ずーっと前に、ソシュールの入門書らしき本を読んでモヤモヤしたまま。現代言語学の方向を決定付け、記号論の祖とされるこの人物の構想は、あまりにも壮大に映るので断念していた。
しかし、気になってしょうがない。言語は精神を写しだす鏡であり、ここをインターフェースにしなければ伝達能力を機能させることも難しい。あらゆる学問においても言語という手段は避けられないはず...という思いが頭のどこかにある。
そしてある日、本屋でぼんやり散歩していると、ソシュールについて熱く(厚く)語った書に出会えた。だからといってモヤモヤ感が解消されるわけではないが、考え方の方向性のようなものを見せてくれる。そろそろ「一般言語学講義」に挑んでみるか?もはや泥酔者の衝動は止まらない。
「ソシュールの学問において、広く浅い総花的知識と、深く狭い専門馬鹿的知識が対立することはない。」
学問を深く掘り下げると、広い視野が求められ、自然に道も拡がるということか。逆に言えば、広い視野が求められなければ、研究レベルが浅いということか。実に羨ましい見解である。
「一切の文化的営為や社会的諸制度の根底をなすものとして捉えたコトバの本質を探ることが目的とされるが故に、これはひとり言語学にとどまらずすべての文化現象を対象とする人間科学にほかならぬ。」
言語学をどの学問に分類するかは難しい。表現の方法論という観点から文学に関わり、民族の固有性から文化人類学にも関わる。コミュニティでは自分たちの操る言葉が最も優れていると思うだろうし、その意味では宗教的ですらある。ただ、伝達機能としての役割が大きいので、社会学に属すとするのが一般的であろうか。
この学問は、理系や技術系とあまり関係がないように思われがちだが、あらゆる学問において専門に特化した合理的な表記法が考案されている。数学で用いられる記号文化は、言語学の典型的な抽象概念の一つの実践例と言えよう。また、近年欠かせないコンピュータではプログラミング言語という観点から深い関わりを持っている。現実に文系出身のプログラマーは多い。
言語学は現実を直視する学問であり、純粋科学というよりは経験科学の領域にある。したがって、その分析方法では、公理から出発して定理を演繹するというよりは、現実から出発して帰納法的に定理らしきものを発見していことになろう。言語体系の原理を言語で示そうとするところに、自己矛盾に陥る可能性を匂わせる。そこには、プログラミング言語が、その言語自身の処理系を書けるほどの表現力を持つような、いわゆる自己ホスティングのような関係がある。
ところで、言語に対する根本的な考え方は、大きく二派に分かれるであろう。教説的で道徳を厳しく説く人は、国語辞典を聖書のように崇め、言語の変化を国語の乱れとして嘆く。一方、自由で芸術的な思考の強い人は、国語辞典の束縛を厄介に感じ、言語が生き物のように変化するのは自然だと考える。どちらも一理ある。法律の条文に様々な解釈がなされれば社会秩序は乱れるだろうし、だからといって言語の変化を認めなければ精神の解放を妨げるだろう。どちらを好むかといえば、泥酔者は自由精神的な後者である。だって道徳的抑制がきかないのだから...
言語の発達は、歴史的で慣習的で社会的な背景から育まれてきたと考えるのが一般的なように思われる。言葉の起源は、極めて自然的な発声から始まったに違いない。そして、言語学の分析論では、まず言葉を最小単位で区分し、カテゴリー化して言葉の構造を体系化していくといった方法を想像してしまう。
ところが、だ!ソシュールは歴史言語学を批判する立場にあるという。もっとも伝統的な経験主義や主知主義に偏った風潮に対する批判のようだが。まったく過去との結びつきがないというのではなく、現在との結びつきの方がはるかに強いというニュアンスであろうか。
また、言語を数学的な最小単位で区分できると考えるのは幻想だとしている。最小単位を合成して体系化されるのではなく、単位そのものが内面を持ち体系を形成しているという。言語の単位系では科学のような単純な元素構造はありえないということか。必ず精神と結びついて対をなすということか。
「言語を思考と表現の道具と見做す考え方は、言語を自らに外在する意味や概念を表現する外的標識として捉える主知主義に陥る危険性をはらんでいる。」
ここには、言語と精神の不分離性のようなものが語られていて、なんとなくモナドロジーにおけるモナド自体が体系を成すような、アリストテレス的な精神体系を思い浮かべてしまう。確かに、どんな言葉でも意味を持つであろうが、そこに自立性のようなものを感じることがある。言語が精神と深く結びつくとすれば、言語体系が精神体系に近い状態にあっても不思議ではないのだけど...
「コトバは観念の表現ではなく、観念の方がコトバの産物である。」
ソシュールの言う言語の体系化とは、精神の体系化という構想を見据えているのか?少なくともカテゴリー分析論で語れるほど単純な学問ではなさそうだ。
1. 恣意性の原理
最も重要な概念は、あらゆる場面に登場する「恣意性の原理」であろうか。言語学を科学すると宣言しながら「恣意性」が重要とは、なんとも奇妙な話である。ここでは「自然的必然性」に対して「文化的必然性」という言葉で説明している。
言葉は自然な発声から生じたとしても、集団社会の中で恣意的な規定によって発達してきた。言語は共通認識を育んできた。動物の鳴き声を表現するにしても民族によって多様性が生じ、そこに自然法則なるものがあるかは疑わしい。ちなみに、ここで言う「恣意性」とは、「自分勝手な、気ままな」という意味ではない。社会集団が実践的に用いる法則としての必然性であって、自然の中に見出す必然性ではないということだ。人間自体が自然的存在ではあるが、あえて区別しなければ精神を相手取る学問は成り立たないのかもしれない。
言葉の理解は人と人の間の契約であり、もやは言語は社会制度の一つとして機能している。その一方で、言葉を操ることによって新たな境地へと導き、自由な精神を解放してきた。「恣意性」は精神と言語の深い関連性を示す用語として用いられているが、これこそが言語学の本質なのかもしれない。
2. 言葉の意味と価値概念
言語研究のアプローチでは、「共時的研究」と「通時的研究」の二つの方法を唱えている。それは、言葉の意味や意義は価値概念と深く結びつくとし、価値体系を扱う学問分野であれば必然だとしている。この学問のあり方を、比喩的に経済学が経済史と区分する状況と重ねている。しかし、経済学はそれを完全に分離したために、奇妙な価値概念を生み出しているように映る。というより、歴史をあまりにも疎かにしてきたからであろう。対して、言語学は歴史に囚われ過ぎる傾向があるのかもしれない。
ここで注目したいのは、言葉の意味や意義に価値概念を適用していることである。ソシュールの体系は、何よりもまず価値の体系だという。その価値は、言葉の相対的な意義によって決定される。経済学の価値概念では、資本や労働などを間接的に算出して、貨幣価値で測定する。言語学の価値概念では、精神の内にあるものを言葉で間接的に表現して言葉に価値を与えている。言葉を伝達手段とした場合、言葉の意義はそのまま情報の価値となり、情報量という意味合いを持つことになる。なんとなく情報理論にも通ずる。まさしく、精神の内にあるものと言葉の意義が結びついた時、言葉に力を与える。
実際に外国語を翻訳する時、単純に単語と単語を変換するだけでは、的確な意味は形成されない。全体像を眺めながら、恣意的な解釈をしながら、記号や語を体系の中で考察する必要がある。もっと言うならば、文化的背景までも考慮する必要がある。ソシュールは、言葉の意味と価値は同義語ではないという立場をとるという。
「価値は、概念の角度からみると、うたがいもなく意義の一要素であるが、後者は、前者に依存しておりながら、どうしてそれと区別がつくかを知ることは、すこぶるむずかしい。」
価値は意義に含まれながら、意義は価値に依存する?既に自己矛盾に陥っているような...「価値が見いだせるから意義がある」とも言えそうだが、ほとんど言葉遊びにも見える。言語の本質とは、言葉遊びなのかもしれない。
3. ランガージュとラング
「言葉」という表現は実に多義的である。それは多国語から詩に至るまで。だが、人間はそれを即座に直観的に分類して認識できる能力を持っている。
ソシュールは、人間のもつ普遍的な言語能力、抽象能力、分類能力、およびその諸活動を「ランガージュ」と呼び、個別共同体で用いられる多種多様な国語体を「ラング」と呼んで峻別したという。一般的には、ランガージュは「言語能力」、ラングは「言語」と訳されるようだが、そう単純でもなさそうだ。ラングには、時代とともに微妙に変化する性格があり、ランガージュには、精神の普遍性とラングの微妙な変化に追従できるような性格があるとでも言おうか。ランガージュは集団社会が存在してはじめて機能するもので、顕在的社会制度としてのラングが対比的に位置付けられる。つまり、ランガージュの潜在的能力に対して、ラングは社会的産物であり記号的制度ということのようだ。ランガージュは、人間のもつ生得的な潜在能力であって、一切の文化的営為を可能にするという。
4. ラングとパロール
ラングの顕在性は物質性ではないという。確かに、言葉は意味と結びついて精神の内に認識されるのであって、物理的実体とは言い難い。音声の組み合わせ、語と語の結びつき、語の持つ意味などには、一定の規則があり、ラングはその規則の総体として存在する。人の解釈は、言語を中心に思考が組み立てられ体験的に構築される。その意味で超個人的とも言えよう。となると、研究対象としてのラングと、個人の言語行為とを同一視するわけにもいくまい。
ソシュールは、能動的な個人的意思を「パロール」と呼び、受動的な社会的行動としての「ラング」と区別しているという。それは、社会的言語能力としてのランガージュを組織しながら、社会的コードであるラングで実践するといったところか。
フランスの言語学者マルティネは、「メッセージ」と「コード」の概念を用いているという。コンピュータプログラムを書く人には、こちらの用語の方が親しみやすいかもしれない。
情報が送り手から受け手に渡るためには互いに解読できる共通コードが必要であり、日本人にとっては日本語がラングということになる。更に、言葉に含まれる深い意図まで解釈しようとすれば、文化的な共通認識が必要となる。
ただ、ラングとパロールを社会的と個人的で区別したとしても、その境界は曖昧にならざらるをえないだろう。個人的な主観性が入りこまないと深い解釈は得られないし、社会的な客観性が共通認識になるとは限らず、ほとんど多数決的に処理される。よって、ラングとパロールは相互依存関係ということになりそうだ。
本書は、すべての言語上の革新は、パロールにおいてのみ可能になるという。パロールによって変革され、ラングによって規制されるといった関係か。あらゆる発展的現象の源泉は、個人の領域にあるというわけか。
ところで、ソシュールは、パロールの重要性を指摘しながら、「一般言語学講義」ではほとんど扱っていないという。また、「共時言語学」と「通時言語学」の双方の重要性を唱えながら、通時態を言語学の対象から外しているという。いずれも、らしくない。パロールは感情的でもあり衝動的でもあるので、科学的分析では避けたいのは分かるが。精神的なものと物理的なものの関係が、必ずしも潜在的なものと顕在的なものになるとは言えないだろう。こうしてみると、ランガージュとラング、ラングとパロールの境界も微妙だ。それは、主観と客観の境界を模索しているようなもので、古代から未解決のままの哲学の問題に踏み込むことになろう。
5. 記号理論とシーニュ
ソシュールの言語学で最も特徴づけられるのが、独創的な記号理論にあるという。「シーニュ」とは、言語の最小単位のようなもので、一般的には「記号」と訳されるようだ。その性質は、「表現(シニフィアン)」と「意味(シニフィエ)」が一体化したもので、その不分離性を唱えている。
古来、哲学は言葉の定義から始める。すなわち事物の名称目録という考え方が根底にある。
ところが、ソシュールは伝統的な言語名称目録観を否定しているという。確かに、百の記号が百の意味を表しているわけではなく、複数の語から文章としての意味的体系が形成される。語と語には相互関連性や、一つの語が他の語の意味に取り囲まれて構成されたり、一つの総体として成り立っている。言葉は明確に区分されたり、分類されているわけでもない。
ということは、概念があって言葉が結びつくのか?言葉があって概念が生まれるのか?あるいはその両方なのか?知識至上主義に陥れば、あらゆる知識に言葉が結びつくと考えるだろう。だが、言葉が生まれて、初めて概念に結びつく場合もある。現実に、高度化した仮想化社会では、専門家ですらまともに説明できない新語が続々と生まれ、後から概念が結びつくという現象がある。しかも、誰もがなんとなく分かった気になって流行語を追い、意思疎通ができていると思い込んでいる。人間社会とは、実に不思議な世界だ。
自明な名詞に、動詞や形容詞や副詞などが取り巻いて、総合的に意味や概念を形成する。名詞と名詞が結びつくだけでも、別の意味や概念を形成する。そこに、客観的で普遍的な物理現象のようなものがあるとも言えない。しかし、社会で共通認識が生じるということは、なんらかの概念化や構造化があるはず。少なくとも、同一言語を操るコミュニティごとに一つの世界観を形成しているだろう。そして、合言葉や暗号のように仲間内でしか理解できない語を用いて、自己の存在を確認していることだろう。
言葉は、認識の後にくるのか?認識の前にくるのか?あるいは同時に起こるのか?ソシュールの考えでは、「主体の言語意識に純粋な観念なるものは存在しない」という。ここには、言語の創造性の原理と人間の本質的自由をめぐる考察がありそうだ。シーニュをうまく理解できれば、普遍文法などと言うものを追いかけることが馬鹿馬鹿しく思えるのかもしれない。
6. シニフィアンとシニフィエ
「言語記号は、表現と意味を同時に備えた二重の存在である。」
二重とは、「シニフィアン」と「シニフィエ」である。前者は「意味するもの(表すもの)」(現在分詞)で、後者は「意味されるもの」(過去分詞)としている。この似通った言葉を使ったことで、相互依存性を強調したかったようだ。シニフィアンは物理音でもなければ既成の意味の鋳型でもなく、シニフィエはその鋳型に流し込まれる中身ではないという。ちなみに、シニフィアンを単純な物理音や表記とする誤謬があると指摘している。
更に、シニフィアンとシニフィエのそれぞれに「形相」と「実質」の性質があるとしている。言語としてのシーニュが誕生する時は、相対的に差異を認識するような主体の活動が、歴史的に慣習的に容認する恣意性の原理によって、シニフィアンとシニフィエの合体したものが形成されるという。そして、シニフィアンとシニフィエの不分離性を唱え、その双方には実体がないとしている。シーニュは、シニフィアンとシニフィエから構成されるというより、シーニュは同時にシニフィアンでありシニフィエであると言った方がいいのかもしれない。そして、シーニュが基本単位ということになろうか。シニフィアンとシニフィエは魂と肉体のような関係であろうか。
7. 形相と実質
「形相(フォルム)」は形式と混同されがちだが、「実質(シュブスタンス)」の対立概念であるという。他の語との関連から、共存や緊張関係とはまったく関わりのない実体であれば、その語だけで定義することができるだろう。しかし、ソシュールは、無関係に存在することはありえないという立場をとる。ここでは、表現と意味が対比されるように、形相と実質もまた対比される。シニフィエに意味的優位性を抱いているわけでもなければ、シニフィアンに物質的幻想を抱いているわけでもない。双方に形相と実質がともない、いずれも相対的な価値のうちに存在するとしている。言語記号は、形相と実質という異なった側面の間で精神が樹立する連合のようなものというわけか。
例えば、「イヌ」と「イス」、あるいは「犬」と「大」は、まったく違った意味で認識できるのはなぜか?この差異の問題は、言語の本質に関わるという。人間は、物事を形相と実質の両面から、同一性と差異を認識している。その現象は、どちらも心的であり主体の中にある。この認識概念を「聴覚映像」という言葉を使って説明している。「聴覚映像」は物質音ではなく、心的な音のイメージとでも言おうか。同時に文字や記号の形から、視覚映像のようなものを思い描くだろう。形相の視点は、言語主体において実質の差異との対立として意識されるという。それは、言葉は相対的な価値において存在するのであって、そこに実質的な価値はないということであろうか。
貨幣は、材料によって価値が決定されるのではなく、社会的認識によって価値が与えられる。言語も同様に、音声的実質ではなく、心的に結びついた価値で認識されるといった感じであろうか。厳密にはシーニュが存在するのではなく、シーニュの間に差異があるだけ、すなわち「言語には差異しかない」ということのようだ。それは、言語は人間の認識の産物に過ぎないと言っているのか?
8. 外示性と共示性
外示性と共示性の関係で分かりやすい例を紹介してくれる。刺されそうな例題ではあるが...
アメリカの意味論者ハヤカワは、ドイツのナチス全盛時代によく口にされた「ユダヤ人はユダヤ人さ」という文章で内包的意味、つまりは、共示を説明したという。「ユダヤ人」という言葉が二度使われ同じ意味で用いるのであれば、これほどつまらない文章はない。「AはAである」と述べているに過ぎないのだから。
しかし、一つ目は「ユダヤ民族に所属する国民」という外示という意味で使い。二つ目は「けちで、ずるく、不正直な人間」という共示の意味で使っていた。つまり、「AはBである」と述べいてる。この文章は、共通の価値観が介在しないと成立しない。これこそ恣意性の原理であろうか。
2011-02-20
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