルシシズム(自己愛)の語源だという。なるほど、水仙をナルシスと言うなぁ。白雪姫にも「鏡よ鏡、世界で一番美しいのはだーれ?」というのがある。鏡はおもしろいもので、三次元空間を二次元空間に投射しながら、その姿を眺めることができる。つまり、次元の投射である。その性質では、左右が逆になるのに、なぜ上下は逆にならないのか?と、よく話題にされる。本書は、心理学者のおもしろい解釈を紹介してくれる。人間の目は左右の運動に慣れていて、上下運動に慣れていないとか、人体が左右対称となっているだけで、上下対称になっていないからとか、そこには重力的な要素が絡む心理的錯覚がある。いずれにせよ、科学的に説明するのは簡単である。光の進み方は、あらゆる方向に平等というだけのこと。

2. 量子世界の対称性
波は減衰することなく、いつまでも運動を続ける。電磁波の直進性は永続的である。この定常性を失うと永続的な運動はありえない。電子のようなフェルミ粒子は永遠にスピンする。ただ、量子の世界では、粒子性と同時に回折のような波動性も示す。一つの電子を観察するのに、光を当てるという行為では、電子の運動状態が変わるので正確な観測ができない。量子の世界では、もはや素粒子の運動状態において、位置と速度を精度よく決定することができない。複雑系の世界では、エネルギーの総和として観察できても、内部エネルギーは確率論でしか観察できない。ここに不確定性原理の登場を見る。となれば、人間社会のような複雑系では、個々の物体が人間であっても、集団になれば波動性を示して、波動関数が適応されても不思議ではない。マクスウェル方程式は、磁荷が単独では存在しないという前提から構成されるという。となると、モノポールは存在しないのだろうか?量子論では、プラスとマイナスに介在しない第三者の立場が登場する。電子のような粒子が存在すれば、陽電子のような反粒子が存在し、そして、中性子が存在する。ただ、反中性子も存在するようだが、電荷がゼロなのでその区別はつかないという。

3. 重力力学の限界とプランクスケールへの挑戦
電子の電荷は、真の電荷ではないという。1個の電子を真空中に置くと、そのまわりでは光子の放出と吸収が繰り返され、光子から電子と陽電子が対になって発生する。陽電子は中心の電子に引き寄せられ、逆に電子は反発する。中心の電子を囲む真空では、一様な分布からずれた仮想的な電子と陽電子が存在し、その結果、真空の分極が起こるらしい。実験で観測する電荷とは、真の電荷と真空分極の効果が重なったものだという。ここで注意することは、不確定性原理によれば、ある現象の時間が極端に短くなるとエネルギーが増加するということだ。電子と陽電子の生成や消滅は、極めて短い時間に繰り返されると、それらはエネルギー保存則に制約されることなく、非常に大きなエネルギーを持つことができるという。つまり、無限に多くの仮想電子と陽電子の対が存在し、真空分極の効果が無限大になってしまうというのだ。これは、量子力学で必然的に現れる場のゆらぎであって、「紫外発散」というものらしい。「くり込み理論」とは、こうした無限大の手におえない量を互いに引き算して、意味のある有効な量を導き出すという発想から生まれたという。一見無責任な演算にも見えるが。重力を量子論に適応すると、極端に短いプランク距離では、不確定性原理からゆらぎが生じる。二つの電子の間で生じるエネルギーも、逆エネルギーが生じてゆらぎ、エネルギーや質量を確定することができない。エネルギーのゆらぎは、常に同一方向で無限大となり、紫外発散を引き起こす。これは、時空が連続であるかぎり、局所的対称性の理論では避けられない障害だという。統一理論から大統一理論へと邁進した物理学は、くり込み理論とゲージ理論によって邁進してきたが、ここで壁にぶつかる。そこで、素粒子理論に「超ひも」が登場し、プランクスケールへの挑戦が始まる。

4. 超ひも理論の10次元
超ひもが持つ驚くべき性質は、高い次元を持つことである。時間1次元と空間9次元の10次元で構成される。本書では言葉が登場しないが、これがDブレーンというやつか。人類の住む3次元空間は、宇宙原理の限られた次元であることは、なんとなく理解できる。生命体が感じられない次元は、生きる上で認識の必要がないとも言える。いずれ、地球は消滅するだろう。生命が更に長生きを望むならば、突然変異によって、いままで感じられなかった次元を認識する能力を身に付けるかもしれない。科学の発展とは、生命体が生存し続けるための欲望なのかもしれない。あらゆる説明のできない複雑系の現象は、別の次元を加えることによって、エネルギー保存則、運動量保存則といった「不変」あるいは「対称性」の原理に帰着するという。とすると、あらゆる次元が解明された時、結局、ニュートンやユークリッドに帰着する可能性はないのだろうか?偉大な数学者が、若き日に哲学を蔑み、結局哲学へ帰依するかのように。ところで、対称性の概念からすると、存在するということは、存在しないことを意味しないのか?自由意志とは、コントロールできそうで手に負えない。神は人間を自由意志の存在を認識させながら、気まぐれによって支配している。いや!別の次元を登場させることによって、反自由意志なるものが存在するのかもしれない。人間が感じることができるのは重力である。しかし、時折、霊感的なものを感じる。これも別次元から発せられる重力波なのかもしれない。

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