2010-01-31

"エチカ(上/下)" Baruch De Spinoza 著

ずーっと前からスピノザにちょっとだけ興味を持っていたが、この大作を目の前にすれば尻込みしてしまう。だが、泥酔した精神はその感覚さえ麻痺させる。アル中ハイマーにとって勇気とは、精神の泥酔状態を言う。

本書には汎神論と決定論の立場からの唯物論的世界観があり、スピノザの形而上学的な認識論が展開される。ただ、一般的な哲学が精神を探究するのとは少々違っていて、倫理観からの幸福や善を論じている。理論的な認識論というよりは、認識によって人間を救済することを主眼にしていると言った方がいいかもしれない。それは「エチカ」という題名からもうかがえる。「エチカ」は一般的には「倫理学」と訳されるようだが、ここでは「生き方」と言った方がしっくりする。当時、神の存在に対する独自の解釈が、デカルト主義の神学者たちから罵倒され、「エチカ」の出版はスピノザの生前には実現しなかったという。彼の宗教観には、民族的な背景も影響しているようだ。スピノザの祖先たちは、長らくスペインやポルトガルなどで宗教迫害によってユダヤ教からキリスト教に強制的に改宗させられた、いわゆるマラーネ(マラーノ)であったという。彼らがネーデルランドへ自由の地を求めて移住した頃には、既に宗教的思想は見失われていたという。彼らにとって新たな宗教観の構築が性急に求められ、幸福を基本とした実践的な思想が必要だったということであろうか。

本書の特徴は、幾何学的手法を用いているところであろう。それは、ユークリッドの「原論」を思わせるような記述に現れる。ただ、哲学を幾何学的に論じるのはそれほど珍しいことではないのだが。当時、この認識論の幾何学的展開は先蹤者デカルトの一歩後退と評されたという。しかし、スピノザが経験的持論を展開したことは、むしろ実践的功績を残したと評すべきであろう。彼の死後、一旦は危険思想の有害書として発売を禁止されたという。本書には「神」という言葉が頻繁に登場するので、そのまま受け止めれば神秘主義ともなりそうだが、神を宇宙原理に従った崇高な存在と解釈して、哲学的理性論と見る方がいいだろう。そう見えるのは翻訳の成果かもしれないが。ちなみに、各国の翻訳によって様々な解釈を生んでいるようだ。「神に酔える哲学者」として理性的な哲学的宗教と見る人もいれば、唯物論と見られたり、あるいはマルクス主義の先駆者という見方まであるという。
スピノザは用語の使い方にルーズなところがあるようで、一つの言葉を様々な意味合いで用いているという。そもそも哲学とはそうしたもので、哲学者によっては独自の用語を持ち出したりと、極めて抽象度の高い世界である。純粋な精神を探求すれば、言葉の限界とも対峙し、その境界線でさまようことになろう。自己精神の解明もできない人間によって形式化された言語という手段で、精神を完璧に言い尽くすことなどできないのだから。いずれにしても、著者がどんなに意図しようとも、読者の解釈に委ねられる運命にある。
「エチカ」には、壮大な観念が語られているにもかかわらず、序文がない。スピノザは序文を大切にするのが常で、その序文の位置付けに「知性改善論」があるという。解釈するのに困難な部分は、この「知性改善論」が参考になるそうな。ただ、上野修氏は、その著書「スピノザの世界」で、難解な文献なので解説書としては期待しない方がいいと語っていた。

本書の流れでは、一旦、自由意志は、神の自然法則に従うとしてその存在を否定されるが、理性概念によって復活させる。人間が自由意志を獲得するには、受動的感情から脱して理性と知性の支配を確立しなければならないと説く。そうすることによって、受動的感情は明瞭判然と認識されるとともに、受動たることをやめるという。つまり、能動的な精神の解放のみが、自由意志をもたらすということである。
また、精神の客観的認識が、感情の中にある神あるいは自然を認識させるとして、すべての正しい認識は、必然的に神の認識をともなうとしている。こうしてみると、宗教的哲学と言われるのも分かるのだが、「神」を「宇宙原理」との一体化と解釈すれば、ずーっと読みやすくなる。神秘主義というよりは、むしろ科学的な見地から眺める方が良さそうだ。いや!それは勝手な解釈であって、スピノザは本当に神秘的な世界へ引きずり込もうとしたのかもしれない。
本書は、精神が認識するものを、万物の本質である神や自然に属するものと直観的に把握することで、最高善や最高の喜びが得られるとしている。そして、精神の喜びと神の観念が結びついた知的愛という観念を登場させる。これは永続的な愛であって、理性的自己愛は神の境地と一体化するという。人間の精神は本能的に死を恐れるが、理性の獲得によって死は永遠となり、精神を死の恐怖から解放するとしている。こうした理性的で神秘的な領域に精神が到達することは困難であるが、不可能ではないと励ましながら次の言葉で締めくくる。
「すべて高貴なものは稀であると同時に困難である。」

「真に神を愛するものは、神からも愛されることを願ってはならない。」
神が完全であるならば、神は愛することも憎むこともしないはずである。なのに宗教はなぜ?神はすべての人間を愛すると教えるのか?なんと不合理な思考であろう。なるほど、神がどんな罪人でも愛するならば、犯罪者は宗教へ帰依するはずだ。どんな暴力も、どんな残虐も、すべて神が愛してくれる。したがって、宗教に憑かれた地域ほど紛争が多いわけか。「苦しい時の神頼み」というが、自分にだけ不幸が及ばないように祈ることは、神の意志を自己のエゴで支配できると信じている行為であり、もはや神の存在を否定していることになる。こうした矛盾する行動様式によって精神が不安から解放されるならば、それもよかろう。なるほど、人間の精神を救済するためには、どうしても「矛盾」の概念を必要とするわけか。神という概念は、不完全性や完全性といった区別すら抽象化してしまう、もっと超越した存在なのかもしれない。

1. 神について
本書は、神をすべての究極原因とし、しかも、神は何の原因性も持たない存在者と定義している。そして、神は無限にある属性から成り立ち、人間の自由意志も神の属性の一部であって宇宙原則に従うとしている。自由意志は三角形の内角の和がニ直角になるのと同じくらい必然的な存在であるといい、人間の自由を否定し、万物は神によって存在するという決定論の立場をとる。ここにはキリスト教の予定説的な思想が見えてくる。その証明では、自由意志が存在すると信じる人間が、自由意志や衝動の原因に対して無知であることから演繹している。ただ、前半部で自由意志を否定しながら、後半部の倫理的考察では、理性の獲得によって自由意志の存在を復活させることになるのだが。
そもそも、神は何かの目的のために宇宙を創造したのだろうか?もし、神に欲求があるとしたら、不完全性に支配された宇宙は考えにくい。いや!完全性や不完全性という区別に意味があるのか?神の創造物である人間は気まぐれに支配される。神の気まぐれにも困ったものだ。人間が永続的に存続しようとする欲求は、人間のエゴイズムであって神が望んでいるわけでもなかろう。神の意志とは、単にそこに宇宙原理なるものが存在するだけのこと。つまり、神に意志はない、人間の自由意志もない、意志なるものは幻想に過ぎないということか?

2. 精神について
人間の認識を、肉体と精神の二つの属性で論じ、これらの属性は一つの実体の二面性にほかならないという。精神は肉体を認識し、精神の内面をも認識する。そして、感情や欲望は一種の観念であって、精神もまた観念であると定義している。ここで観念と称しているのは、知覚は対象から受ける働きであるが、観念という言葉には能動的な印象を与えるからと言っている。この二面性は一体化しており、精神が充実すれば肉体の活動を促進し、精神が鬱になると肉体の活動を阻害する。
また、認識には、表象知、理性知、直観知の三つがあるという。表象知は感覚的経験に基づく認識であり、理性知は概念的で推論的認識であり、直観知は事象の本質を直接感じて神の依存の中に見える認識である。そのうち、表象知のみが誤謬の唯一の原因になるという。夢を見る認識とは何か?人間は愛という錯覚を夢見る。これも自然法則に支配された表象なのか?誤謬は人間認識の欠乏によって生じるという。なるほど、人間は理性を失うから結婚するのかもしれない。自由意志が存在すると信じたところで、その原因性を説明できる人間などいない。意志の本質を人間精神で解明しようとすれば、精神が精神を探求することになり、自己矛盾に陥るであろう。本書は、精神の認識は神の原因性によって存在するので、永遠や無限なる本質を認識するのは、完全に妥当すると言っている。

3. 感情について
人間のいかなる愚行や感情も自然の必然的現象なので、嘲笑したり悲しんだり侮辱したりしてはならないという。そして、人間の基本的感情を欲望、喜び、悲しみの三つに抽象化し、様々な感情はこの基本原理の合成から生じるとしている。欲望とは、自己保存のための衝動であり、自己の維持に有益なものを求める努力であるという。つまり、自己保存に有益なものを善と意識する。喜びとは、人間がより大きな完全性へ移行することの意識で、悲しみとは、人間がより小さな完全性へ移行することの意識であるという。人間精神は、自分の憎むものの存在を排除しようと努力する。人間が自己の原因性を見出すことができなければ、絶対的な道徳観など獲得できるはずもない。人間が自己に対して絶対的な能力を発揮できると考えるのは、道徳家ぐらいなものだろう。親切の押し売りをする者ほど、相手に感謝されていると勝手に評価する。名誉欲は、何にもまして名誉を欲し、何にもまして恥辱を恐れる。これも人々に気に入られようとする努力である。他人の喜びを刺激すれば自らの喜びを刺激し、他人の悲しみを刺激すれば自らの悲しみを刺激する。そこには自己満足もあれば後悔もある。本書は、名誉欲と高慢さが結びついて、名誉を好む人間ほど高慢になり、周りから嫌われていながら気に入られていると思い込むようなことが容易に起こるという。これは、まさしく政治的思考回路ではないか。人間の判断は不安定なもので、しばしば自己の感情に支配される。喜びや悲しみをもたらすと信じて起こす行動や、所有しようとする欲望は、単なる幻想なのかもしれない。
「後悔とは、原因としての自己自身の観念を伴った悲しみであり、自己満足とは、原因としての自己自身の観念を伴った喜びである。そして、これらの感情は人間が自由であると信ずるがゆえにきわめて強烈である。」
感情は精神の受動状態であり、これは外的な原因性に基づいて決定付けられる混乱した観念であると語られる。

4. 自由人
人間の隷属は、感情抑制の上の無能力に由来すると説いている。通常の感情は、非妥当する観念から生じる感情と、外的刺激によって生じる感情といった受動的感情であるという。非妥当する観念とは、宗教的な信仰力の強い、半強制力から生じる感情のことである。人間の精神には限界があるが、宇宙に存在する外的現象には限りがないので、感情は受動的にならざるを得ないという。つまり、通常の感情は隷属から生じるというのである。その一方で、能動的な感情がある。それが理性である。理性による自己保存は、真の意味での自己保存であるという。理性によって自己の善と判断されるものは、他人にとっても善であり、利己は利他と連なるからである。ここで、精神が単なるエゴイズムに陥るかに見えた「エチカ」的見解は、理性主義的な倫理説へと変貌する。そして、受動的に生じる感情を善と悪に分類しながら考察される。理性を獲得した人間には受動的感情を必要としないという。ここに隷属的な感情から解放される原理が現れる。自己の本性は理性によって決定付けられ、この理性法則に従う人間を「自由人」と名付けている。
誤った観念は、真なるものが説明されたとしても除去されるものではない。例えば、太陽と月は似たような大きさで距離も感覚的に近くにあるように見える。しかし、真の大きさも距離も人間の想像を絶するほどの差がある。その事実を知ったところで、感覚的な表象が除去されるわけではない。どちらも、果てしなく大きく果てしなく遠いという意味では似たようなものかもしれないが。人間の精神には、誤謬と理解していても、感覚的に受け入れるところがある。これは、真であるという理由だけでは、すべての感情を抑制できないということを示しているのだろうか?人間が欲望を持つのは自然であって、欲望は自己の存在に固執する。幸福とは、自己の存在を維持できる安心した状態といったところか。自己保存の意志は本質であって、その価値を見失えば自殺といった行為も現れる。そこで、感情と理性の調和が求められることになろう。
本書は、貧欲、名誉欲、情欲は一般に精神病とは見なされないが、これも一種の狂気であると定義している。憎しみは憎しみ返しによって増大し、やがて復讐となる。憎しみで生きるのは惨めなもので、これを愛で克服するのが理性であるという。理性の導きによって生きる人間は、憎しみの感情に捉われぬように努め、他人にも憎しみの感情で悩ませぬように努めるという。自己満足は理性から生じることができ、理性から生じる満足のみが最高の満足になるという。そうなると、名誉は理性に矛盾せず理性から生じる可能性がある。いわゆる虚名であり、社会の影で名誉を求める者といったところだろうか。理性から生じる欲望は過度になることはないという。もし、理性の持つ欲望が過度となれば、それは人間を超越することになるからである。
「恐怖に導かれて、悪を避けるために善をなす者は、理性に導かれない。」
宗教の戒律や法律的な強制力によって導かれる善では、理性の構築は無理であろう。本書は、理性に導かれる人間は、恐怖によって服従に導かれることはないと語る。

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