2010-02-07

"若きウェルテルの悩み" Goethe 著

岩波文庫の表紙の文句で衝動買いしてしまうことがある。本書はゲーテの晩年の言葉で誘惑しやがる。
「もし生涯に、ウェルテルが自分のために書かれたと感じるような時期がないなら、その人は不幸だ」
ここには禁断の愛とその破局が描かれ、どう見てもアル中ハイマーの読む世界ではない。だが、今こうしてウェルテルを読んでいる。ゲーテだから読んでいるのだろうが...
本を選ぶ規準は人それぞれであろう。自分の置かれた境遇に類似した世界を求めながら、共感したいがために選ぶ場合もあれば、現実逃避を求めて選ぶ場合もある。本の世界には、精神を別世界へ誘導できるところにおもしろさがある。

人間は、愛する者が幸せになることだけでは満足できない。自分が幸せにしてやらなければ気が済まない。自分自身が介在できなければ不幸になることすら望む。単に恋愛で勝利したいがために。これが、人間の持つエゴイズムであり、人間特有の「所有の概念」といったところであろうか。実は、人生で所有できるものなんて何もないのに。人間にとって、自らの精神の弱点と正面から対峙することは難しい。人間は自らの精神を欺きながら生きている。自らの醜さを見ぬ振りをして生きている。そうでなければやってられない。自らを自殺に追い込んでどうする。自らの醜さと正面から対峙できる勇気は、凡庸な、いや凡庸未満の酔っ払いには持てそうもない。揺るぎない理性を獲得するには、あまりにも人生は短い。そして、泥酔した精神は現実逃避のために夜の社交場に執着する。お金を毟り取られると承知していても。「金の切れ目が縁の切れ目」というわけか。

本書には、なにやら懐かしい香りがする。恋愛は成就するまでの過程が最も幸せな時間であろう。そのじれったさが、切なさとなり苦しみとなるが、後に振り返れば、その時が最も幸せであったことに気づく。幻想を追いかけていると知りながら所有できない苛立ちさ、そのドキドキ感がなんともいえない。所有できないかもしれないという不安は、やがて奪い取りたいというスリルに変化する。不倫は禁断ゆえに燃え上がる。しかし、離婚してそれが成就した瞬間に急激に興醒めする。所有した安心感から緊張感を失い次の刺激を求める。人間は退屈さにすぐに飽きてしまう。精神は、してはならないという意識が衝動へ変化した時に興奮を駆り立てる。精神は怖いもの見たさという欲情に憑かれる。相手を知らないという情報の欠落感が想像を膨らませる。しかし、相手を知り所有できたと錯覚した瞬間から幻滅が始まる。そして、興味は次の所有へと移る。これは恋愛に限らず権益や物質的な奪い合いにも見られる現象である。これが人間の本性であろうか。
ところで、女性の向上心には目を見張るものがある。あれだけ化粧品に執着し、ダイエットに執念を燃やす生き物も珍しい。永遠の若さを獲得しようとする執念には、滑稽とも思える自己満足の世界がある。若いうちは、むしろ自然体の方が美しいのだが、ひたすら塗りたくるのは、もったいない!これが寿命を10年長くする秘訣だろうか?子供ができると、これほど豹変する生き物も珍しい。ちなみに、化粧をするということは、化生に変身するということか?これは、もののけや妖怪の類か?現実を認められる勇気が持てた時に、はじめて冷静な諦めが生じる。
アル中ハイマー曰く、「女は永遠の若さを求めて化粧を塗りたくり、男は永遠の若さを求めてホットな女性の尻を追いかけ続ける。」

本作品は、ドイツ文学を外国に広めた先駆けでもあるという。そして、ヨーロッパでベストセラーとなり、ウェルテル熱なる精神的インフルエンザが広まったという。若者がウェルテルの服装を真似たり、自殺したり、離婚が流行するといった社会現象を引き起こした。当時、ライプチヒ市会はこの作品の発売を禁じたという。同時代のナポレオンも本作品を愛読したと言われる。なるほど、ロッテへの思いは戦場からジョゼフィーヌ宛に書簡されたものに通ずるものを感じる。それは「ナポレオン言行録」にも表れる。
ゲーテは、薄倖なウェルテルの自殺を偉大な行為として描きたかったのだろうか?ここには、ある種の精神の解放が表れている。人間の存在のはかなさといったニヒリズム的な台詞が繰り返される様は、自らを励ましているかのようでもある。心の隙間を埋めるかのように。もはや、ウェルテルの悩みを救済できるのは「笑うセールスマン」しかいないだろう。

1. ウェルテルとゲーテ
本書は、書簡体小説の形態をとることで生々しさを演出する。それもゲーテ自身の体験に基づいているらしい。物語は、主人公ウェルテルが既にアルベルトとの婚約がきまっている女性ロッテへ憧れるところから始まる。二人は付き合うが、いずれ破局することが見えている。居たたまれないウェルテルは別れを告げずに町を去る。しかし、その後も、ロッテとの交際は続き、往復したり手紙のやりとりをする。やがて、成就するはずもない気持ちを、自虐心が追い討ちをかける。ウェルテルは、アルベルトとロッテとの仲を自分が破壊してしまったと感じて、しきりに自分を責める。そして、ロッテが尊敬するほどの女性であることを示そうとするが、この行為が自らを狂わす。数々の失策や屈辱の中でアルベルトへの反感も混じる。ついに、虚しさ切なさが自らを自殺へと追い込む。ウェルテルの死後、残された書簡がロッテに届けられる。そこには、死を決意した様子が感傷的な誇張もなく表される。これは絶望ではなく、自我の狂乱から解放するための自殺であると。ロッテはウェルテルを側に置いておきたかった、自分の兄弟にできたら、自分の女友達と結婚させられたら、などと呟く。アルベルトはロッテがウェルテルの死で感傷に浸るのを見て、おもしろいはずがない。
本書は、愛という熱病が、自らの理性を失わせ、人間のエゴイズムを剥き出しにする標本のようでもある。そこには、悪霊に憑かれたように自己分裂していく様や、熱病に侵された挙句、拳銃自殺するといった様が描かれる。晩年のゲーテは、この作品が出版されて一度も読み返したことがないと語ったという。
「あれは危険な花火だ!読んでいておそろしくなるし、生み出した当時の病的な状態をもう一度くりかえして感ずるのが心配だ。」
大学を卒業したゲーテは父の勧めでライン地方のヴェツラールに行き、帝国高等法院で裁判事務の見習をする。この地には頑固なほどの官僚的空気があったという。階級観念やプロテスタントとカトリックの対立が渦巻く。この町の雰囲気に反感を持っていたことも本書に表れる。また、作品でモデルとなった二人の人物が実存したようだ。アルベルトの原型となったケストナーと自殺したエルーザレムである。ゲーテはヴェツラールで最もケストナーと親しくしていたという。ケストナーは仕事に忙しく社交の席にも顔を出さない内気なタイプ。当初、彼のいいなずけのシャルロッテ・ブフ(愛称ロッテ)とゲーテとの仲に嫉妬や敵意をはさむことなく、むしろ両者を信用して歓迎していたという。ケストナーは本作品がヒットしたことに対抗して、真相を知らしめるために「ゲーテとウェルテル」という本を書いているそうな。友人エルーザレムは、教養も高く頭脳も鋭く、文学、芸術、哲学にも精通していたが、憂鬱で厭世観を持った人間嫌いな資質があったという。彼は人妻を愛し、成就しない恋のために自殺する。後に、ゲーテも人妻に恋をし、エルーザレムの苦悩を実感することになる。こうした背景が本作品を完成させたようだ。

2. 気に入ったフレーズをメモっておこう。
「世の中のいざこざの元になるのは、奸策や悪意よりも、むしろ誤解や怠慢だね。」

「威厳を保たんがためにいわゆる賤民から遠ざかる必要があると信じている人間は、敗北をおそれて敵から身をかくす卑怯者と、同じ批難に価する。」

「たいていの人間は大部分の時間を生きんがために働いて費す。そして、わずかばかり残された自由はというと、それがかえって恐ろしくて、それから逃れるためにありとあらゆる手段を尽くす。おお、人のさだめよ!」

「活動したり探求したりする人間の力には、限界があって制約されている。すべての人の営みは、しょせんはさまざまな欲求を満たすためのものだ。しかも、この欲求とて、そのねがうところはただ、われらのこの哀れな存在を引きのばそうとするにすぎない。」

「不機嫌は...愚劣な虚栄によって煽られた嫉妬とつねに結びついている。」

「全くぼくは一個の旅人、地上の巡礼者に過ぎない。」

人間の精神は、悩みにも苦しみにもある程度までは堪えられるが、やがて限界が訪れる。精神的にも肉体的にも限界を超えた時に、絶望を招いて生を絶つ。これを卑怯者と言えるだろうか?こうした病に陥った人の自殺する行為を弁明する場面で...
「冷静で理性的な人がこうした不幸な人間の状態を見ぬいても、それはむだです!忠告をしても、なんにもなりません!ちょうど健康な人が病人の枕頭に立って、自分の力をほんのすこしでも吹き込んでやることができないようなものです。」

「幸とか不幸とかは、けっきょくはわれわれが自分を対比する対象次第のわけだ。だから孤独ほど危険なものはない。...文学の空想的な幻想に煽られて、しらずしらずに存在の一系列をつくりあげてしまう。そして、自分はその最下位にいるが、自分以外のものはもっとすぐれている、他人は誰でもずっと完全だ、と思い込む。...自分に欠けているものは他人が持っているような気がするものだ。そればかりではない。自分のもっているものを全部他人に贈物にして、おまけに一種のこころよい理想化までする。このようにして、幸福なる人間像ができあがるが、それはわれわれ自身が描きだした架空の幻にすぎない。」

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