2010-02-28

"存在と時間(上/下)" Martin Heidegger 著

マルティン・ハイデガー著「存在と時間」は、いくつかの翻訳版があるようだが、本書は、ちくま学芸文庫版(訳:細谷貞雄)である。

難解な哲学書を読むといつも思うことがある。用語の使い方が一語多義的とでも言おうか、その発言に一貫性さえ疑いたくなる。しかも、辞書にも載っていない作者独自の用語が登場し困惑さを増す。だが、その困惑さには真理という味付けがなされるせいか、心地良いものがあるから不思議である。哲学者は、人々が国語辞典の世界に幽閉されるのを横目で眺めながら、存分に自由を謳歌しやがる。哲学書とは、作者が自ら創造主となる世界というわけか。本書はその傾向が際立っている。翻訳するにしても、通常の日本語に対応させると違和感があるのだろう。おそらく研究者の間で、ハイデガー語録といったものが出回っているに違いない。あるドイツ人は、「存在と時間」は、いまだドイツ語ですら翻訳されていないと語ったという。そもそも、精神を表象するのに、言語体系で言い尽くすことなどできない。哲学するとは、言語の限界に挑むことであろう。したがって、哲学書が文学作品としての芸術性を発揮するのも道理というものである。
古来、人間精神は実存の概念と対峙してきた。「存在」とは、実に分かりきった概念であるが、その正体を厳密に暴こうとすると説明できない。そして、自己の存在そのものを疑いたくなる。不思議なことに、人間は物事を理解しようとすればするほど深みに嵌り、無限地獄に陥る。人間は解釈することができても、永遠に理解することはできないであろう。したがって、理解した気分になれることほど幸せなことはない。神は、人類が歴史をあげて永遠に見つからない真理に取り組んでいるのを眺めながら、滑稽に思っているに違いない。

人間の認識能力には、「存在」という基底認識があるように思える。つまり、認識は、精神の中ですべての対象の存在を意識するところから始まる。その対象が現実的に、あるいは仮想的に存在するかは別にして。これがデカルト的な実存であろうか。そして、「存在」の対象としてのスーパークラスに自己の実存があり、すべての認識はサブクラスとして派生しているかのように映る。これがプラトン風のイデア論に通ずるものを感じるわけだ。したがって、すべての認識は自己の実存を前提としている。その前提が崩れた時、自己喪失に悩み、精神分裂に陥る。人間がもっとも怒りを覚えるのは、自尊心を傷つけられることであろうか。これは、自己の存在を否定されることへの反応である。地位や名誉を誇示したり、既得権益にしがみつくのも、自己の存在意義を求めているのだろう。こうしてブログを書くのも自己の存在を確認しているのかもしれない。したがって、充実とは、自己の存在を確認できる瞬間ということになろう。そして、自己の存在を無意味と結論付ければ、自ら命を絶つ。人間は、自己の存在という実存証明のできない概念を追いかけながら、そこになんらかの意味を持たせたいと願って生きている。
「存在」を基底認識とするならば、「時間」もまた、基底認識に限りなく近い位置にあるような気がする。人間は、あらゆる存在を時間の流れの中で認識しているように思えるから。時間を抽象化すると、過去、現在、未来で集約できる。ただ、現在だけが瞬間という特異な性質を持っている。認識は現在という瞬間にだけあり、精神はその瞬間しか味わうことができないのに、過去と未来を意識しながら、現在の存在位置を確認する。しかも、過去と未来は永遠に感じる。両者の性質は完全に異なり、過去は悲しみと失望で暗く、未来は繁栄と喜びで明るい。おまけに、過去は片時も休むことはなく未来を抹殺し続ける。昨日はおとといの未来であり、明日はあさっての過去であって、結局は同じものなのに。突然人生の岐路を向かえると、その重要さにも気づかず、後になって準備が整っていなかったことを悔やむ。おまけに、神は「おとといおいで!」と囁きやがる。これを「後悔先に立たずの原理」という。
本書がカントの主張をちりばめながら論究しているあたりは、カント哲学を前提にしているのだろう。カントが純粋主観を存分に堪能させてくれるのに対して、ハイデガーは客観を混ぜながら味付けする。前者はモルトの味わい深さを語り、後者はブレンデッドも負けていないと語りかける。だが、結局、客観の限界から主観に引き戻される感がある。やはりモルトかぁ。いずれにせよ、哲学するとは、美味い酒を飲むことに違いはなさそうだ。カントは、認識の第一歩を「関心」で語った。ハイデッガーは、実存認識の第一歩を「気分」で語る。ちなみに、アル中ハイマーは、それらを「気まぐれ」と呼んでいる。

カントは、純粋な認識を「空間」と「時間」だけで説明し、「ア・プリオリ」という言葉を登場させた。ハイデガーは、更に掘り下げて、空間性よりも時間性を崇高な地位に置きつつ、実存性に時間性を加えた「現存在」という言葉を登場させる。そして、「現存在」の本質的目的は、良心を持とうとする意志と死へ向かう存在によって規定されるという。ただ、実存の概念が説明できないのに、その終焉である死の概念を説明できるはずもない。
おいらの感覚では、すべての認識は精神の中で空間イメージとして意識しているような気がする。ボトルという空間の中で酒が存在するように、すべての存在認識は、なんらかの空間を前提している。数学の方程式や命題を理解しようとする時も、独自の空間イメージを想像しながら思考している。ただ、肉体や物体は空間の中で物理量として測れるが、精神の実体を測ることはできない。現実に、強烈なアルコール度数は実存空間を崩壊しやがる。となれば、精神に空間的イメージが無くても、なんらかの認識ができるのだろうか?
本書は、存在認識の根底に時間性があると主張する。精神から時間性までも奪ってしまえば、認識すらできないのだろうか?すべての事象は時間性という無常の中で存在するのだろうか?いや、そうとも言い切れまい。何かに集中すれば、精神はフロー状態となって、無我の境地のような心地良い気分になることがある。これは時間が無と化す現象のように思える。しかし、崇高な無限を感じる瞬間と説明できなくもない。時間ゼロも無限時間も一種の時間性であり、本書の言うように、精神は時間性に支配されるのかもしれない。精神病患者が時間の断絶によって分裂症を起こす現象も、通常の人が時間の連続性を認識するのに対して、離散的に認識しているという説明ができるかもしれない。では、精神の持つ純粋量を時間性だけで規定すれば、果たして精神の存在を説明できるのか?本書は、それで完結するわけではない。訳者細谷貞雄氏の後書きの言葉は印象的である。
「卓越した著作というものは、それが未完結のままであるときには、完成した著作とはことなる一種特有の衝動を読者に与えるものである。」
本書は、様々な立場から解釈がなされ、様々な評価と批判が試みられてきたという。その真意は、依然としてモザイクのままだ。あらためて哲学とは、無責任に問題提起をしながら、完結できない学問であることを知らされる。すべての学問が、そうした性格を持っているのかもしれないが...
哲学という一見高度に見える学問は、生きる上であまり役に立たない。この学問は苦悩する具体的な問題に何一つ答えてくれない。論理的な解明を深めようとすると鬱病にさえなる。だからといって、それ以上に何ができようか?自己にとって重要なのは「生き方」である。人間は、自己の存在に重みがあると信じながら生きている。ハイデガーは、このような人間の有様を「現存在」と呼んでいるのだろうか?本書は、ひたすら「現存在」について言及を繰り返す。実存論は、盲目なパラドックスと不条理との衝突で挫折するか、あるいは、ご都合主義の一人合点で空転するよりほかはないかのように。「現存在」は、自己の存在を了解しながら宇宙空間と慣れ親しむ。そこに理論的な洞察を必要としない。目の前の純米酒の存在に、理論的な意味など必要ないのだ。味わい深い酒を求めてとか、癒しの空間を求めて、なんて理由はいらない。五感を総動員させて精神と戯れたいからなどという御託もいらない。アル中ハイマーが実存論の本質を語るとすれば、「そこに酒があるから」と一言で片付けるのであった。

尚、以下は、難解な文章に、泥酔者が勝手な解釈を加えた結果である。

1. 現存在
哲学の「存在」は、原子のような物理学的な存在を問題にするのではなく、生への問い掛けを探求する。精神を生物学に組み込んだところで、なんの埋め合わせにもならない。精神は、ただ「生きているだけ」では説明がつかないのだ。本書は、現存在の構成要素は「世界 = 内 = 存在一般」であるという。世界の内とは、空間を意味し、現存在とは、空間で互いの存在を意識し合う存在者といったところだろうか。ただ、空間の存在は物理的な存在であり、客観的事実あるいは客体である。それが認識の中で、主観的あるいは主体と混ざりながら、精神という得体の知れない存在者が浮上する。得体が知れないから霊的な洗脳も現れる。精神が単純明快な構造であれば問題にもされないだろう。だが、人間は得たいの知れないものに憑かれる習性があり、おまけに錯覚や誤謬を犯す。誤謬認識は、信じている間は正当化され、もはや、現存在を客観性だけで説明することはできない。主体とは、人間が精神を獲得した時点で成り立つ概念と言ってもいいだろう。自分がそこに居るということは、環境を含めた主体として認識される。人間が主観的思考が強いのも、自らの存在意義を認めたいという欲望が働いているだけのことかもしれない。精神を持つということは、他から差別して自己の優位性を保ちたいと願う一種の自己主張なのかもしれない。生存競争に勝利したいという一種の自己防衛なのかもしれない。思い上がった時に一種の解放感のような喜びを感じるのも、快感を求める本能なのかもしれない。とはいえ、この主体的認識を感情論だけで説明することはできそうにない。

2. 用具的存在者
人間は、あらゆる事物との関わりを認識する。関わりとは、有用性や利便性といった意識である。対象が人間同士であっても、自己の都合によって道具としての認識が働く。道具の持つ性格は、それが持つ属性にかかわるもので、客観的に存在する。人間は、道具の属性という知識を持っている。だが、それを用いる時、主観的な認識が介在する。道具は、優れたアイデアによって使われて、はじめて能力を発揮する。道具は、しばしば製作者の意図と反する使われ方をする。数学は客観的な道具であるが、科学や工学で用いられる時その使い方までも意図されるわけではない。古代数学者は、素数の発明が暗号化アルゴリズムに使われるとは考えもしなかっただろう。まさか、占いの手段が、コンピュータ工学に利用されるなどとは思いもしなかっただろう。太陽という天体は、日常生活に明るさや温かさを提供し、現在ではエネルギー資源となる。つまり、人間は自然の存在物ですら道具と見なしてきた。自然に芸術性を感じるのも、精神を癒すための道具と解釈することができる。客体は、精神の中で主体と結びついてこそ、その威力を発揮すると言ってもいい。本書は、人間認識で「主観 = 客観 = 関係」を前提しなければならないと主張している。

3. 死に臨む意識
実存を語るには、実存しない状態を考察してみるのもいい。そこで、人間が必ず直面する問題に死がある。この絶対的な存在に代理人を立てることはできない。しかし、自らの死を認識するには、その瞬間の前後を認識できなければならない。現在という瞬間は、過去と未来に挟まれながら連続性で認識されるのであって、もはや自らの死を語ることは不可能であろう。ただ、他人の死から肉体の残存を観察すれば、客体的に体感することはできる。とはいっても、人間の実体を肉体のみで説明することはできない。死の解釈は様々である。影響力のある者は、死んでもなお人々の心の中に生き続ける。こうした心情は、実存論と言うよりは、むしろ信仰に属すのかもしれない。学問においても死の解釈は異なる。生物学では、死は生命現象の一つであり、その人の生きた証は遺伝子構造で受け継がれる。歴史学では、人物の残した功績が伝えられる。神学では、呪術や霊感といった力を発揮する。いずれにせよ、人間世界における勝手な解釈に過ぎないが、最も客観性に近いのは生物学的な解釈であろう。ならば、実存も生物学的に解釈するのが自然に思える。だが、人間認識は極めて主観的な領域にあるから厄介なのだ。死の概念が客観的になれないのは、死人の立場を語れる人間がいないからであろう。人間が死について最も親身に語れるのは、自らの死が迫った時だけかもしれない。人間は自らの死から逃れられない。だが、精神的に死の意識から逃れることはできるかもしれない。悔いのない人生を送ろうと考えるのは、死に臨む意志を示している。老人病とは、自らの死を恐れず、自然を受け入れる度量を身に付けることかもしれない。「生きる」とは、自己の死を受け入れる精神修行の場と言えよう。死を覚悟できた時に真の幸福が得られるのかもしれない。命を賭けられるものが見つかれば、幸せになれるだろう。
本書は、「時は過ぎ去る」と言うのに、「時が発生する」と言わないのはなぜか?と問い掛ける。人間は不快な状態があれば、「時間よ去れ!」と念じ、不快が永遠に続くと思い込めば、墓場で安住したいと考える。人生とは、死までの暇つぶしであり、生き甲斐とは、死の恐怖から逃れる手段というわけか。

4. 良心の呼びかけ
第三者から呼びかけられるような存在を感じることがある。これが良心というものか。カントは、道徳形成において、自己の中で立法的な立場のような認識が主導すると語った。それは、良心の呵責とでも言おうか、自己を客観的な立場に置こうとする意志である。人間は、主観性によって精神が暴走することを、本能的に知っているのかもしれない。人間精神には、自らを談判する機能が具わっている。同時に、良心的意志には、世間体を気にしながら自己を客観的に装う見栄もあるのだが。孤独を求めるのも、精神の中の第三者に相手にしてもらいたいという意識が働いているのかもしれない。あるいは、孤独を感じながら世間の中の位置付けを客観的に確認しようとしているのかもしれない。こうした意識は、自己への関心によって生じるのだろう。人間は寂しがり屋なのさ!人間は、あらゆるものを批判しながら、愚痴を言いながら、勝手な能書きを並べながら、自己の存在を確認しているのだろう。精神は自己の立法権を有し、最高裁のようなものを自己の中に形成する。これが理性というやつか?
本書は、良心の呼びかけは、了解の意識が働いている証だという。良心の呵責を感じるのは、そこに「負い目」があるからであろう。では、誰が負い目を告げるのか?宗教家は平気でそれが神であると答える。なるほど、精神構造をすべて神のせいにすれば楽になれる。そして、犯罪も残虐もすべて神のせいにできるわけだ。義務とか責務の根源は、自己の実存認識からくるように思える。つまり、自らの存在を無意味にしたくないという欲望に過ぎない。存在とは、重荷なのか?良心の根源も、負い目であり、重荷なのか?精神を持つこと自体が重荷だとすれば、キェルケゴール的な絶望が見えてくる。人間は恥ずかしい過去を隠しながら生きている。自虐的な精神も一種の呼びかけであろう。自虐的な心は、良心の存在を確認しながら精神に一種の平穏をもたらす。ただ、度が過ぎるとノイローゼになる。良心は、前向きにも後ろ向きにも警告を発する。良心の自己満足と、良心の呵責によって。絶対的な価値観を見出すことが不可能であれば、相対的な価値観に頼るしかない。そして、他人よりも優れた認識の持ち主であることを競う。その認識を知識や経験で武装する。したがって、知的生命体が精神を持つということは、欲望の度を増すことになろう。そして、究極の知的生命体は悪魔へと進化するだろう。神は退屈しているのかもしれない。神は、悪魔という永遠のライバルが登場するのを酒を飲みながら、のんびりと待ち受けているのかもしれない。

5. 認識の歴史性
「歴史とは、実存する現存在の、時間のなかで起こる特殊的な経歴であって、そのさい相互存在のなかで過ぎ去りかつ同時に伝承されてきて、今日なお影響しつづけているものが、とくに強い意味で歴史として受けとられるのである。」
歴史は時間的存在者であるという。つまり、経験したことや、過去の出来事もまた、認識の中で存在し続ける。
「死へ臨む本来的存在、すなわち時間性の有限性こそ、現存在の歴史性のかくれたる根拠である。」
歴史が優位性を保つのは、既成事実だからであろう。既成事実は了解して覚悟するしかないのだから。なるほど、女性から「できちゃった!」と告白されれば、男性は沈黙するしかない。そして、自らの実存性を否定しながら法律的に処理する。つまり、法律とは、実存論者の避難場所というわけか。
現在の評価、あるいは位置付けは、歴史に照らして判断される。それは、現在のその瞬間が絶対的な存在ではなく、過去と未来の間で相対的に存在するからである。したがって、理念構築は、経験の積み重ねを前提するしかない。未来予測は、現在の瞬間から予測されるのではなく、過去からの流れから予測される。ニーチェはその著書「反時代的考察」で、好古的、批判的、記念碑的という三つの様式で歴史学を区別したという。なるほど、歴史の解釈には、擁護派と批判派とその中間派で争われる。この三重性で、どれが正しいかを判断することは難しい。ただ、歴史の解釈が多数決で決定付けられるならば、誤謬を犯すことになる。そうなると、おそらく誤謬すら認識できないだろう。ここに歴史学の有害性が現れる。
人間は過去の出来事を忘れても、記憶の欠片の中で時間性を持たせる。記憶違いで前後することがあったり、連続性を失い離散的になっても、不都合を感じないように埋め合わせる。痴呆症を怖れるのは、時間性を失うことを自我を失うことと同じと考えるからであろう。自己喪失とは、自己の時間性を失うことかもしれない。だとすると、記憶が部分的に失われても、時間性を保つために、何かで埋め合わせできれば精神病にならないのだろうか?自我の本質とは、時間性にあるのかもしれない。なんとなく自我(じが)と時間(じかん)には同じ音律を感じる。

6. ヘーゲルの時間的解釈
「歴史の発展は時間のなかへ落ちる」
ヘーゲルは、時間が精神を収容しうるものとして解釈しようと試みたという。アリストテレスの「自然学」では、時間は場所と運動に連関するとし、ヘーゲルはこの伝統を受け継ぐようだ。ただ、ヘーゲルは、時間と空間を並列的に一括したわけではないという。つまり、空間の存在は時間に規定され、空間よりも時間の方がより崇高ということらしい。だが、物体は空間の中で存在しうる。物体である肉体は、宇宙空間の中でしか存在しえない。もし、精神が肉体を離れ死を超越した存在であれば、それは時間の中で存在するのであって、もはや空間など、どうでもええことになる、などと言えば宗教家は喜ぶだろう。精神は、時間を客観的な存在者と認識しているのかもしれないが、主観的に認識しているところが大きい。だって、ホットな女性と空間を共有すれば、時間は思いっきり短く感じるではないか。いや、アインシュタイン的に言えば、女性の発する電磁波効果で空間が歪み、本当に時間は短くなっているかもしれない。
ヘーゲルは、精神が時間という絶対者に支配され、その中へ落ちていくと言っているのか?言い換えれば、時間を凌駕しない限り、真の精神が宿ることはないということか?んー、よく分からん!ということで、購入予定リストにヘーゲル哲学を加えておこう。

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